飫肥糺 連載130 かぎりなし。ひろがる少年の想像力 『まっくろ』(講談社)

飫肥糺 連載130 かぎりなし。ひろがる少年の想像力 『まっくろ』(講談社)

「画用紙を黒くぬりつぶす子どもが描いていたのは?」、帯のコピーにひかれて絵本『まっくろ』を手にした。先生の「みんなの心に浮かんだことを描いてみましょう」の一声で、思い思いの絵を描きはじめた子どもたち。小学校の美術の教室風景から物語ははじまる。ひとりの少年が画用紙をまっくろにぬりつぶしている。おどろいて目をまるくする先生は「ちゃんとした絵を描きなさい」といわずもがなの一言を吐いてしまう。ちゃんとしたなんてどんな絵なのだろうか。だが、ぬりつぶすことに熱中する少年はそんな注意なんか馬耳東風、一枚の画用紙をまっくろにすると、二枚目、三枚目、四枚目をと同じように黒くぬりつづけるのだ。

 

一読して、ぼくは美術教育で知られる「キミ子方式」を想いおこした。80年代の後半、かつてH社の編集者であったころ、同僚が子どもたちと学ぶカラフルな絵画教育実践書『三原色の絵具箱』(松本キミ子/堀江晴美:共著)を制作中で、著者とともに子どもたちも参加する実践的な本づくりをしていた。これらスタッフの表情が充実して楽しそうに見えたのが記憶に残る。この絵画指導法は小中学校で美術教師だった松本キミ子が1970年代半ばに子どもたちにも描く楽しさを持たせたいと授業を展開する中で考え出された。構図や形から描きはじめ、そののちに色をぬっていくという従来の描き方は子どもたちには難しいらしく、描くのが苦手な子どもたちを生んでしまうらしい。


そこで、松本は考えた。赤・青・黄の三原色に白の4色の絵具があれば自然界のどんな色だって作りだせるのだから、まず描く対象の色を三色+白色で造りだす。そして、構図を考えてから描きはじめようなどと言わず、下描きもせず、輪郭線も描かず、はじめから絵具で描く。動物だったら鼻か口を描く起点として描き、つぎに、となりの部分を描く。となりを、となりをと描いていく。画用紙のサイズにあわせて描くこともしない。紙が足りなくなったらどんどんつぎたして、余ったら切ればいい。あとは想像力にまかせて自由に楽しみながら描くだけ。こうして、子どもたちは部分を描き上げるたびに、「絵が描ける」「絵を描いた」という達成感を獲得する。キミ子方式は仮設実験授業を提唱した科学教育研究者の板倉聖宜の評価を得て、以降、全国的に普及する飛躍的な広がりを見せた。

 

すっかり横道にそれてしまったが、なにかひとすじ、絵本『まっくろ』の少年と描き方で通底するところがあると思うのだがどうだろうか。

ページを何度となくめくっても、少年の画用紙をまっくろにぬりつぶすいきおいはおさまらない。果たして少年は何を考えているのか。ただただ黒くぬりつぶしているだけなのだろうか。

ここから物語は、ぐん、ぐーんと飛躍する。学校を終えても、家に帰っても、朝がきても、休みだって少年は画用紙に向かいまっくろにぬりつづけた。紙が足りなくなったらつぎたす。すでに数十枚から百枚に近づいた。まあ、こんな展開が現実なら、「この少年はいったいどうしたんだ。何かおかしいぞ」と、先生だけでなく、少年のともだちや、とうさん・かあさんに、じいちゃん・ばあちゃんも、みんなみんな心配になるだろう。

しかし、これが物語の意図する真骨頂なんだと、ぼくは思う。心配を裏がえせば痛快で面白いストーリーとなる。少年は周囲の心配なんか、なんのその。ぬりつぶす手をとめない。まっくろくろくろ、まっくろけと画用紙をつぎたしては黒くぬりつぶしていくのである。

