飫肥糺 連載140 のびのび・せつなく・たくましい。 豊かな純粋表現がうったえる学童詩54篇(『一年一組 せんせい あのね』 鹿島和夫/選 ヨシタケシンスケ/絵 理論社)

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たましいをゆさぶる子どもの本の世界 140    飫肥 糺

のびのび・せつなく・たくましい。 豊かな純粋表現がうったえる学童詩54

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せんせい

にんげんは なんのためにいきているんですか

ぼくは

たっぷりあそんで たのしむためだと おもいます

せんせいはどうおもいますか   (「にんげん」:えぐさたくや)

 

発話の主は小学一年生の少年。いいなあ。この、自由でのび゛びした言葉のつらなり。そうだよな。子どもの学びは遊ぶことからはじまるのだ。老年となって子ども時代をときおり回想するぼくは、しみじみとそう思う。

こんなふうに語りかけられた現在の先生は、どう応えるのだろう。活き活きした言葉に押されて、「そうだよねえ」とでも応えるのだろうか。それとも、「遊んでばかりじゃだめだ……」とか、子らの自由を制限するような言葉を放つのだろうか。幼児や学童の吐くひとことやつぶやきは、虚飾のまったくない純粋表現である。定型をもたない珠玉の詩ではないかと、ぼくは思う。

選者は子どもの表現活動にすぐれた教育実践をかさねた名高い元・小学校教師。一年生を担当することが多かったという選者は、永く、子どもたちの発することばの数々を「あのね帳」に記録しつづけて14巻もの児童詩選集を完成させている。つぎのような心にしみるつぶやきもある。

 

おかあさんがしごとにいっているから

学校からかえって「ただいま」といっても だれもこたえてくれない

でもわたしのこころの中に おかあさんがいるから

へんじをしてくれる   (「ただいま」:よしはらきよみ)

 

少女は学校から帰るといつも玄関で「ただいま」と声をだす。けれど家には誰もいない。心の中に母親の声を聴くという。まだ一年生という少女の心情、せつない思い。けれどそれにたえるたくましさをにじませる少女の言葉に胸を打たれる思いとなる。共働き家庭が一般的となった令和の現在、多くの家庭で親不在の留守番役を学童たちが担う。

学童らの声は言葉となり詩を奏でる。『一年一組 せんせい あのね』 の詩は54篇。多くの読者にすっかり馴染みとなったヨシタケシンスケの親しみやすいイラストを瀟洒なデザインで配している。

どの詩にふれても、「あのね」のつぶやきは素朴で鋭い言葉となって読み手の心に突き刺さる。かれらの思いや世を観察する目や耳のするどさに目を見張るばかりなのだ。

一方で、子どもたちの貧困や児童虐待の状況は深刻だ。行政も迷走をつづける。埼玉県の自民党県議団提出の虐待禁止条例改正案は悪例の極みだった。あたりまえのことだが、健康・保護・生活水準などについて子どもたちには基本的人権が存在する。遊ぶこと・学ぶことが子どもに欠かせない権利であることも自明の権利だ。子どもだけの登下校や留守番、幼児を置いてちょいとゴミ置き場にゆくことも放置にになり虐待だとする無茶苦茶な思考がどこから出てきたのか理解不能ではないか。こんなことが条例制定されてなるものかと県民たちが各所から反対ののろし……。さすがに条例案取り下げとなった。親と子どもを追い込むこんな無茶な行政施策を許すわけにはいかない。

だからだろう。純粋でしたたかな学童たちは、希望をこめて、大人たちをしっかりと諭す。

 

こどもはいつかおとなになるのでしょう

おとなはむかしこどもだったんでしょう

みんな そのときのきもちを 

たいせつにしてもらいたいなあ   (「こども」:いわはまえりこ)

 

それでも、天性で、跳ね、あそび、まなぶ子どもたちのことだ。素朴な感性を発揮して純粋に自然を愛でている。

 

きがかぜにのっていました。

はっぱがいっぱいありました。

だから おんがくになるのです。   (「き」:やまとなおみ)

 

すばらしい感性ではないか。ぼくも、子どもが諭すように童心をいくらかなりと取り戻して、自由な風趣を感じとれることばをつぶやきたいと思う。(おび・ただす)

 

『一年一組 せんせい あのね』

鹿島和夫/選

ヨシタケシンスケ/絵

理論社

 

飫肥糺 連載139 被爆者をうわさごとにしてはいけない。被爆国の日本の実際 『うわさごと』

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たましいをゆさぶる子どもの本の世界 139    飫肥 糺

被爆者をうわさごとにしてはいけない。被爆国の日本の実際『うわさごと』

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1980年8月6日、ぼくは原水禁世界大会に参加した。祈念式典では荒木武広島市長が「平和宣言」、被爆者援護法制定を求め、第2回国連軍縮特別総会に向けて平和首脳会議の開催を提唱する。大会会場では、四国五郎が、「あなたのとなりをみてください/ヒロシマの子はいませんか/ヒロシマの子はすんだヒトミであなたの顔をじっとみつめています……」と、自作の詩を哀切に朗誦して参加者の涙をさそった。

