飫肥糺 連載140 のびのび・せつなく・たくましい。 豊かな純粋表現がうったえる学童詩54篇(『一年一組 せんせい あのね』 鹿島和夫/選 ヨシタケシンスケ/絵 理論社)

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たましいをゆさぶる子どもの本の世界 140    飫肥 糺

のびのび・せつなく・たくましい。 豊かな純粋表現がうったえる学童詩54

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せんせい

にんげんは なんのためにいきているんですか

ぼくは

たっぷりあそんで たのしむためだと おもいます

せんせいはどうおもいますか   (「にんげん」:えぐさたくや)

 

発話の主は小学一年生の少年。いいなあ。この、自由でのび゛びした言葉のつらなり。そうだよな。子どもの学びは遊ぶことからはじまるのだ。老年となって子ども時代をときおり回想するぼくは、しみじみとそう思う。

こんなふうに語りかけられた現在の先生は、どう応えるのだろう。活き活きした言葉に押されて、「そうだよねえ」とでも応えるのだろうか。それとも、「遊んでばかりじゃだめだ……」とか、子らの自由を制限するような言葉を放つのだろうか。幼児や学童の吐くひとことやつぶやきは、虚飾のまったくない純粋表現である。定型をもたない珠玉の詩ではないかと、ぼくは思う。

選者は子どもの表現活動にすぐれた教育実践をかさねた名高い元・小学校教師。一年生を担当することが多かったという選者は、永く、子どもたちの発することばの数々を「あのね帳」に記録しつづけて14巻もの児童詩選集を完成させている。つぎのような心にしみるつぶやきもある。

 

おかあさんがしごとにいっているから

学校からかえって「ただいま」といっても だれもこたえてくれない

でもわたしのこころの中に おかあさんがいるから

へんじをしてくれる   (「ただいま」:よしはらきよみ)

 

少女は学校から帰るといつも玄関で「ただいま」と声をだす。けれど家には誰もいない。心の中に母親の声を聴くという。まだ一年生という少女の心情、せつない思い。けれどそれにたえるたくましさをにじませる少女の言葉に胸を打たれる思いとなる。共働き家庭が一般的となった令和の現在、多くの家庭で親不在の留守番役を学童たちが担う。

学童らの声は言葉となり詩を奏でる。『一年一組 せんせい あのね』 の詩は54篇。多くの読者にすっかり馴染みとなったヨシタケシンスケの親しみやすいイラストを瀟洒なデザインで配している。

どの詩にふれても、「あのね」のつぶやきは素朴で鋭い言葉となって読み手の心に突き刺さる。かれらの思いや世を観察する目や耳のするどさに目を見張るばかりなのだ。

一方で、子どもたちの貧困や児童虐待の状況は深刻だ。行政も迷走をつづける。埼玉県の自民党県議団提出の虐待禁止条例改正案は悪例の極みだった。あたりまえのことだが、健康・保護・生活水準などについて子どもたちには基本的人権が存在する。遊ぶこと・学ぶことが子どもに欠かせない権利であることも自明の権利だ。子どもだけの登下校や留守番、幼児を置いてちょいとゴミ置き場にゆくことも放置にになり虐待だとする無茶苦茶な思考がどこから出てきたのか理解不能ではないか。こんなことが条例制定されてなるものかと県民たちが各所から反対ののろし……。さすがに条例案取り下げとなった。親と子どもを追い込むこんな無茶な行政施策を許すわけにはいかない。

だからだろう。純粋でしたたかな学童たちは、希望をこめて、大人たちをしっかりと諭す。

 

こどもはいつかおとなになるのでしょう

おとなはむかしこどもだったんでしょう

みんな そのときのきもちを 

たいせつにしてもらいたいなあ   (「こども」:いわはまえりこ)

 

それでも、天性で、跳ね、あそび、まなぶ子どもたちのことだ。素朴な感性を発揮して純粋に自然を愛でている。

 

きがかぜにのっていました。

はっぱがいっぱいありました。

だから おんがくになるのです。   (「き」:やまとなおみ)

 

すばらしい感性ではないか。ぼくも、子どもが諭すように童心をいくらかなりと取り戻して、自由な風趣を感じとれることばをつぶやきたいと思う。(おび・ただす)

 

『一年一組 せんせい あのね』

鹿島和夫/選

ヨシタケシンスケ/絵

理論社

 

子ども歳時記151 スキンシップのすすめ/中村 利奈(『あなたのことがだいすき』えがしら みちこ/文・絵、西原理恵子/原案、KADOKAWA)