ところが、つぎたしていく紙が数百枚に達するころ、黒くぬられていく画用紙に少しずつ白いスペースが見えるようになった。黒色は婉曲して描かれて白地はしだいにふえていく。体育館だろうか。少年の画用紙が一堂に広げられた。そこにはなんと、とてつもなく大きなくじらの姿があらわれたではないか。

……少年は、まっくろにぬりつぶしてなんかいなかったのである。少年は、こころに浮かんだくじらを脳裏に映し出し、黒い部分から部分へと描きつづけていたのだった。大きくて丸味のある胴体にやさしい目の描かれたくじらの絵は、あたたかい親しみを感じさせる大作品となったのである。

この作品、大人の常識をはるかに超える想像力や発想力をもつ子どもたちの感性をうばわないようにと訴える公益社団公共広告機構の全国キャンペーン「IMAGINATIONWHALE」から生まれた作品である。その意を絵本は実現したのではないだろうか。(おび・ただす)

飫肥糺 連載129 「猪突猛進」とはどんなこと。イノシシの語る「まっすぐ」とは…? 『ちょとつ』(絵本塾出版)

去年が明けて新年が動きだす。二年来の新型感染症パンデミックは世界中をなお震撼させつづける。日本だけが第5波の荒波が去ったのち大波の再来がない。幸運があったか民族性が利したかと喧しいが不思議ではないか。しかし、第6波の襲来は必ず来るとも語られるのだから安心できない。用心に越したことはないのだ。

 

それにしても、わが国のコロナ対応は後手後手にまわり右往左往した。首相ふたりが退陣したいま、3人目の岸田内閣が指揮を執る。慣れない緊急事態であったことを差し引いても、科学者たちの知見のあつかいや施政の混乱など失態はひどかったと思う。それだけに動きはじめた新しい政府行政への期待は大きいはずだが果たしてどうか。隠蔽体質で突っ走る唯我独尊で猛進するリーダーも困るが、生半可の知見で回答ずらして恫喝猪突するリーダーも困る。

 

で、今回は猪突猛進イノシシの爽快なおはなし。

近年、ぼくの住む房総半島ではイノシシやキョン(外来種のシカ)が出没して田畑の農作物を食い荒らす被害が多発する。作物を食い荒らされる農家や危害を受けることもありの住民にとっては大問題。営林衰退で山林も荒れ獣たちの食材が細る。開発拡大で宅地は山地に接近する。無頓着に自然の原理に逆らってきたぼくら人間たちのふるまいが大きいのではないか。

 

イノシシは神経質で警戒心の強い動物である。だから、見慣れないものは避けようとし、人間と出くわしても余計なことをしなければ自分から離れていくという。もちろん、挑発すれば、強く反撃する。成人男子なみの体重で時速40~50キロで走るという突進力。視力は弱いがするどい嗅覚で突進するのだ。突撃を受けると大の大人でも突き飛ばされる。ただの傷ではおさまらないはずだ。かくして、「猪突猛進」なる四字熟語も生まれた。

 

一方に人気者のイノシシもいる。かつてバス旅行で訪れた天城峠の「いのしし村」にはゆかいで達者な舞台芸を見せるイノシシがいた。イノシシの知能は高く学習能力を持つ。いま、各地の動物園でサルなどを背に乗せて走り回るウリ坊を見た人も多いのではないか。(ウリ坊=幼少期のイノシシ)

 

絵本『ちょとつ』に描かれるイノシシもなかなか愛嬌たっぷりの元気なイノシシだ。もちろん脇目もふらず猪突猛進する。走る。どんどん奔る。まっすぐ走る。

物語はすごく明快で爽快ストーリー。主人公イノシシが自分の一週間の行動を自画自賛して報告する。歯切れよい言葉がテンポよく弾み、まっすぐな主人公の動きを奔るスピードに乗せたイラストがぐいぐい展開する。痛快・爽快・愉快な気分のいいユーモア作品なのである。