2017年、国連加盟122か国が賛成して「核兵器禁止条約」が成立する。しかし、核状況は一変する。

2022年、ウクライナに侵攻したロシアが核使用をちらつかせだしたのである。こんな状況を憂えてか、原爆投下78年の今年。松井広島市長は「世界中の指導者は核抑止論が破綻していることを直視すべきだ」と「平和宣言」で強く訴えた。訴えはむなしくひびく、核抑止論を執りつづける大国の数々。核の傘を言いわけに被爆国日本も抑止論を執る。被爆者や多くの国民の痛切な声には聴く耳をまるで持たない。

絵本『うわさごと』は、終戦まもなく広島から被爆地でない土地にやってきた小学生ケンゴを登場させる。ケンゴは原爆で母や兄姉を失った。父は戦争に行ったままだ。で、遠い親戚の老夫婦のもとに。

『うわさごと』は、祖父(ぼく)が語り手となり、悪口を言いふらされてケンカしたという孫に自分の子ども時代のケンゴに関わる痛切な思い出を語り聞かす。うわさのもたらす厄介さを諭していくのである。うわさを言い交してその場をつくろう風習はときとしてあらぬ方向に向かう。特定人物の名誉を損なったり、うわさをたてた本人が信用をなくしたり。子どもたちのいじめの理由となることもあるだろう。

ケンゴにかけられたうわさは、「ゲンシ病をうつす。」という根も葉もないうわさだ。だれが言い出したかわからない。土地の子らから忌避される。いじめにあう。ケンカになる。ひどい話ではないか。

語りは祖父(ぼく)の一人称だ。(ぼく)の兄ちゃんがケンゴとケンカしたことからはじまる物語はたんたんとしたリズムで、読み手の心にしみいるような語り口。

兄ちゃんの「だって、みんな言っとる、広島の子だぞ」。この言い草に(ぼく)の父ちゃんは、「ジンピンゲレツ!」(人品下劣)と怒り、父ちゃんと兄ちゃんはバリカンで頭を丸める。ついでだからと(ぼく)の頭まで丸めて3人でケンゴの家へあやまりに……。「うわさごとに乗せられて、このアホタレ息子が」と畳に頭をつける父ちゃん。こんな父ちゃんのふるまいを、兄ちゃんと(ぼく)はどう思ったか、うわさを信じてしまう軽率さがいかに大事になることを知り、恥じ入る思いではなかったか、と思う。

こんなことがあって、(ぼく)らはケンゴの家族と親しくなる。学校で投げかけられる悪口にも動じなくなったが、ときに(ぼく)自身がうわさを流してしまう大失敗を起こす。自転車どろぼう騒ぎで、ちょいと聞いただけの話で”6年の誰それがどろぼうだ”と言ってしまい、ひどいしっぺ返しにあう。そうなんだ、人を傷つけるようなうわさは絶対にやってはいけないご法度なのだ。

作者・梅田俊作は、ケンゴが忌避されても、けっしてケンゴを卑屈には描かない。むしろ悲惨な体験を乗りこえて自立する強さを描き出しているのが胸を打つ。ケンゴは、転校前の先生から教えてもらった宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」を、難事にぶつかるといつもそらんじた。たとえば、……アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニイレズニ/ヨクミキキシ/ワカリ、ソシテワスレズ……を口に出して胸を張った。被爆者ケンゴはたくましい。賢治の詩魂をまるで自分の心性に落とし込むように……。

いじめや差別の淵源に、原爆投下の実際があるなんて、許されることではない。何度も読んで考えつづけたい作品である。(おび・ただす)

『うわさごと』
梅田俊作/文・絵
汐文社

 

飫肥糺 連載138 生まれてくる子どもだって、母親に早く会いたいのだ 『うまれてきてくれて ありがとう』飫肥 糺

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たましいをゆさぶる子どもの本の世界 138    飫肥 糺

生まれてくる子どもだって、母親に早く会いたいのだ
『うまれてきてくれて ありがとう』

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2022年の子どもの出生数は明治32年に統計を始めて以来最少の77万747人。はじめて80万人を割った。ひとりの女性が生涯に産む合計特殊出生率も7年連続で減少して1.26と史上最低に…… (厚労省人口動態統計)。少子化は加速する。

ぼくの弟ふたりは団塊世代の1948年・50年生。同年の生まれはいずれも270万人を超えた。戦後78年を経て日本の年間出生数は200万人も出生減となる。少子化進行は結果として高齢者比率を上昇させて高齢化社会も加速させる。

少子高齢社会は、社会的にも経済的にも国や社会をはげしくゆさぶる。年齢構成をいびつにする。家族形態、地域や学校、職場や働き方、介護など社会保障のありようもどんどん変容させる……。1970年代半ばから少子化問題は取り沙汰されてきた。しかし、掛け声だけで政治や行政は策をろくに講じないまま先送り。そのつけが今の今になって回ってきたということではないか。現在の政権も「こども未来戦略方針」案を示し異次元の少子化対策を行うぞと拳をあげるが果たしてどうか、掛け声だけで終わらぬよう、ぼくは希うばかりだ。

結婚も出産も個人の自由だ。決して強制されるものではない。個人の価値観は時代とともに変わる。さらに、少子化の背景には社会的経済的状況が強く広く横たわる。結婚したくてもできない、子どもを産みたくても産めないという人々を、日本社会はじわりと増加させてきたのではなかったか。日本社会は、人々が安心して結婚・出産・子育てできる環境を整えてこなかったのではなかったかと、つくづく思う。