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子ども歳時記『スキンシップのすすめ』中村 利奈

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秋から冬へとさしかかり、肌寒い日が増えてきましたね。そのせいか私がお手伝いに行っている子育て広場では、遊びに来てくれる親子の数が増えてきているように感じます。お子さんが遊んでいる側でお母さんとお話ししていると、いま悩んでいることや困っていることを相談してくれることがあります。お子さんの食事や睡眠、成長に関することなどが多いですが、お母さん自身の悩みでは、自由な時間を全く取れない生活がつらい、という方が多いように感じます。できるだけゆっくりお話しを聞き、たずねられれば私自身の経験をお伝えすることもありますが、「これが正解」ということをお伝えできることは、まずありません。

スタッフ間でもよく話題になるのが「子育てに正解はない」ということです。私自身も18歳になった息子の子育てを思い出しては、当時の対応が間違っていたように感じ、しても仕方のない反省をすることが多々あります。落ち込んでしまうこともありますが、最近は、愛情だけは頑張って注いだのだからよしとしよう、と思うようにしています。

私がそう考えるきっかけになった本があります。『あなたのことがだいすき』(えがしらみちこ/文・絵、西原理恵子/原案、KADOKAWA)という絵本です。やさしいタッチの絵と、子育て中の母親のやるせない気持ちを上手に表現している言葉に共感があふれます。子育て広場に来るお母さんたちにも、とても人気のある絵本です。≪「たいへんなのは いまだけよ」っていうけど 「いま」なんとかしてほしいの≫……本当に、何度思ったことでしょう。絵本は、≪だいすき≫とお母さんが子どもを抱きしめる絵で終わっていますが、子どもをぎゅっと抱きしめると、疲れた自分の心がふわっとほぐれていったことを思い出します。

親子のスキンシップには、様々な効用があるそうです。ストレスが和らぐ、情緒が安定する、親子の絆が深まる……良いことばかりですね。スキンシップ研究の第一人者、山口創先生によると、その効果は「ふれられる側」だけでなく「ふれる側」にも同じだけあるそうですから、子どもを抱きしめることで親も癒されるということです。スキンシップは正解のない子育てにおいて“一筋の光”なのかもしれません。そしてその効果は、親子だけでなく大人同士でも、また、手をつなぐ、肩に手をかけるなどの簡単なスキンシップでも同様にあるそうです。

寒さが深まっていくこの時期は、スキンシップに最適な季節ですね。親子で、家族で、はたまた友人と優しくふれあい、寒さや疲れで縮こまってしまった心をそっとほぐしてみませんか。(なかむら・りな)

中村 利奈
中村 利奈

飫肥糺 連載139 被爆者をうわさごとにしてはいけない。被爆国の日本の実際 『うわさごと』

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被爆者をうわさごとにしてはいけない。被爆国の日本の実際『うわさごと』

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1980年8月6日、ぼくは原水禁世界大会に参加した。祈念式典では荒木武広島市長が「平和宣言」、被爆者援護法制定を求め、第2回国連軍縮特別総会に向けて平和首脳会議の開催を提唱する。大会会場では、四国五郎が、「あなたのとなりをみてください/ヒロシマの子はいませんか/ヒロシマの子はすんだヒトミであなたの顔をじっとみつめています……」と、自作の詩を哀切に朗誦して参加者の涙をさそった。

2017年、国連加盟122か国が賛成して「核兵器禁止条約」が成立する。しかし、核状況は一変する。

2022年、ウクライナに侵攻したロシアが核使用をちらつかせだしたのである。こんな状況を憂えてか、原爆投下78年の今年。松井広島市長は「世界中の指導者は核抑止論が破綻していることを直視すべきだ」と「平和宣言」で強く訴えた。訴えはむなしくひびく、核抑止論を執りつづける大国の数々。核の傘を言いわけに被爆国日本も抑止論を執る。被爆者や多くの国民の痛切な声には聴く耳をまるで持たない。

絵本『うわさごと』は、終戦まもなく広島から被爆地でない土地にやってきた小学生ケンゴを登場させる。ケンゴは原爆で母や兄姉を失った。父は戦争に行ったままだ。で、遠い親戚の老夫婦のもとに。

『うわさごと』は、祖父(ぼく)が語り手となり、悪口を言いふらされてケンカしたという孫に自分の子ども時代のケンゴに関わる痛切な思い出を語り聞かす。うわさのもたらす厄介さを諭していくのである。うわさを言い交してその場をつくろう風習はときとしてあらぬ方向に向かう。特定人物の名誉を損なったり、うわさをたてた本人が信用をなくしたり。子どもたちのいじめの理由となることもあるだろう。