 

月曜は大根畑をふんづけて走り、火曜は傷を負いながらも林の中に突進し、水曜は人家に突っ込み、おっちゃん、おばちゃんが食事中の卓袱台の上を走り抜ける。木曜には信号無視で交差点を通り抜けてしまう始末。とにかくイノシシ曰く。「ぼくらイノシシは、な。まっすぐしか、はしらへんねん! 」と胸を張り、「どや、すごいやろ」と自画自賛するのだ。だが、おっちゃん、おばちゃんには「かんにんやでー」と詫び、信号無視の後始末に「あかしんごうは ちゃんと とまらなあかんでー」と反省自戒の弁も語るではないか。ユーモアもいっぱいなのだ。

 

金曜の話。イノシシは川を前にしてまっすぐに飛び込み溺れてしまう。おはなしに「オチ」を配する巧みさで、土曜は大雨でひと休みでずっと寝るという幕間の味わいをみせる展開も面白い。

 

雨があがった日曜は最高の快晴びより。気分全快で突進するイノシシの前方に、ヒバリの子だろうか、鳴き声が聞こえる……、ここからフィナーレに連なる大胆な絵画展開が見ものだろう。あの、何があっても曲がることがだいきらいなイノシシが鳥の巣の直前で急に右旋回したのである。一言も発することなく猛スピードで走り去るイノシシの後ろ姿にあたたかい空気を感じとれると思う。

 

主人公イノシシの「猪突猛進」は配慮や反省なしに突き進むことではない力強さを意味していると思う。イノシシの語る「まっすぐ」とは、辞典のいう「正直で正しいさま」であったが、絵本から、ときに曲がることだってあることを知った。よどむ気分を一掃させるおはなしである。
(おび・ただす)

 『ちょとつ』

立川治樹/ぶん

くすはら順子/え

絵本塾出版

飫肥糺 連載128 損得なしの関わり。 素朴な真情から生まれるともだち。 思いがけない契機からだって……。『ともだち』(リーブル刊)

8年前の2013年、ぼくは「絵本フォーラム」第91号で『ともだち』(玉川大学出版部刊)を取りあげている。谷川俊太郎が「ともだち」の語釈を詩文で語り、和田誠がその語釈を特異な誰にも親しいイラストで表現した。


絵本は、「ともだちって
…、ともだちなら…、どんなきもち…」などと美しいことばと絵で語りかける作者ふたりの人間や平和に対する思いが彷彿する名作だ。ぼくのような高齢者にも示唆を与えてくれた。

 

ぼくはこの一文のなかで数人の友人について触れた。かれらは、永い交友のなかで友となった「そばにいなくても いまどうしているかとおもいだす」幼なじみや「かあさんにもとうさんにもいえないことをそうだんできる」学友や、談論風発呑み交わし師弟関係にも似た「としはちがってもともだちはともだちである」小説家だった。いずれも共通するのは利害関係いっさいなし。友人というより親友・畏友でだ。友人だと思っても半数は自分を友人と思っていないという調査結果もある。友人親友をひとくくりにはできない。

ところで、友人は作ろうと思ってつくれるのか、いつのまにか友人になっていたという関わりだろうか。

 

同じタイトルの幼児絵本『ともだち?』(リーブル刊) がその一例を物語っている。

 

森の学校に転校してきたばかりのオオカミのロウロウが主人公。敵役は狡猾なキツネのツネだ。そして、ロウロウのかあちゃんが渋い役回りを担う。この三人(匹)の動物たちが主なキャストでおはなしは展開する。

 

イラストも力感あふれるいい展開だ。赤緑茶黄白を濃密に彩色し塗り込んで動植物に大胆にシャープに描出して魅力をひきだしている。この色彩・造形がおはなしに適う力強いリズムを生み出したのではないかと思う。

 