半世紀も前の1976年、ルース・ボーンスタインは、生命の誕生を多様な動物たちがこぞって祝福して、みんなで子育てをする社会のありようを『ちびゴリラのちびちび』で著す。人間だって自然世界の一部であり動物の一部である。自然世界の不変で普遍の理は他の動物たちとおなじでなければならない。

2011年、誕生する前の子どもがママを探し求めるファンタジックな絵本『うまれてきてくれて ありがとう』が生まれる。主人公は天使のような不思議な存在の「ぼく」。クマやゴリラ、ブタにフクロウの子どもたちに「ぼくのママしらない?」と訊ねめぐるおはなしだ。子どもたちのママは、我が子を…、抱きしめ、ほほにキスする。あるいは、おっぱいで満足させ、大きな羽にやさしく包み込む。こんなとき、ママたちはいつも決まって「うまれてきてくれてありがとう」の科白をはいた。

やがて、ママを発見した「ぼく」は満月の夜、ママのおなかに入り、羊水のなかでママの声やぬくもりを感じとる。そして、誕生した「ぼく」が聞き取ったのは、あれほど言ってもらいたかったあの決まり文言だった、というフィナーレで物語を閉じる。会いたいのは産む母親ばかりではない、生まれてくる子どもだって母親に早く会いたいのだ、と思うとうれしくなるではないか。

作品は、難産で入院した妻をはげましながら実子の誕生を迎えた実体験から、夫である作者にしもとようが作品化したという。生命を尊び、その誕生を真剣に希う夫婦が体験した想いや希望が素朴な響きで心にとどく言葉となったのだろうか。やわらかくて親しみのある黒井健の達意のイラストと快く共鳴する気持ちの良い作品である。

余談だが、近年、この「生まれてきてくれてありがとう」の科白をよく耳にする。歌手が歌詞に採り入れて唄ったり、はじめて子どもを出産した若いタレントたちが口にする機会がふえているように思う。12年前に刊行された当該作品が科白を伝播させたのではないかと勝手に想像をふくらませている。
(おび・ただす)

 

『うまれてきてくれて ありがとう』

にしもとよう/ぶん

黒井健/え

童心社

 

飫肥糺 連載137 うそが広がる社会。声を上げてほんとうのことをはなそう。『じじつはじじつ、ほんとうのことだよ』飫肥 糺

『じじつはじじつ、ほんとうのことだよ』

たましいをゆさぶる子どもの本の世界 137    飫肥 糺

うそが広がる社会。声を上げてほんとうのことをはなそう。
『じじつはじじつ、ほんとうのことだよ』

『じじつはじじつ、ほんとうのことだよ』
『じじつはじじつ、ほんとうのことだよ』

洋の東西で、政治権力者たちの吐くことばがおそろしくひどくなっている。

一年経っても停戦の兆しすらないロシア/ウクライナ戦争は正邪の区別がつかない情報戦でカオスのなか。戦禍に逃げまどうウクライナ市民の悲惨な映像は世界をめぐり、侵略者ロシアの多くの国民は虚偽だらけの大統領プーチンのプロパガンダに踊らされている。

あの、トランプ米前大統領のフェイク発言もすごかった。自分の意に添わぬメディアの報道はすべてフェイク(虚構・うそ)で切り捨て大衆を前に吠えた。今も再度の大統領登板を期してメディアに対峙する。権力者たちの虚実をないまぜにして語ることばの乱発に、良くも悪くもファクト(事実・ほんとう)は何かと調査報道を担うジャーナリストにファクト・チェックが欠かせなくなった。

日本の権力者たちも例外でない。2020年まで歴代最長の政権をにぎった安倍元首相はそれなりの事績を為したのだろうが、行政権の長だけでなく、立法権の長でもあると勘違いするほど権力を増長させて民主主義をゆさぶる負の事績も多数遺した。安保法制やモリ・カケ・サクラ等々だ。国会で政治資金収支報告不記載で問題化された「桜を見る会」だけでも虚偽答弁をおこなうこと118回、れっきとした衆議院調査局の調べである。国権の最高機関でよくもこんなに、うそをつきについたり。呆れてしまうではないか。これだけではない。長期政権がつづくなか与党ばかりではないが政治家のことばはどんどん軽くなる。語義を極端にせまくとらえて論点をはずしてはぐらかす「ごはん論法」まで生まれた。

今もトランプ旋風が吹き荒れるアメリカでは、J・ウィンターが絵本『じじつはじじつ、ほんとうのことだよ』を著している。言論抑圧がみられるようになって権力に忖度するメディアがでてきた日本の現況にも一石を投じるかのような作品だ。

永く権力に正しく抗して報道現場に立ちつづける金平茂樹が日本語訳を担う。原作は”THE SAD LITTLE FACT”。FACTを擬人化して語る物語のようだがジャーナリスト金平らしく直球でFACT=事実と訳しているのが児童読者には少し読みづらく思える。一方で、読み手にも直球で伝わる力を生むかもしれないなと納得する。

一見小さな事実の集積が世の中を動かす。前進も後退もする。物語の主人公「じじつ」くんは小さなかなしい事実をかかえて、広くその事実を伝えたいと希うけれど、あれやこれやの抑圧傾向にある現代社会では、「そんなこと、うそだろ」「信じられるか」などとぞんざいにあつかわれる。「じじつ」くんの前には政治権力者だろうか、えらそうな連中が現れて、事実を事実じゃないと認めろと命令する。言語道断だろう。