ケンゴにかけられたうわさは、「ゲンシ病をうつす。」という根も葉もないうわさだ。だれが言い出したかわからない。土地の子らから忌避される。いじめにあう。ケンカになる。ひどい話ではないか。

語りは祖父(ぼく)の一人称だ。(ぼく)の兄ちゃんがケンゴとケンカしたことからはじまる物語はたんたんとしたリズムで、読み手の心にしみいるような語り口。

兄ちゃんの「だって、みんな言っとる、広島の子だぞ」。この言い草に(ぼく)の父ちゃんは、「ジンピンゲレツ!」(人品下劣)と怒り、父ちゃんと兄ちゃんはバリカンで頭を丸める。ついでだからと(ぼく)の頭まで丸めて3人でケンゴの家へあやまりに……。「うわさごとに乗せられて、このアホタレ息子が」と畳に頭をつける父ちゃん。こんな父ちゃんのふるまいを、兄ちゃんと(ぼく)はどう思ったか、うわさを信じてしまう軽率さがいかに大事になることを知り、恥じ入る思いではなかったか、と思う。

こんなことがあって、(ぼく)らはケンゴの家族と親しくなる。学校で投げかけられる悪口にも動じなくなったが、ときに(ぼく)自身がうわさを流してしまう大失敗を起こす。自転車どろぼう騒ぎで、ちょいと聞いただけの話で”6年の誰それがどろぼうだ”と言ってしまい、ひどいしっぺ返しにあう。そうなんだ、人を傷つけるようなうわさは絶対にやってはいけないご法度なのだ。

作者・梅田俊作は、ケンゴが忌避されても、けっしてケンゴを卑屈には描かない。むしろ悲惨な体験を乗りこえて自立する強さを描き出しているのが胸を打つ。ケンゴは、転校前の先生から教えてもらった宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」を、難事にぶつかるといつもそらんじた。たとえば、……アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニイレズニ/ヨクミキキシ/ワカリ、ソシテワスレズ……を口に出して胸を張った。被爆者ケンゴはたくましい。賢治の詩魂をまるで自分の心性に落とし込むように……。

いじめや差別の淵源に、原爆投下の実際があるなんて、許されることではない。何度も読んで考えつづけたい作品である。(おび・ただす)

『うわさごと』
梅田俊作/文・絵
汐文社

 

子ども歳時記150 絵本と“こども哲学”/篠原 紀子(『おなみだぽいぽい』 ごとう みづき/作、ミシマ社)

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子ども歳時記『絵本と“こども哲学”』篠原 紀子

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この夏を、こどもたちはどのように過ごしたでしょう。夏休みが終わり、二学期が始まる時期、心が少しざわざわすることがあるかもしれません。

絵本講座の活動をしていて、「小学生になったので絵本は卒業」と言われたことが幾度もありました。でも絵本に卒業はない、ずっと友だちでいられると私は思います。不安な時、迷った時、絵本はいつもそばにいてくれます。

大きくなっても絵本に触れる機会を、という思いから“こども哲学”の活動に絵本を取り入れています。“こども哲学”とは、答えのない問いについて考えたことを、お互いに話し聞きあう場のことです。「自由とは?」「どうして学校に行くの?」「友だちは多い方がいい?」といった問いについてみんなで対話します。決して結論をどちらかに導くことはせず、大人もこどもと同じ目線で、普遍的な疑問について考え続けるのです。

昨年はじめた“こども哲学”の小さな会で『おなみだぽいぽい』(ミシマ社)を読みました。授業で先生の言うことがわからなかった「わたし」は誰もいない場所で泣いてしまいます。隠しておいた大好きなパンの耳も、今日はのどが詰まってうまく食べられません。涙のしみたパンの耳を天井の穴にむかって投げると、その塩気が好きな鳥がキャッチして、たくさん食べてくれるのでした。

この絵本を読んで湧いてきた問いを、こどもたちと話し合いました。「ぼくもこんな気持ちになることあるよ」「悲しいことがあった時どうする?」「泣いて気を紛らわそうとしたのかな」「何か問題が起こった時、解決しないといけないのかな」そんな会話のなかから「逃げるのは良いこと? 悪いこと?」という問いを見つけ、みんなで対話することになりました。

参加者の中学生は、小学校の時は学校がきらいでした。行きたくなかったけれど、学校を休む勇気はなかったと言います。学校に行くのは当たり前のことで、そこから自分が外れるのは不安だったからです。だから、学校に行かないと決めた子はとても勇気があって意志が強いと思ったそうです。

学校に行かないことは、一見すると逃げているように映るかもしれません。でも本当は自分自身と向き合い、立ち向かっているのかもしれないという意見があがりました。本当の気持ちを抑えて、みんなに合わせて学校に行くことの方が逃げているといえるかもしれない、そんな話でその日はおしまいとなりました。