ロウロウはともだちが欲しくてたまらない。けれど、おしゃべり苦手でうまく声をかけられない。そればかりか、怖がられてしまうのだ。だから、ロウロウの学校での立ち位置は、たのしそうに遊ぶみんな、ひとりぼっちのロウロウ”の構図となる。


で、ロウロウはかあちゃんに「ともだちはどうすればできるか」とたずねるのだが「いつか
 きっとできるよ」とそっけない。なんだか悠然としている。それより「とおぼえのけいこをしてごらん。こころがおおきくなるよ」と促すのだ。ロウロウはかあちゃんのいうように遠吠えの練習にはげむ。ロウロウは素直な少年なのだ。

 

物語はマラソン大会で盛り上がる。優勝宣言をしたのはキツネのツネだ。走ることなら負けないとロウロウも自信を秘める。勝てばともだちができるかもしれないと希望もふくらむ。

 

ツネがスタートからすごいスピードで走り出す。ロウロウはゆっくり走り出し後から追い上げる戦法をとった。しだいにロウロウはみんなを抜き去り残るはツネだけに。ところが、だ。ツネは腹痛で走れないとうずくまっていた。そこでロウロウは、なんとツネを背中に乗せて走り出したのだった。

 

ゴールに近づくと腹痛が治ったというツネを降ろす。降ろすや否やツネは全速で走り出したではないか。ツネはそのままゴールインして優勝。走り去るツネを呆然と見送るだけだった。ロウロウは何も言わずに立ち去った。……ツネの腹痛は狡猾でひきょうな作戦だった。

 

まんまとはめられたロウロウだが、その夜もロウロウは遠吠えの練習にはげんでいた。驚いたことに、そこにツネがやってきたのである。ツネは「おいらのこころはちっちゃい。きたない」と反省のことばを吐き、本当の優勝はロウロウだと懸命に謝るではないか。ずるをして得た優勝はツネの心を喜びからすっかり苦痛に変えていたのである。かくして損得の感情を捨て去ったふたりが「いっしょにとおぼえをしよう」と吠え合ったのは語るまでもない。いつのまにか二人は「おれたち、もう、ともだちだよね」とたがいを認めていた。

 

損得・利害でつながらない。ロウロウのような真情を持つことができれば、あせることはない。自然に友だちはできるのだ。

(おび・ただす)

 

ともだちうえの よし/作 さとう のぶこ/絵 リーブル

飫肥 糺 連載127  色彩の魔術師、色と形、何か知らぬが何かを語り何かを示唆する『あかいふうせん』(ほるぷ出版)

 45年も前から机上の書架に差し込む絵本がある。イエラ・マリの『あかいふうせん』だ。はじめて読んだのは1976年。今はもう50前後になる子どもたちが幼児であったころの絵本。以来、ぼくはこの絵本を数知れぬほど抜き出しては読みつづける。
気はときに晴れときに曇る。そのたびに絵本は、何か知らぬが何かを示唆し何かに応えてくれる。無心に遊ばせてくれる本というのだろうか。

四方22センチの小ぶりな正方形の表紙。見るもあざやかな深紅(赤)の風船が紙面いっぱいに浮かび濃密な地の緑と対照する。みごとな色彩と造形。ぼくはそれだけでずんと魅き込まれてしまう。
本扉を開くと深紅の風船をふくらます少年登場。そしてページをめくるたびに風船はすこしずつ変形していく。

ふくらみきって少年の口許をはなれて宙に飛翔した風船は風に吹かれて木の枝に生(な)り変化(へんげ)する。おやおや、りんごになったぞと驚いたら熟したりんごは枝から放れ、深紅の羽を広げるチョウに変身、華麗に空に舞う。舞い疲れたかチョウは草花しげる野原で一休みしてまた変化(へんげ)、四つの羽を真っ赤な花びらに。だれの手か。変化(へんげ)した大きくてあでやかな花に手が伸びる。遠くに暗雲がたれこめると花はさらに傘へと形を変えて降りしきる雨をしのぐのだ。あぁ、そうだったかと気づけば、花咲く茎をもぎった手の主ははじめに風船をふくらませたあの少年だった、というシンプルすっきりの物語だ。