うそをつけない「じじつ」くんは、当然のようにことわる。ことわると連中は怒りだす。「じじつ」くんを大きな箱に投げ入れ土中に埋めてしまうという実力行使にまで出てしまうではないか。

こんな具合にはなしは面白く展開する。箱の中にはいろいろな事実をかかえた仲間たちでいっぱいだった。

そのころ地上では、えらい連中がうそを事実といつわって撒き散らしていた。そこに連中をおそれない勇敢な人びとが立ちあがる。みんなで大きな声をだす。強く発言する。「じじつ」くんたちの救出にも成功する。かくして、明るい青空のもと、「じじつ」くんたちは「事実は事実、ほんとうのこと」と大きな声で叫びはじめるのだった。

うそはだれでもつく。つかざるをえないうそもあるだろう。仏の教えでは、うそも方便といい、大きな善行のまえでは偽りも認められるという。それと権力者たちのひどいことばの乱発は次元が異なる。うそやまやかしのことばがまかりとおる国政舞台の実際はまっぴらごめんにして欲しい。だってそうだろう。うそまみれの実際を子どもたちが知ったらどう思うだろうか。(おび・ただす)

 

『じじつはじじつ、ほんとうのことだよ』
ジョナ・ウィンター/ぶん
ピート・オズワルド/え
金平茂紀/やく
イマジネイション・プラス

飫肥糺 連載136 いつでもどこでも災難あり。大ピンチをどう乗りこえるか。 『大ピンチずかん』  (『大ピンチずかん』 鈴木のりたけ/さく 小学館)

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たましいをゆさぶる子どもの本の世界 136    飫肥 糺

いつでもどこでも災難あり。大ピンチをどう乗りこえるか。
『大ピンチずかん』

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もう20年ちかく前になるだろうか。大ピンチに陥ったことがある。まだ暑かった晩夏のその日、たしか4、5歳だった孫が我が家に一家でやってきた。孫と戯れ遊ぶと時を忘れてしまう。いつのまにか夕刻となった。で、食事は外で摂ろうとみんながいう。行先は車で15分程度の和食レストラン。5人でテーブルを囲み孫ばなしがはずむ。

そのときだ。孫の入浴に因む話題がとびだす。瞬間、背筋が凍りつく。出かける前に孫と風呂に入ろうと浴槽に水を満たしガスに点火したことを思いだしたのだ。家をでてから40分ちかくが経っていた。娘の運転で我が家へいそぐ。出火を半ば覚悟し家に飛びこんだ。間一髪だった。浴室は灰色濃いけむりがいきおいよく沸き立ち、湯水はほとんど蒸発していた。幸運にも発火には至らなかった。あと10分、いや5分もすれば発火していたのではなかったか。大失態だった。命拾いをしたのだった。

思い起こせば、子どものころから今日に至るまでたくさんの大なり小なりの失態をしでかしピンチを招いてきた。そんな事態を高齢の身になるまでよくぞしのいできたなあとつくづく想う。

身体も心もぐんぐんと育つ子どもたちの日常はどうだろう。好奇心や冒険心をみなぎらせ、あるいは感受性も成長して羞恥心や臆病心までうちに潜ませる子どもたちだ。不意に出会い、”何だこれ‼、どうすりゃいいのぉ”と、さしせまった事態にあわてふためくことも、きっとたくさんあるだろう。

絵本『大ピンチずかん』は、自由闊達に行動する少年が直面するピンチの数々をとりあげている。

「ガムを呑みこんだ」「テープのはしがみつからない」「卵かけご飯に醤油をいれすぎた」「バッグのなかで水筒がもれてノートや本がぬれた」「用をたしたけどトイレに紙がない」等々、ピンチの事例をコミカルに紹介して愉快な絵本だ。

こんな大ピンチもある。牛乳をコップにあふれるほどそそぎ、こぼしてしまったピンチ。テーブルにこぼれた牛乳をすすりにかかると頭でグラスをたおして傷口を広げる。自転車を停めたら横にずらりと並ぶ自転車にふれてドミノ倒しに。やっと起こしたとたん、今度はおしりがあたって反対側にふたたびドミノ倒しだ。公園で犬の糞をふんでしまい、床屋で思いのほか髪を短く刈られて気分は深く沈む。

おい、お~い。おじいさんにも、おじさんたちにも、あるある大ピンチではないですか。

これらのピンチの数々をこわがったり、あわてたりせずに、どうしたら切り抜けられるかを、作者は歯切れよく説く。本文下部や裏見返し含めて80事例。評価の尺度はピンチの災難度を100点満点とし作者が独自評価。発生頻度も5段階で表示して読者の期待に応えようとするアイデアいっぱい。

ガムを吞みこんでも「だいじょうぶ。そのうち、うんちといっしょにでてくるぞ」といい、用をたしたあとにトイレに紙がないことに気づいたら、「そんな時は芯を破いて広げて紙がわりにしろ」と説く。「おおまかに拭いたらそのまま歌でも歌ってじっとしていよう。そのうちおしりもかわく」と諭すのだから爆笑ものではないか。今時の子どもたち。誕生日にはともだちが集う。パーティに招かれたらプレゼントは必携だろう。「プレゼントを忘れた」ではすまされない。そんな失敗をしたらどうするか。「家に忘れてしまった。ごめん」と告げて「後日、パーティの記念写真をプレゼントしたら、きっと喜んでもらえる」と勇気づけする気配りも忘れない。