絵本をきっかけに生まれた小さな問いから、さまざまな考えが萌芽します。答えのない世界へ、自らの力で分け入ろうとするこどもたちの眼差しに、私は希望の光を見ます。絵本はいつまでも、私たちにぴったりと寄り添っています。(しのはら・のりこ)

歳時記 篠原紀子
歳時記 篠原紀子

飫肥糺 連載138 生まれてくる子どもだって、母親に早く会いたいのだ 『うまれてきてくれて ありがとう』飫肥 糺

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たましいをゆさぶる子どもの本の世界 138    飫肥 糺

生まれてくる子どもだって、母親に早く会いたいのだ
『うまれてきてくれて ありがとう』

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2022年の子どもの出生数は明治32年に統計を始めて以来最少の77万747人。はじめて80万人を割った。ひとりの女性が生涯に産む合計特殊出生率も7年連続で減少して1.26と史上最低に…… (厚労省人口動態統計)。少子化は加速する。

ぼくの弟ふたりは団塊世代の1948年・50年生。同年の生まれはいずれも270万人を超えた。戦後78年を経て日本の年間出生数は200万人も出生減となる。少子化進行は結果として高齢者比率を上昇させて高齢化社会も加速させる。

少子高齢社会は、社会的にも経済的にも国や社会をはげしくゆさぶる。年齢構成をいびつにする。家族形態、地域や学校、職場や働き方、介護など社会保障のありようもどんどん変容させる……。1970年代半ばから少子化問題は取り沙汰されてきた。しかし、掛け声だけで政治や行政は策をろくに講じないまま先送り。そのつけが今の今になって回ってきたということではないか。現在の政権も「こども未来戦略方針」案を示し異次元の少子化対策を行うぞと拳をあげるが果たしてどうか、掛け声だけで終わらぬよう、ぼくは希うばかりだ。

結婚も出産も個人の自由だ。決して強制されるものではない。個人の価値観は時代とともに変わる。さらに、少子化の背景には社会的経済的状況が強く広く横たわる。結婚したくてもできない、子どもを産みたくても産めないという人々を、日本社会はじわりと増加させてきたのではなかったか。日本社会は、人々が安心して結婚・出産・子育てできる環境を整えてこなかったのではなかったかと、つくづく思う。

半世紀も前の1976年、ルース・ボーンスタインは、生命の誕生を多様な動物たちがこぞって祝福して、みんなで子育てをする社会のありようを『ちびゴリラのちびちび』で著す。人間だって自然世界の一部であり動物の一部である。自然世界の不変で普遍の理は他の動物たちとおなじでなければならない。

2011年、誕生する前の子どもがママを探し求めるファンタジックな絵本『うまれてきてくれて ありがとう』が生まれる。主人公は天使のような不思議な存在の「ぼく」。クマやゴリラ、ブタにフクロウの子どもたちに「ぼくのママしらない?」と訊ねめぐるおはなしだ。子どもたちのママは、我が子を…、抱きしめ、ほほにキスする。あるいは、おっぱいで満足させ、大きな羽にやさしく包み込む。こんなとき、ママたちはいつも決まって「うまれてきてくれてありがとう」の科白をはいた。

やがて、ママを発見した「ぼく」は満月の夜、ママのおなかに入り、羊水のなかでママの声やぬくもりを感じとる。そして、誕生した「ぼく」が聞き取ったのは、あれほど言ってもらいたかったあの決まり文言だった、というフィナーレで物語を閉じる。会いたいのは産む母親ばかりではない、生まれてくる子どもだって母親に早く会いたいのだ、と思うとうれしくなるではないか。

作品は、難産で入院した妻をはげましながら実子の誕生を迎えた実体験から、夫である作者にしもとようが作品化したという。生命を尊び、その誕生を真剣に希う夫婦が体験した想いや希望が素朴な響きで心にとどく言葉となったのだろうか。やわらかくて親しみのある黒井健の達意のイラストと快く共鳴する気持ちの良い作品である。

余談だが、近年、この「生まれてきてくれてありがとう」の科白をよく耳にする。歌手が歌詞に採り入れて唄ったり、はじめて子どもを出産した若いタレントたちが口にする機会がふえているように思う。12年前に刊行された当該作品が科白を伝播させたのではないかと勝手に想像をふくらませている。
(おび・ただす)

 

『うまれてきてくれて ありがとう』

にしもとよう/ぶん

黒井健/え

童心社

 

子ども歳時記149 ホームランを打ったことのない君に/舛谷 裕子(長谷川集平/作、理論社)