こんなシンプルな絵本を魔術師と称えられる作者が圧巻の傑作に創造する。
本扉から結末まで変身変化する風船にしか彩色されていない。あざやかで深みある紅(赤)だけの彩色。ふしぎなほど全ページが同じ色調で色ムラがない。

実は、作者イエラ・マリは原画に彩色をしていない。これこそが魔術師の種明かし。作者の欲する彩色実現のために、一般の制作で油彩・水彩等絵具で描いて原画とし、カラー分解して印刷インクで刷りあげる方法を作者は執らないのである。印刷インクそのものを作者が選択して指示し望みどおりの発色を実現させるのがイエラ・マリの手法なのだ。グラフィックデザイナーの面目躍如である。色彩の魔術師といわれる由縁ではないか。

造形はすべて墨色による線描だ。0.2ミリ程度の繊細な線は、少年や樹木・草花を優雅でやわらかな曲線で描き、にわかに降り出す雨脚はするどい直線で描く。さらに真白の地色に深紅(赤)や墨線だけで造形した構図が印象的ですばらしい。色と形、これらすべてが心を躍らせるではないか。

ふたたび実は、この本はテキストなし。文字のない絵本である。だから読(よ)んだというのは少しニュアンスを異にするのかもしれない。よく「絵が語りテキストが描く」と絵本について語ることがあるが、『あかいふうせん』は、まんまるまるごと絵本だろう。
45年を経ても読むたび語りを聴くたび、ぼくを無心にいざない、この絵本は、何か知らぬが何かを示唆し何かを語りかけ何かを心の裡に描かせている。

 

『あかいふうせん』
イエラ・マリ/さく
ほるぷ出版

 

飫肥 糺 連載126  だいきらいだけどだいすき。二匹のねこの心のはたらき『おふろだいすきねことおふろだいきらいねこ』(赤ちゃんとママ社)

おふろだいすきねことおふろだいきらいねこ

 それにしてもなぁと思う。世界を俯瞰すればコロナパンデミックはまだ衰えていない。後手にまわる施策をつづけて混乱する日本も同じだ。緊急事態やら蔓延防止重点措置やらとくりかえされて、朝夕の散歩をのぞけば、ぼくの毎日もおおむね在宅の巣ごもりとなる。

コロナ禍ぐらしも一年有余。二度目の夏至が近づいた。晴れの日の散歩路にふりそそぐ陽ざしは強くなり、ときにじりじりと肌を焼く。だから、心中は決しておだやかでない毎日だが、巣ごもりのわりに顔色は悪くないと思う。

こんな日は、朝・昼とシャワーを浴び、夜の入浴も欠かさない。汗や垢を落とし全身を満遍なく温めるという入浴行為。その前と後で、重くもやる気分は、軽く爽快な気分になる。魔法のような薬効を入浴は持つ。

入浴ばなしを絵本にした『おふろだいすきねことおふろだいきらいねこ』。入浴ぎらいのどろねこドンタが魅力的だ。ドンタは入浴をいやがる子ねことして登場する。水が大の苦手でふろぎらいだ。水あそびなんてまっぴらで、ひとりぼっちでどろんこ遊び。だから、ドンタはどろまみれの黒ねこである。

ドンタのおふろぎらいをおふろだいすきに変えてくれるのがいっしょに暮らすポッポだ。だけれど、「おふろで遊ぼうよ」、「いっしょに水遊びしようよ」とポッポがさそっても、ドンタはまったくのってこない。そればかりか、ドンタはポッポにいたずらし、ちょっかいをだす。悪態ばかりつくのである。そんなことを少しも気にしないのだからポッポのおねこ(人)がらには感心させられるのだが……。ポッポはドンタがだいすきでいっしょに遊びたい一心なのだ。