こんな場合はどうか。「どしゃぶりなのに傘がない」、もう手の打ちようがないのかと大ピンチレベルは100点だ。気持ちが暗くふさぎ立ちすくむ少年。だが、ピンチのあとにチャンスありというではないか。『大ピンチずかん』では可憐な少女がそっと近づき、少年に傘をさしかけてくれたではないか。で、作者は「大ピンチなんてこわくない」と結ぶのである。

ピンチに遭遇する少年の困惑した表情や困難に立ち向かうすがたが豊かに描かれるイラスト、軽妙な語り口で運ばれる絵解き風の短いテキスト。図鑑のようではあるが図鑑ではない。愉快にふんわりと語る「ずかん」となり「絵本」となっている。無駄を省いた絵と文の連なりで読後感も爽快だ。

(おび・ただす)

『大ピンチずかん』
鈴木のりたけ/さく
小学館

飫肥糺 連載135 はたらき者アリが ペンのインクになった⁉ 『アリペン』(ふじたあお/文 のぶちかめばえ/絵 絵本塾出版)

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たましいをゆさぶる子どもの本の世界 135    飫肥 糺
はたらき者アリが
ペンのインクになった⁉
『アリペン 』

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新聞を切り抜き短いメモ取りをするのを日課としている。筆記具に最近は鉛筆を使うことが多い。歳を重ねるとともに握力が落ちて筆圧もぐんと下がった。走り書きのメモは芯の硬い鉛筆では薄書きとなり読み取りづらくやわらかい鉛筆を使うようになった。硬度HBからBとなり、今では2Bを使う。たまに最も気持ちよく書ける4Bを使うが芯の減りが速すぎるのでほどほどの使用に。

至近20年来の小学生の大半は、ぼくと異なる理由で2Bの鉛筆を使う。一昔前より”体格は良くなったが体力は一進一退”とされる現在の子どもたち。手指の力が昭和・平成の子どもたちに比べてうまく育たないらしい。パソコンやタブレットが一人一台配備される学校の現在。こんなデジタル時代の到来も影響しているはずだ。筆圧がうまく育たず、因って筆圧に適う書きやすい鉛筆が選択される。かつての子どもたちはHBを使ったが、現在は2Bの使用が薦められるようになった。

ぼくの小学校入学は昭和26 (1951) 年、72年前の遠い昔だ。あの敗戦から数年後の物不足のころ、米穀配給手帖が家庭に存在した時代だ。当時は鉛筆一本だって貴重品。一本一本に名前を記して大切に使った。筆入れに常備したのはせいぜい2,3本。子ども自身が肥後守だったか小型ナイフで削り使った。2センチ程度に短くなってもキャップをかけて使いつづけた。使っていたのはHB、なかにHを使う級友もいて、なぜだか羨ましかった思いがある。鉛筆削りが苦手でナイフをすべらせ血をだすこともあったぼくは削る機会が少なくなる硬い鉛筆が欲しかったのだろう。

技術革新で多様多彩な文具が登場して選択する楽しみも増えた令和の現在、子どもたちと文具の関わりはどうか。文具に関心や興味を持つのは悪くないだろう。きっとそのそばには本がある。本に親しむ子どもたちであればすばらしいことではないか。

『アリペン』は文具への想いが絵本となった面白い作品だ。働き者の代名詞のようなアリがインクとなり線や文字を書けるペンになるというのだから人を食ったおはなしである。絵本には副題「とりあつかい せつめいしょ」が付く。この副題が絵本にはユニークでなかなかいい。「あいさつ」あり「もくじ」ありの構成で、少年たろうくんが案内役をつとめる。たろうくんは商品アリペンを、その特長から手入れ法、便利な使い方などを説明し、お客さまのよろこびの声まで語り伝えていく。

たろうくんによると、アリペンの内部はあたたかい適温で保たれ、歩いてよし休んでよし寝てよしの三方よしの住み心地。トイレだって清潔で気持ちよしとくる。このすぐれた環境は一朝一夕でできあがったものでなく長い研究の成果を得て実現したらしい。だからこそアリたちはぞろぞろと列をなしペンに入りたくなると、たろうくんは力説する。ペン内部に満足したアリたちはつぎに外に飛びだしたくなって出口に向かいアリペンとなる。紙がなくても書けるし、地面にも塀にも空にだって線を描き文字が書けるというアリペン。まぁウソも方便、おはなしの世界だ。だまされて読んでみるのも気分爽快となり悪くない。

ペンの使用に注意を告げてニヤリとさせたり、使用中に甘いおやつが届いたらどうなるかと驚かせたりするくだりも愉快である。

おやと思うのは、働き者のアリたちが、「夜は働かないぞ」、「無理させるとストライキを起こすぞ」と抗議する場面、ユーモア交えて発する作者の確かなメッセージだ。見のがさずに諒としたいと思う。

伴走するイラストも個性的でいい。活き活きとしてテキストとよく共鳴する。明瞭でやわらかな線描とあかるい彩色の仕上げは親しみやすく面白いし、白地背景を活かして題材を大胆に描いた画面展開もおはなしとしっかりコラボしていると思う。

(おび・ただす)