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子ども歳時記『ホームランを打ったことのない君に』舛谷 裕子

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今年の春、久しぶりに高校の同窓生と、第95回記念選抜高等学校野球大会観戦のために、阪神甲子園球場へ出かけました。母校は出場していなかったのですが、偶然にも出身県である香川県の2校の試合を観戦することができました。どちらも負けてしまいましたが、野球に詳しくない私でもわかるような「手に汗握る」好試合でした。その時、初めて知ったのですが、高松商業高等学校(通称は高商)には「志摩供養」と呼ばれる伝統儀式があるのだそうです。

1924年(大正13年)に開催された、第1回記念選抜高等学校野球大会で高松商業高等学校が優勝した年、三塁手であった志摩定一さんが選抜大会以前より患っていた肺の病気でその冬に亡くなられました。「自分は死んでも魂は残って、三塁を守る」と遺言を残され、その意志を継ぐために後輩たちが1930年代に始めたのが「志摩供養」だということです。以前は初回の守備につく前に、全員で三塁ベースを囲んで円陣を組み、主将が口に含んだ水を三塁ベースに吹きかけ黙祷していました。1978年に高野連から遅延行為及び、宗教的行為にあたるという理由で中止勧告を受け廃止されていましたが、数年前から試合前に三塁手がひとりでベース前にひざまずき、黙祷を捧げているのだそうです。その若者の真摯な姿を広い球場で目の当たりにした時、私にはそこが神聖な場所と思え、心がうたれました。

ちょうどその頃、WORLD BASEBALL CLASSIC 2023(WBC2023)も開催されていました。当初、どれくらいすごい大会なのかもあまりわからず、高校野球のニュースが少ないと私は不満を抱いていました。日本の選手が「侍ジャパン」と呼ばれ、どんどん勝ち進み優勝しました。甲子園球場の電光掲示板には“WBC 日本代表 世界一 おめでとう!”と映し出されていました。そこで初めて実感できました。その後のニュースでも日本人選手や日本人ファンの言葉や、態度、マナーの良さや、品位などが連日報道され、この春はまさに野球漬けの日々でした。

さて、この絵本はいつかホームランを打つために努力を続け、夢を追う少年の姿が描かれています。高校球児やWBCの選手の活躍は、幼い頃から、暑い時も寒い時も毎日毎日練習をした結果なのだと思います。そして、毎日、同じように練習していても結果が出なかったり、怪我などで野球をやめてしまわなければいけない人も大勢います。野球だけではなく、最近は結果を求められる場面が多いと感じます。思い通りにならず悔しかったり、失望したり、心残りがあるまま次に進んでいかなければならない時もあると思います。結果はどうであれ、「やりぬいた!」、「がんばった!」体験を認めたいものです。夏に子どもは大きく成長するといわれています。そして、それは大人になってから役に立つのだと思います。何時も「きっと大丈夫!」と見守り続けていたいものです。(ますたに・ゆうこ)

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ますたに・ゆうこ

飫肥糺 連載137 うそが広がる社会。声を上げてほんとうのことをはなそう。『じじつはじじつ、ほんとうのことだよ』飫肥 糺

『じじつはじじつ、ほんとうのことだよ』

たましいをゆさぶる子どもの本の世界 137    飫肥 糺

うそが広がる社会。声を上げてほんとうのことをはなそう。
『じじつはじじつ、ほんとうのことだよ』

『じじつはじじつ、ほんとうのことだよ』
『じじつはじじつ、ほんとうのことだよ』

洋の東西で、政治権力者たちの吐くことばがおそろしくひどくなっている。

一年経っても停戦の兆しすらないロシア/ウクライナ戦争は正邪の区別がつかない情報戦でカオスのなか。戦禍に逃げまどうウクライナ市民の悲惨な映像は世界をめぐり、侵略者ロシアの多くの国民は虚偽だらけの大統領プーチンのプロパガンダに踊らされている。

あの、トランプ米前大統領のフェイク発言もすごかった。自分の意に添わぬメディアの報道はすべてフェイク(虚構・うそ)で切り捨て大衆を前に吠えた。今も再度の大統領登板を期してメディアに対峙する。権力者たちの虚実をないまぜにして語ることばの乱発に、良くも悪くもファクト(事実・ほんとう)は何かと調査報道を担うジャーナリストにファクト・チェックが欠かせなくなった。