ある日のこと、ドンタの魚好きを知るポッポは「釣りなんてだいきらい」とつれないドンタを尻目に池に向かう。

魚だいすきなドンタは、本当はポッポの釣りが気になってしょうがない。ここで、事件が勃発する。魚の強い曳きに負けてポッポが池に落ちたのだ。水中からなかなか顔をださないポッポ。悪態つくばかりのドンタがどうしたことか心配しはじめるではないか。ついには夢中で池に飛び込んでしまう。池で手足をバタバタさせるドンタ……。

ドタバタ劇は、浅い池の中でもぐったまま魚を追っていたポッポがドンタを助けてジャジャーンとなる一幕である。

ドンタのことがだいすきなポッポ。一方のドンタはポッポがだいきらいだ(と思っていた)けれどだいすきだったことに気づく。”きらいきらいはすきのうち”ということだろうか。

かくして、水中の気持ちよさを知ったドンタは水ぎらいを卒業しポッポとおふろ遊びも楽しむようになる。さらに愉快なことに、おふろにすっかり洗われてドンタが黒ねこでなく白ねこだったとわかる結末も……。なかなかいいおはなしだろう。

 

書名はともかく何度も読み返すと、この絵本は心のはたらきの多様さを描き、それぞれのはたらきが優劣をつけて善し悪しを語るなどもってのほかだぞ、と普遍の理を語っているように読める。人見知り・邪険・ねじけ・内向性、そして、人なつこさ・親切・素直・外向性などの言葉が脳裏をめぐる物語だと思う。

ドンタ、ポッポ。二匹のねこともに個性ゆたかで魅力的に描かれる。”だいきらいだけどだいすき”のフレーズのひびきがいい。素朴な味わいのイラスト展開、素直なやさしい言葉でテキストは綴られる。

作者のお人柄が存分に表現された作品ではないだろうか。(おび・ただす)

 

『おふろだいすきねことおふろだいきらいねこ』

古内ヨシ/作 (赤ちゃんとママ社)

 

飫肥 糺 連載125  圧巻絵画ときれきれのことばがふたりの関係をにやりと語る『ふたり』(富山房)

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 広がる在宅ワークも拍車をかけたのだろうか。ペットを飼う人びとが増えている。なかでも、たいへんなネコブームだという。ネコは、犬より散歩やトリミングなどの手がかからなくて飼いやすいこともあるだろう。

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ところが、ネコはもともと単独でも生き抜く力を身につけた動物だ。だから、犬のようには人間になつかない。愛されるネコにとって居心地は悪くないはずだが、人間たちが思うほどなついてはくれない。飼い主とネコとのこんな関係、いくらかなりと人間親子の関係に似てないだろうか。

ぼくは犬派である。犬と永く暮らしてきたこともあるからだろうか。学童期に見た獰猛なネコのすがたをどうしても連想してしまうのである。1950年代の南九州。宮崎の田舎町で育ったぼくは鶏小屋のひよこを襲うネコを何度も見た。衛生インフラが全国的に未整備であった時代、どこにでもネズミがいた。ときおり、ネコとネズミが夜半の深い静寂を破る。天井空間をドタバタと追い逃げまわる両者の狂騒音声である。童心には不気味だった。

不仲のたとえを「犬猿の仲」という。ネコとネズミの関係は仲の悪さばかりではない。ネコは魚肉好きだがネズミも食う。肉食だから当然で不思議ではない。ネズミは猫にとって食べごろの大きさにちがいない。けれど、ふんだんに好餌を得られる現在の飼いネコたちはネズミを餌としないのかもしれないが、野良ネコはどうだろうか。本能を研ぎ澄まして小動物をおそうはずだ。環境は動物を変え、人を変えるのである。