『アリペン とりあつかい せつめいしょ』
ふじたあお/文
のぶちかめばえ/絵
絵本塾出版

飫肥糺 連載134 バーニンガムが、人間一生の冷徹な理をふうわりと描いた 『おじいちゃん』(ジョン・バーニンガム/さく たにかわしゅんたろう/やく ほるぷ出販)

obi134 おじいちゃん
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少子化は加速する。2021年に誕生した日本の子どもは前年から5万人も減って81万1604人、統計資料のある1899年以降でもっとも少ない出生数だ。簡易生命表によると平均寿命は長寿社会をほこるわが国にあって男子81.47歳、女子87.57歳と推計される。これからの永い人生を、かれらはどのように生きぬいてゆくのだろうか。平均寿命は0歳児の生存年数の推計だが、簡易推計表はある年齢の人がこの後何年生きられるかという平均余命も推計する。

ぼくの場合、首を傾げるのだが10年もまだ生きるという。実際、喜寿を超えて寄る年波を感じる最近である。加齢の波は容赦ない。目、耳、足、腰とそれぞれの能力を削ぐ。もちろん記憶力もあやしい。好奇心だけは持ちつづけたいがどうなるやらである。

もうすっかり爺 (じじい) なのだ。で、爺は早朝散歩と新聞切り抜き作業をこなし読書やなにやら綴ったりするうちに一日はあっけなく終える。かつていっしょによく遊んだ孫は成人して頻繁にはやってこない。たまに訪ねてくるととりとめもないことばを交わすだけ。ただそれだけで気分は無条件にはずむのだから不思議なかかわりではある。孫との交流はなによりの妙薬だ。

英国の世界的な絵本作家ジョン・バーニンガム。ぼくも何度か食事をともにしてその磊落で人懐っこい人柄を知るが、残念だが3年前に83歳で故人となった。47歳時、彼は爺を主人公とする絵本『おじいちゃん』を発表する。祖父と孫娘がゆたかに関わりをつづけるなかでおじいちゃんのからだがしだいに衰えて亡くなるまでを印象深く描ききった傑出の絵本だ。

描かれるのはおじいちゃんと孫娘のふたりだけの世界。さえぎるものが何一つないこころの通いあうふたりはときに独り言のようにそれぞれ思うままにつぶやく。そんな短いことばの交換はじわじわと心にしみてくる。たとえば、ふたりで温室に入って植栽を楽しむ場面の会話……。鉢植えを世話するおじいちゃんは、「これがみんなそだったら、ここにははいりきらんなあ」といい、孫娘は、「むしもてんごくにいくの」という。なんだかちぐはぐで、会話は一見ぎこちない。けれど、描かれるふたりは思いのままにことばを発しあっても何も不都合を感じない。おだやかな安心できるふたりの世界がそこに存在している。ぼくと孫たちとの会話もにたりよったりでたわいのない会話で多くは終始する。さして変わりない。

この絵本には頁をめくるたびに光景や情景が変わるという特徴がある。室内遊びや戸外遊び、海浜や雪中での楽しい遊びなどが描かれるがときには小さないさかいも描かれる。どの場面も頁をめくると年月をたどるように異なる場面に一変するのである。孫娘とともに生きるおじいちゃんの後半生をアルバムの写真のように年月を追って断片的に配置する。

ぼくもときおり、孫たちと遊んだ古い写真の整理をする。一枚の写真にはそれなりに回想させる思い出がある。あれやこれやの思いがめぐりだすと時間を浪費するばかりでうまく整理できない。
『おじいちゃん』も、めくるたびに内に流れる脈々とした時間があり、物語があるのだと思う。

バーニンガムは、”人間はだれしも生を受けて生の絶えるまでをせいいっぱい生きぬく”という一生涯の冷徹な理を描こうとしたのではなかったか。
物語は終盤、おじいちゃんのいなくなった椅子を呆然と見つめる孫娘を描く。死ぬとはこういうことかとことばにならないさびしさ哀しさを強く醸し出す。そして最終頁には新しい兄弟を得たのか、赤子を乗せた乳母車を押して駆ける少女の快活な姿がまぶしく映る。この場面も印象に残る。

物語はバーニンガムと自身の祖父との関わり、自身の父と娘の関わりを回想しながら創作した作品だという。描かれるふたりが曾祖父と孫娘に見えてくる一因だろうか。

(おび・ただす)

飫肥糺 連載133 国連憲章・日本国憲法に正しく適う国がありました 『せかいでいちばんつよい国』(光村教育図書)

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無理筋の大義をふりかざして一方的に武力侵攻した大統領プーチンのロシアとNATO諸国をはじめ世界各国に武器供与を要請して徹底抗戦をきめた大統領ゼレンスキーのウクライナ。両国の戦争はつづく。戦場となったウクライナの都市は破壊され、罪のない市民たちまで巻き込んで死者や負傷者が累々と積みあがっている。

ところで、ふたりの大統領は、いったい人命をどのように考えているのか。人命より国家の方が優位だというのだろうか。報じられる残酷で悲惨な実態を連日のように目にする。暗然となるのは、ぼくばかりではないと思う。

ロシアの武力侵攻、ウクライナの武力抗戦、欧米諸国の武器供与を、ぼくらはどう考えたらいいのか。国連憲章は第2条4項で「すべての加盟国は、その国際関係において武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と規定している。しかし、ロシアの拒否権にあい、国連は機能せず。関係諸国のあいだにも停戦を働きかける具体的な動きはない。

