飫肥 糺 連載126  だいきらいだけどだいすき。二匹のねこの心のはたらき『おふろだいすきねことおふろだいきらいねこ』(赤ちゃんとママ社)

おふろだいすきねことおふろだいきらいねこ

 それにしてもなぁと思う。世界を俯瞰すればコロナパンデミックはまだ衰えていない。後手にまわる施策をつづけて混乱する日本も同じだ。緊急事態やら蔓延防止重点措置やらとくりかえされて、朝夕の散歩をのぞけば、ぼくの毎日もおおむね在宅の巣ごもりとなる。

コロナ禍ぐらしも一年有余。二度目の夏至が近づいた。晴れの日の散歩路にふりそそぐ陽ざしは強くなり、ときにじりじりと肌を焼く。だから、心中は決しておだやかでない毎日だが、巣ごもりのわりに顔色は悪くないと思う。

こんな日は、朝・昼とシャワーを浴び、夜の入浴も欠かさない。汗や垢を落とし全身を満遍なく温めるという入浴行為。その前と後で、重くもやる気分は、軽く爽快な気分になる。魔法のような薬効を入浴は持つ。

入浴ばなしを絵本にした『おふろだいすきねことおふろだいきらいねこ』。入浴ぎらいのどろねこドンタが魅力的だ。ドンタは入浴をいやがる子ねことして登場する。水が大の苦手でふろぎらいだ。水あそびなんてまっぴらで、ひとりぼっちでどろんこ遊び。だから、ドンタはどろまみれの黒ねこである。

ドンタのおふろぎらいをおふろだいすきに変えてくれるのがいっしょに暮らすポッポだ。だけれど、「おふろで遊ぼうよ」、「いっしょに水遊びしようよ」とポッポがさそっても、ドンタはまったくのってこない。そればかりか、ドンタはポッポにいたずらし、ちょっかいをだす。悪態ばかりつくのである。そんなことを少しも気にしないのだからポッポのおねこ(人)がらには感心させられるのだが……。ポッポはドンタがだいすきでいっしょに遊びたい一心なのだ。

ある日のこと、ドンタの魚好きを知るポッポは「釣りなんてだいきらい」とつれないドンタを尻目に池に向かう。

魚だいすきなドンタは、本当はポッポの釣りが気になってしょうがない。ここで、事件が勃発する。魚の強い曳きに負けてポッポが池に落ちたのだ。水中からなかなか顔をださないポッポ。悪態つくばかりのドンタがどうしたことか心配しはじめるではないか。ついには夢中で池に飛び込んでしまう。池で手足をバタバタさせるドンタ……。

ドタバタ劇は、浅い池の中でもぐったまま魚を追っていたポッポがドンタを助けてジャジャーンとなる一幕である。

ドンタのことがだいすきなポッポ。一方のドンタはポッポがだいきらいだ(と思っていた)けれどだいすきだったことに気づく。”きらいきらいはすきのうち”ということだろうか。

かくして、水中の気持ちよさを知ったドンタは水ぎらいを卒業しポッポとおふろ遊びも楽しむようになる。さらに愉快なことに、おふろにすっかり洗われてドンタが黒ねこでなく白ねこだったとわかる結末も……。なかなかいいおはなしだろう。

 

書名はともかく何度も読み返すと、この絵本は心のはたらきの多様さを描き、それぞれのはたらきが優劣をつけて善し悪しを語るなどもってのほかだぞ、と普遍の理を語っているように読める。人見知り・邪険・ねじけ・内向性、そして、人なつこさ・親切・素直・外向性などの言葉が脳裏をめぐる物語だと思う。

ドンタ、ポッポ。二匹のねこともに個性ゆたかで魅力的に描かれる。”だいきらいだけどだいすき”のフレーズのひびきがいい。素朴な味わいのイラスト展開、素直なやさしい言葉でテキストは綴られる。

作者のお人柄が存分に表現された作品ではないだろうか。(おび・ただす)

 