日本の権力者たちも例外でない。2020年まで歴代最長の政権をにぎった安倍元首相はそれなりの事績を為したのだろうが、行政権の長だけでなく、立法権の長でもあると勘違いするほど権力を増長させて民主主義をゆさぶる負の事績も多数遺した。安保法制やモリ・カケ・サクラ等々だ。国会で政治資金収支報告不記載で問題化された「桜を見る会」だけでも虚偽答弁をおこなうこと118回、れっきとした衆議院調査局の調べである。国権の最高機関でよくもこんなに、うそをつきについたり。呆れてしまうではないか。これだけではない。長期政権がつづくなか与党ばかりではないが政治家のことばはどんどん軽くなる。語義を極端にせまくとらえて論点をはずしてはぐらかす「ごはん論法」まで生まれた。

今もトランプ旋風が吹き荒れるアメリカでは、J・ウィンターが絵本『じじつはじじつ、ほんとうのことだよ』を著している。言論抑圧がみられるようになって権力に忖度するメディアがでてきた日本の現況にも一石を投じるかのような作品だ。

永く権力に正しく抗して報道現場に立ちつづける金平茂樹が日本語訳を担う。原作は”THE SAD LITTLE FACT”。FACTを擬人化して語る物語のようだがジャーナリスト金平らしく直球でFACT=事実と訳しているのが児童読者には少し読みづらく思える。一方で、読み手にも直球で伝わる力を生むかもしれないなと納得する。

一見小さな事実の集積が世の中を動かす。前進も後退もする。物語の主人公「じじつ」くんは小さなかなしい事実をかかえて、広くその事実を伝えたいと希うけれど、あれやこれやの抑圧傾向にある現代社会では、「そんなこと、うそだろ」「信じられるか」などとぞんざいにあつかわれる。「じじつ」くんの前には政治権力者だろうか、えらそうな連中が現れて、事実を事実じゃないと認めろと命令する。言語道断だろう。

うそをつけない「じじつ」くんは、当然のようにことわる。ことわると連中は怒りだす。「じじつ」くんを大きな箱に投げ入れ土中に埋めてしまうという実力行使にまで出てしまうではないか。

こんな具合にはなしは面白く展開する。箱の中にはいろいろな事実をかかえた仲間たちでいっぱいだった。

そのころ地上では、えらい連中がうそを事実といつわって撒き散らしていた。そこに連中をおそれない勇敢な人びとが立ちあがる。みんなで大きな声をだす。強く発言する。「じじつ」くんたちの救出にも成功する。かくして、明るい青空のもと、「じじつ」くんたちは「事実は事実、ほんとうのこと」と大きな声で叫びはじめるのだった。

うそはだれでもつく。つかざるをえないうそもあるだろう。仏の教えでは、うそも方便といい、大きな善行のまえでは偽りも認められるという。それと権力者たちのひどいことばの乱発は次元が異なる。うそやまやかしのことばがまかりとおる国政舞台の実際はまっぴらごめんにして欲しい。だってそうだろう。うそまみれの実際を子どもたちが知ったらどう思うだろうか。(おび・ただす)

 

『じじつはじじつ、ほんとうのことだよ』
ジョナ・ウィンター/ぶん
ピート・オズワルド/え
金平茂紀/やく
イマジネイション・プラス

子ども歳時記148 想像から始まる『クジラにあいたいときは』/中村 史(ジュリー・フォリアーノ/文、エリン・E・ステッド/絵、金原瑞人/やく、講談社)

歳時記148

『クジラにあいたいときは』

想像から始まる『クジラにあいたいときは』  中村 史

歳時記148
歳時記148

空の色が変わり、緑があふれるこの季節、これから何かが始まりそうな予感に、顔も気持ちも上向きになる。顔を上げれば、視界が広がり、少し遠くのものが見えるようになる。子どもにとっては、大きな変化である。子どもは、読んでもらった絵本や、大人たちの会話、さまざまな場所で目にする映像など全ての情報から、今ここにないものの存在を知っていく。知って、子どもの心がどう動くか、どう足を踏み出すか、その環境に心を配ることが大切だ。

『クジラにあいたいときは』(講談社)は、クジラに会いたいと願う少年の物語である。やわらかな質感の表紙をめくると、静かな語りが始まる。クジラに会いたいときは、窓がいる。窓から見える海もいる。クジラは遠くにいるので、すぐには会えない。待って、眺めて、見つけたものがクジラかどうか考える時間もいる。やがて少年は、部屋から遠い海を眺めるのをやめて、桟橋に立つ。クジラじゃないものを数えながら、クジラじゃないものを見る時間が流れる。待って、待って、待った少年は、ついに小さなボートを得て海にこぎ出すのだ。読み終われば、生きることの美しさが胸に満ちてくる。