十二支動物の由来伝承は面白い。正月の寺詣競争が動物たちの間にひずみを生じさせる話だが、もともとは、犬と猿も、ネコ(あるいはトラ)とネズミも、仲は良かった。昨今のテレビ動物番組には、犬の背に乗り愉快顔の猿やネコに抱かれるように眠るハムスター(ネズミの一種)なども登場する。まぁ、環境が整えば仲の悪さは仲の良さにも転じるということだろうか。

鬼才・瀬川康男はネコとネズミの絶妙なふたりの関係を圧巻の絵画ときれきれのことばで描ききっている。ネコがネズミを見つけてにやりとしパンチを食らわせておそう。だがしかし、ネズミだってそうはさせぬとひらりと逃げる。もちろん、疲れきったふたりは仲良く眠りこける結末。動物ふたりの鬼ごっこのような動きが、鮮烈に眼に飛び込んでくる物語である。

作者は自然のなかに生きる多くの生き物たちと息遣いを共にした。そのせいだろうか、作者が描くネコとネズミの活き活きとした表情がいい。ダイナミックでコミカル、そして洒脱な味わいは、子どもから大人の心まで掴んでしまうのではないかと、ぼくは思う。

独特の繊細で切れ味鋭い線と点の描出は原画をリトグラフにしたことでいっそう鮮明な表現に。とにかく、様式美に通じる左右の頁構成から文様や描き文字など細部まで徹底した作品づくりに、書籍編集を経験してきたぼくは、ただ唸ってしまうばかりなのである。

語られることばも強く生きている、きれきれですごい。にやり、で始まり、きらり・ばさり・にたり・ひらり・とぷり・どぶり・げろり・ばたり・ねたり・ふたり、そして、おわり、で閉じる。わずか12語だけで綴りきっている。助数詞のふたり、名詞のおわりを除けば副詞だけ。すべての単語が「り」の韻を踏む。なかに造語まで加えて、ひねりにひねり、物語る。秀逸な詩歌のリズムではないだろうか。稀な傑作のひとつだと思う。(おび・ただす)

『ふたり』

瀬川康男/さく

冨山房

飫肥 糺 連載125 『ふたり』 (冨山房)

ムカッ やきもちやいた

たましいをゆさぶる子どもの本の世界 125

圧巻絵画ときれきれのことばがふたりの関係をにやりと語る

『ふたり』(冨山房)

広がる在宅ワークも拍車をかけたのだろうか。ペットを飼う人びとが増えている。なかでも、たいへんなネコブームだという。ネコは、犬より散歩やトリミングなどの手がかからなくて飼いやすいこともあるだろう。

ところが、ネコはもともと単独でも生き抜く力を身につけた動物だ。だから、犬のようには人間になつかない。愛されるネコにとって居心地は悪くないはずだが、人間たちが思うほどなついてはくれない。飼い主とネコとのこんな関係、いくらかなりと人間親子の関係に似てないだろうか。

ぼくは犬派である。犬と永く暮らしてきたこともあるからだろうか。学童期に見た獰猛なネコのすがたをどうしても連想してしまうのである。1950年代の南九州。宮崎の田舎町で育ったぼくは鶏小屋のひよこを襲うネコを何度も見た。衛生インフラが全国的に未整備であった時代、どこにでもネズミがいた。ときおり、ネコとネズミが夜半の深い静寂を破る。天井空間をドタバタと追い逃げまわる両者の狂騒音声である。童心には不気味だった。

不仲のたとえを「犬猿の仲」という。ネコとネズミの関係は仲の悪さばかりではない。ネコは魚肉好きだがネズミも食う。肉食だから当然で不思議ではない。ネズミは猫にとって食べごろの大きさにちがいない。けれど、ふんだんに好餌を得られる現在の飼いネコたちはネズミを餌としないのかもしれないが、野良ネコはどうだろうか。本能を研ぎ澄まして小動物をおそうはずだ。環境は動物を変え、人を変えるのである。