絵本の世界はまっすぐに戦争をきらう。『せかいでいちばんつよい国』は、軍隊放棄、兵も武器もない国が無法な侵略国家と対峙したらどうなるかと、ひとつのすごい回答を提示する。

物語は、他国征服をめざす大きな国と軍隊をもたず、国連憲章を正しく守りつづける小さな国のあいだに起きた侵略騒動(?)。ちょいとおもしろい滑稽譚。小さな国には軍隊も武器もない。あるのは暮らしの豊かさと平和な社会だけ。働き者でおしゃべり好きの国民性は、ゆかいな遊戯や音楽など古くから伝わる文化・文明に親しむ。人びとの表情はどこまでも明るい。幸福度が高く平和な国とはこんな国をいうのではないかと、ぼくは思う。

そこに小さな国を征服しようと企てる大きな国が現れる。大きな国の大統領は「世界中の人びとを幸せにするために」と勝手な大義をかかげて国々を征服してきたというとんでもない不届き者。こんなふざけた大義で侵略される国なんてあるはずもない。そう思いながら21世紀の現在を俯瞰すると世界各地で戦争や紛争が起こされている笑いとばせない実際がある……。背筋が寒くなる現実ではないか。

作者デビッド・マッキーは、現実世界の混沌と平和へのメッセージをテキストやイラストの裏面にしのばせて絶妙のゆかいな滑稽譚に描きあげている。

さて、大砲装備で軍隊をひきつれ進軍した大統領は拍子抜けする。勇んで気勢をあげても、軍隊のない小さな国の人びとは兵士たちをまるで怖れない。それどころか、大歓待してくれたのだ。これでは戦争を起こせない。戦意を失った大統領と兵士たち。歓待に応じたかれらは、村人たちとしばらく暮らしをともにする。

よほど暮らしやすかったのか、小さな国の暮らしになじんだ兵士たちは、村人たちとおしゃべりをはずませ、古くから伝わる昔話や歌を楽しみ、石けり遊びに興じた。さらに野良着で畑にとびだし村人たちといっしょに働いた。攻守を変えて形勢一変、兵士たちは小さな国の人びとから豊かな暮らしの知恵や楽しみ方を学んだ。

やがて、戦うことなく大統領や兵士たちは帰途についた。そこで、大きな国の人びとの暮らしも一変した。家々からは小さな国の料理の匂いがただよい、人々がつどう広場では石けり遊びがはやりだす。

あの征服欲にとらわれていた大統領もすっかり変わる。なにしろ、息子にせがまれて唄う歌は、きまってあの小さな国の歌だったというのだから……。裸の王様にもピエロのようにも見えてくる大きな国の大統領。武器を捨て軍隊もなくしたのだろう。軍隊も武器もなければ戦争なんか起こせない。

……さぁ、大きな国と小さな国。どちらが強い国だったのだろうか。自明だと思う。

小さな国のありようは、ぼくらの国の憲法に正しくかなう。日本国憲法第9条1項は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定する……。

『せかいでいちばんつよい国』(デビッド・マッキー:作/なかがわちひろ:訳/光村教育図書)

飫肥糺 連載128 損得なしの関わり。 素朴な真情から生まれるともだち。 思いがけない契機からだって……。『ともだち』(リーブル刊)

8年前の2013年、ぼくは「絵本フォーラム」第91号で『ともだち』(玉川大学出版部刊)を取りあげている。谷川俊太郎が「ともだち」の語釈を詩文で語り、和田誠がその語釈を特異な誰にも親しいイラストで表現した。


絵本は、「ともだちって
…、ともだちなら…、どんなきもち…」などと美しいことばと絵で語りかける作者ふたりの人間や平和に対する思いが彷彿する名作だ。ぼくのような高齢者にも示唆を与えてくれた。

 

ぼくはこの一文のなかで数人の友人について触れた。かれらは、永い交友のなかで友となった「そばにいなくても いまどうしているかとおもいだす」幼なじみや「かあさんにもとうさんにもいえないことをそうだんできる」学友や、談論風発呑み交わし師弟関係にも似た「としはちがってもともだちはともだちである」小説家だった。いずれも共通するのは利害関係いっさいなし。友人というより親友・畏友でだ。友人だと思っても半数は自分を友人と思っていないという調査結果もある。友人親友をひとくくりにはできない。

ところで、友人は作ろうと思ってつくれるのか、いつのまにか友人になっていたという関わりだろうか。

 

同じタイトルの幼児絵本『ともだち?』(リーブル刊) がその一例を物語っている。

 

森の学校に転校してきたばかりのオオカミのロウロウが主人公。敵役は狡猾なキツネのツネだ。そして、ロウロウのかあちゃんが渋い役回りを担う。この三人(匹)の動物たちが主なキャストでおはなしは展開する。

 

イラストも力感あふれるいい展開だ。赤緑茶黄白を濃密に彩色し塗り込んで動植物に大胆にシャープに描出して魅力をひきだしている。この色彩・造形がおはなしに適う力強いリズムを生み出したのではないかと思う。

 

ロウロウはともだちが欲しくてたまらない。けれど、おしゃべり苦手でうまく声をかけられない。そればかりか、怖がられてしまうのだ。だから、ロウロウの学校での立ち位置は、たのしそうに遊ぶみんな、ひとりぼっちのロウロウ”の構図となる。