子どもが、クジラに会いたいと思うには、まず、クジラの存在を知ならければならない。知ることで心が動き、関心を持つと、そこから願いが生まれる。クジラに会いたいと願う気持ちや、会えるまで待つ時間は、想像することと深く関わっている。希う(こいねがう)という美しい日本語がある。想像することは、希うことではないか。

ジョーン・エイケンの『ナンタケットの夜鳥』(冨山房)には、少年時代に出会った「ピンクの鯨」を追いかけて世界中を航海する船長が出てくる。ピンクの鯨のほうも、昔の友だちである船長が大好きで、近くにきたときには、まるで子犬のようなはしゃぎようである。実は、この物語には、政治的な企みや、遠距離ミサイルを思わせるような新型の大砲が出てくるのだが、ピンクの鯨は、子どもたちの味方になって、島の大人とともに悪巧みをつぶす大役を果たすのである。

いつの時代にも、大切なものを奪われ、日常を脅かされる子どもたちがいる。どんな環境でも、子どもは想像することを知らずに育ってはいけない。ありたい姿を希い、まだ見ぬ人を希い、平和な日々を希う。未来は、いつも想像から始まる。遠くを見ることは、近くを見ること同様、大切なことである。今じゃないかもしれない。この場所じゃないかもしれない。でも、会いたいものには必ず出会えると、暴力と破壊を止める手を尽くすとともに子どもたちに伝えたい。

中村 史
中村 史

飫肥糺 連載136 いつでもどこでも災難あり。大ピンチをどう乗りこえるか。 『大ピンチずかん』  (『大ピンチずかん』 鈴木のりたけ/さく 小学館)

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たましいをゆさぶる子どもの本の世界 136    飫肥 糺

いつでもどこでも災難あり。大ピンチをどう乗りこえるか。
『大ピンチずかん』

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もう20年ちかく前になるだろうか。大ピンチに陥ったことがある。まだ暑かった晩夏のその日、たしか4、5歳だった孫が我が家に一家でやってきた。孫と戯れ遊ぶと時を忘れてしまう。いつのまにか夕刻となった。で、食事は外で摂ろうとみんながいう。行先は車で15分程度の和食レストラン。5人でテーブルを囲み孫ばなしがはずむ。

そのときだ。孫の入浴に因む話題がとびだす。瞬間、背筋が凍りつく。出かける前に孫と風呂に入ろうと浴槽に水を満たしガスに点火したことを思いだしたのだ。家をでてから40分ちかくが経っていた。娘の運転で我が家へいそぐ。出火を半ば覚悟し家に飛びこんだ。間一髪だった。浴室は灰色濃いけむりがいきおいよく沸き立ち、湯水はほとんど蒸発していた。幸運にも発火には至らなかった。あと10分、いや5分もすれば発火していたのではなかったか。大失態だった。命拾いをしたのだった。

思い起こせば、子どものころから今日に至るまでたくさんの大なり小なりの失態をしでかしピンチを招いてきた。そんな事態を高齢の身になるまでよくぞしのいできたなあとつくづく想う。

身体も心もぐんぐんと育つ子どもたちの日常はどうだろう。好奇心や冒険心をみなぎらせ、あるいは感受性も成長して羞恥心や臆病心までうちに潜ませる子どもたちだ。不意に出会い、”何だこれ‼、どうすりゃいいのぉ”と、さしせまった事態にあわてふためくことも、きっとたくさんあるだろう。

絵本『大ピンチずかん』は、自由闊達に行動する少年が直面するピンチの数々をとりあげている。

「ガムを呑みこんだ」「テープのはしがみつからない」「卵かけご飯に醤油をいれすぎた」「バッグのなかで水筒がもれてノートや本がぬれた」「用をたしたけどトイレに紙がない」等々、ピンチの事例をコミカルに紹介して愉快な絵本だ。

こんな大ピンチもある。牛乳をコップにあふれるほどそそぎ、こぼしてしまったピンチ。テーブルにこぼれた牛乳をすすりにかかると頭でグラスをたおして傷口を広げる。自転車を停めたら横にずらりと並ぶ自転車にふれてドミノ倒しに。やっと起こしたとたん、今度はおしりがあたって反対側にふたたびドミノ倒しだ。公園で犬の糞をふんでしまい、床屋で思いのほか髪を短く刈られて気分は深く沈む。

おい、お~い。おじいさんにも、おじさんたちにも、あるある大ピンチではないですか。

これらのピンチの数々をこわがったり、あわてたりせずに、どうしたら切り抜けられるかを、作者は歯切れよく説く。本文下部や裏見返し含めて80事例。評価の尺度はピンチの災難度を100点満点とし作者が独自評価。発生頻度も5段階で表示して読者の期待に応えようとするアイデアいっぱい。