『おふろだいすきねことおふろだいきらいねこ』

古内ヨシ/作 (赤ちゃんとママ社)

 

飫肥 糺 連載125  圧巻絵画ときれきれのことばがふたりの関係をにやりと語る『ふたり』(富山房)

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 広がる在宅ワークも拍車をかけたのだろうか。ペットを飼う人びとが増えている。なかでも、たいへんなネコブームだという。ネコは、犬より散歩やトリミングなどの手がかからなくて飼いやすいこともあるだろう。

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ところが、ネコはもともと単独でも生き抜く力を身につけた動物だ。だから、犬のようには人間になつかない。愛されるネコにとって居心地は悪くないはずだが、人間たちが思うほどなついてはくれない。飼い主とネコとのこんな関係、いくらかなりと人間親子の関係に似てないだろうか。

ぼくは犬派である。犬と永く暮らしてきたこともあるからだろうか。学童期に見た獰猛なネコのすがたをどうしても連想してしまうのである。1950年代の南九州。宮崎の田舎町で育ったぼくは鶏小屋のひよこを襲うネコを何度も見た。衛生インフラが全国的に未整備であった時代、どこにでもネズミがいた。ときおり、ネコとネズミが夜半の深い静寂を破る。天井空間をドタバタと追い逃げまわる両者の狂騒音声である。童心には不気味だった。

不仲のたとえを「犬猿の仲」という。ネコとネズミの関係は仲の悪さばかりではない。ネコは魚肉好きだがネズミも食う。肉食だから当然で不思議ではない。ネズミは猫にとって食べごろの大きさにちがいない。けれど、ふんだんに好餌を得られる現在の飼いネコたちはネズミを餌としないのかもしれないが、野良ネコはどうだろうか。本能を研ぎ澄まして小動物をおそうはずだ。環境は動物を変え、人を変えるのである。

十二支動物の由来伝承は面白い。正月の寺詣競争が動物たちの間にひずみを生じさせる話だが、もともとは、犬と猿も、ネコ(あるいはトラ)とネズミも、仲は良かった。昨今のテレビ動物番組には、犬の背に乗り愉快顔の猿やネコに抱かれるように眠るハムスター(ネズミの一種)なども登場する。まぁ、環境が整えば仲の悪さは仲の良さにも転じるということだろうか。

鬼才・瀬川康男はネコとネズミの絶妙なふたりの関係を圧巻の絵画ときれきれのことばで描ききっている。ネコがネズミを見つけてにやりとしパンチを食らわせておそう。だがしかし、ネズミだってそうはさせぬとひらりと逃げる。もちろん、疲れきったふたりは仲良く眠りこける結末。動物ふたりの鬼ごっこのような動きが、鮮烈に眼に飛び込んでくる物語である。

作者は自然のなかに生きる多くの生き物たちと息遣いを共にした。そのせいだろうか、作者が描くネコとネズミの活き活きとした表情がいい。ダイナミックでコミカル、そして洒脱な味わいは、子どもから大人の心まで掴んでしまうのではないかと、ぼくは思う。

独特の繊細で切れ味鋭い線と点の描出は原画をリトグラフにしたことでいっそう鮮明な表現に。とにかく、様式美に通じる左右の頁構成から文様や描き文字など細部まで徹底した作品づくりに、書籍編集を経験してきたぼくは、ただ唸ってしまうばかりなのである。

語られることばも強く生きている、きれきれですごい。にやり、で始まり、きらり・ばさり・にたり・ひらり・とぷり・どぶり・げろり・ばたり・ねたり・ふたり、そして、おわり、で閉じる。わずか12語だけで綴りきっている。助数詞のふたり、名詞のおわりを除けば副詞だけ。すべての単語が「り」の韻を踏む。なかに造語まで加えて、ひねりにひねり、物語る。秀逸な詩歌のリズムではないだろうか。稀な傑作のひとつだと思う。(おび・ただす)

『ふたり』

瀬川康男/さく

冨山房