で、ロウロウはかあちゃんに「ともだちはどうすればできるか」とたずねるのだが「いつか
 きっとできるよ」とそっけない。なんだか悠然としている。それより「とおぼえのけいこをしてごらん。こころがおおきくなるよ」と促すのだ。ロウロウはかあちゃんのいうように遠吠えの練習にはげむ。ロウロウは素直な少年なのだ。

 

物語はマラソン大会で盛り上がる。優勝宣言をしたのはキツネのツネだ。走ることなら負けないとロウロウも自信を秘める。勝てばともだちができるかもしれないと希望もふくらむ。

 

ツネがスタートからすごいスピードで走り出す。ロウロウはゆっくり走り出し後から追い上げる戦法をとった。しだいにロウロウはみんなを抜き去り残るはツネだけに。ところが、だ。ツネは腹痛で走れないとうずくまっていた。そこでロウロウは、なんとツネを背中に乗せて走り出したのだった。

 

ゴールに近づくと腹痛が治ったというツネを降ろす。降ろすや否やツネは全速で走り出したではないか。ツネはそのままゴールインして優勝。走り去るツネを呆然と見送るだけだった。ロウロウは何も言わずに立ち去った。……ツネの腹痛は狡猾でひきょうな作戦だった。

 

まんまとはめられたロウロウだが、その夜もロウロウは遠吠えの練習にはげんでいた。驚いたことに、そこにツネがやってきたのである。ツネは「おいらのこころはちっちゃい。きたない」と反省のことばを吐き、本当の優勝はロウロウだと懸命に謝るではないか。ずるをして得た優勝はツネの心を喜びからすっかり苦痛に変えていたのである。かくして損得の感情を捨て去ったふたりが「いっしょにとおぼえをしよう」と吠え合ったのは語るまでもない。いつのまにか二人は「おれたち、もう、ともだちだよね」とたがいを認めていた。

 

損得・利害でつながらない。ロウロウのような真情を持つことができれば、あせることはない。自然に友だちはできるのだ。

(おび・ただす)

 

ともだちうえの よし/作 さとう のぶこ/絵 リーブル

飫肥 糺 連載127  色彩の魔術師、色と形、何か知らぬが何かを語り何かを示唆する『あかいふうせん』(ほるぷ出版)

 45年も前から机上の書架に差し込む絵本がある。イエラ・マリの『あかいふうせん』だ。はじめて読んだのは1976年。今はもう50前後になる子どもたちが幼児であったころの絵本。以来、ぼくはこの絵本を数知れぬほど抜き出しては読みつづける。
気はときに晴れときに曇る。そのたびに絵本は、何か知らぬが何かを示唆し何かに応えてくれる。無心に遊ばせてくれる本というのだろうか。

四方22センチの小ぶりな正方形の表紙。見るもあざやかな深紅(赤)の風船が紙面いっぱいに浮かび濃密な地の緑と対照する。みごとな色彩と造形。ぼくはそれだけでずんと魅き込まれてしまう。
本扉を開くと深紅の風船をふくらます少年登場。そしてページをめくるたびに風船はすこしずつ変形していく。

ふくらみきって少年の口許をはなれて宙に飛翔した風船は風に吹かれて木の枝に生(な)り変化(へんげ)する。おやおや、りんごになったぞと驚いたら熟したりんごは枝から放れ、深紅の羽を広げるチョウに変身、華麗に空に舞う。舞い疲れたかチョウは草花しげる野原で一休みしてまた変化(へんげ)、四つの羽を真っ赤な花びらに。だれの手か。変化(へんげ)した大きくてあでやかな花に手が伸びる。遠くに暗雲がたれこめると花はさらに傘へと形を変えて降りしきる雨をしのぐのだ。あぁ、そうだったかと気づけば、花咲く茎をもぎった手の主ははじめに風船をふくらませたあの少年だった、というシンプルすっきりの物語だ。

こんなシンプルな絵本を魔術師と称えられる作者が圧巻の傑作に創造する。
本扉から結末まで変身変化する風船にしか彩色されていない。あざやかで深みある紅(赤)だけの彩色。ふしぎなほど全ページが同じ色調で色ムラがない。

実は、作者イエラ・マリは原画に彩色をしていない。これこそが魔術師の種明かし。作者の欲する彩色実現のために、一般の制作で油彩・水彩等絵具で描いて原画とし、カラー分解して印刷インクで刷りあげる方法を作者は執らないのである。印刷インクそのものを作者が選択して指示し望みどおりの発色を実現させるのがイエラ・マリの手法なのだ。グラフィックデザイナーの面目躍如である。色彩の魔術師といわれる由縁ではないか。

造形はすべて墨色による線描だ。0.2ミリ程度の繊細な線は、少年や樹木・草花を優雅でやわらかな曲線で描き、にわかに降り出す雨脚はするどい直線で描く。さらに真白の地色に深紅(赤)や墨線だけで造形した構図が印象的ですばらしい。色と形、これらすべてが心を躍らせるではないか。

ふたたび実は、この本はテキストなし。文字のない絵本である。だから読(よ)んだというのは少しニュアンスを異にするのかもしれない。よく「絵が語りテキストが描く」と絵本について語ることがあるが、『あかいふうせん』は、まんまるまるごと絵本だろう。
45年を経ても読むたび語りを聴くたび、ぼくを無心にいざない、この絵本は、何か知らぬが何かを示唆し何かを語りかけ何かを心の裡に描かせている。

 

『あかいふうせん』
イエラ・マリ/さく
ほるぷ出版