ガムを吞みこんでも「だいじょうぶ。そのうち、うんちといっしょにでてくるぞ」といい、用をたしたあとにトイレに紙がないことに気づいたら、「そんな時は芯を破いて広げて紙がわりにしろ」と説く。「おおまかに拭いたらそのまま歌でも歌ってじっとしていよう。そのうちおしりもかわく」と諭すのだから爆笑ものではないか。今時の子どもたち。誕生日にはともだちが集う。パーティに招かれたらプレゼントは必携だろう。「プレゼントを忘れた」ではすまされない。そんな失敗をしたらどうするか。「家に忘れてしまった。ごめん」と告げて「後日、パーティの記念写真をプレゼントしたら、きっと喜んでもらえる」と勇気づけする気配りも忘れない。

こんな場合はどうか。「どしゃぶりなのに傘がない」、もう手の打ちようがないのかと大ピンチレベルは100点だ。気持ちが暗くふさぎ立ちすくむ少年。だが、ピンチのあとにチャンスありというではないか。『大ピンチずかん』では可憐な少女がそっと近づき、少年に傘をさしかけてくれたではないか。で、作者は「大ピンチなんてこわくない」と結ぶのである。

ピンチに遭遇する少年の困惑した表情や困難に立ち向かうすがたが豊かに描かれるイラスト、軽妙な語り口で運ばれる絵解き風の短いテキスト。図鑑のようではあるが図鑑ではない。愉快にふんわりと語る「ずかん」となり「絵本」となっている。無駄を省いた絵と文の連なりで読後感も爽快だ。

(おび・ただす)

『大ピンチずかん』
鈴木のりたけ/さく
小学館

子ども歳時記147 「タイパ」と『はなを くんくん』/池田加津子(ルース・クラウス/文、マーク・シーモント/絵、きじまはじめ/訳、福音館書店)

歳時記147

 「タイパ」と『はなを くんくん』 池田加津子

どこからともなく沈丁花の香りが漂い季節の移り変わりを感じます。

歳時記147
歳時記147

最近、「タイパ」という言葉が流行語になっているそうです。タイムパフォーマンスの略語です。情報収集の時間当たりの効率との意味です。録画した映画や、学生の場合は講義内容を倍速、3倍速で視聴するなど、若い世代を中心に広く行われていると報道されています。

情報があふれかえり、ともすれば過多ともいえる情報の海の中で押し流されそうになる現代社会。いかに効率的に情報を処理するかが重要課題のひとつになっていることの象徴かもしれません。

これと対極的なのが絵本の世界ではないでしょうか。たとえば、『はなを くんくん』(福音館書店)。雪に埋もれた林で、くま、のねずみ、かたつむりなど、さまざまな動物が眠っています。とつぜん、みんなは目をさまし、はなをくんくんさせながら駆けていきます。ページをめくるたびにどんどん増えていく動物の種類と数が子どもたちの期待を高めます。その先には雪のなかに咲き出した小さな花がひとつ。春の兆しでしょう。その花を囲んで、みんなは笑って踊り出します。その眼差しには嬉しさと喜びがあふれ輝いています。

カラフルな絵本が多いなかで、全編モノトーンで表現されていて、唯一小さな花だけが黄色に色づけされています。文字も本当に簡潔です。「くんくん」という楽しく優しいひびきの擬音語に導かれ、絵を通してあれこれと様々に想像することを読者にうながすようです。はなをくんくんさせながら、です。

眠っている動物たちがはなをくんくんさせて見つけたもの。それはモノトーンの世界に黄色く色づけされた小さな花。私は、この小さな花が本当に価値あるものを示唆しているように感じています。

長田弘さんの「におい」という詩に、こんな言葉があります。

《心のこもったものは、ちゃんとわかる。心のにおいがするから。うそじゃない。よい心は、よいにおいがするんだ。……何も思い出せなくても、匂いはずっと覚えているというのは本当だ。いい匂いをのこすんだ、いい思い出は。》

 現代社会は情報にあふれています。同時に、普段は意識しなくても、自分の中の無意識の世界には、生まれてから今までに見聞きしたこと、喜んだこと、悩んだこと、そして折り合いをつけてきたことなどなど、膨大な知識や感情が含まれています。いわば、自分だけの素晴らしい情報の世界ともいえましょう。

自分の外の社会の情報に対して「はなをくんくん」。それとともに、自分のなかの無意識の世界という膨大な情報に対しても「はなをくんくん」。

『はなを くんくん』の原題は『THE HAPPY DAY』。幸せな日です。あなたの黄色い花を、ゆっくりと見つけてみませんか。

(いけだ・かずこ)

池田加津子
池田加津子