十二支動物の由来伝承は面白い。正月の寺詣競争が動物たちの間にひずみを生じさせる話だが、もともとは、犬と猿も、ネコ(あるいはトラ)とネズミも、仲は良かった。昨今のテレビ動物番組には、犬の背に乗り愉快顔の猿やネコに抱かれるように眠るハムスター(ネズミの一種)なども登場する。まぁ、環境が整えば仲の悪さは仲の良さにも転じるということだろうか。

鬼才・瀬川康男はネコとネズミの絶妙なふたりの関係を圧巻の絵画ときれきれのことばで描ききっている。ネコがネズミを見つけてにやりとしパンチを食らわせておそう。だがしかし、ネズミだってそうはさせぬとひらりと逃げる。もちろん、疲れきったふたりは仲良く眠りこける結末。動物ふたりの鬼ごっこのような動きが、鮮烈に眼に飛び込んでくる物語である。

作者は自然のなかに生きる多くの生き物たちと息遣いを共にした。そのせいだろうか、作者が描くネコとネズミの活き活きとした表情がいい。ダイナミックでコミカル、そして洒脱な味わいは、子どもから大人の心まで掴んでしまうのではないかと、ぼくは思う。

独特の繊細で切れ味鋭い線と点の描出は原画をリトグラフにしたことでいっそう鮮明な表現に。とにかく、様式美に通じる左右の頁構成から文様や描き文字など細部まで徹底した作品づくりに、書籍編集を経験してきたぼくは、ただ唸ってしまうばかりなのである。

語られることばも強く生きている、きれきれですごい。にやり、で始まり、きらり・ばさり・にたり・ひらり・とぷり・どぶり・げろり・ばたり・ねたり・ふたり、そして、おわり、で閉じる。わずか12語だけで綴りきっている。助数詞のふたり、名詞のおわりを除けば副詞だけ。すべての単語が「り」の韻を踏む。なかに造語まで加えて、ひねりにひねり、物語る。秀逸な詩歌のリズムではないだろうか。稀な傑作のひとつだと思う。(おび・ただす)

『ふたり』

瀬川康男/さく

冨山房

飫肥 糺 連載124 『ムカッ やきもちやいた』

ムカッ やきもちやいた

たましいをゆさぶる子どもの本の世界 124

理性で御せない「やきもち」の感情……。火消しはどうする

ムカッ やきもちやいた』  くもん出版

 

なにかと自粛を要請されるパンデミックの現在。巣ごもり暮らしをつづけ、たまの外出は三密空間を避ける。我慢するしかない。しかし、しびれをきらして我慢できない人々も出てくる。コンビニレジで不条理な難癖をつけて怒声をはる人、マスク装着をめぐり電車内でいさかいを起こす人……。苛立つ人びとの気分や感情はいかばかりかと思う。滅入る気分を、ぼくは朝夕の散歩で解放する。途上で遭う子どもらの遊び放つ歓声(こえ)を聴くのがなによりで、ぼくの気分をほぐしてくれる。


理性だけでは御せない感情を、『辞林』はある状態や対象に対して主観的に抱く心の動き・気持ちのことだという。喜怒哀楽や好き嫌い・おそれ・おどろき・あきらめ・あこがれ・ねたみ・うらみ等々、ヒトの抱く気持ちは多様に広がる。


『ムカッ やきもちやいた』と題する絵本がある。こんなタイトルを眼前にしたら、少々たじろぐ読者もいるのではないか。やきもちを焼くとは、誰かをねたみ、そねむという厄介な心の動きだ。つまり、嫉妬するということだろう。栄誉や佳品を手にした誰かを羨ましいと思う羨望の気持ちとはちがう。嫉妬する感情は<自分と誰かと誰か>の三者関係に起因する。


作者は子どもたちに向けて「やきもちは やかないほうがいい。もし やきもちがうまれたら ちいさいうちにけしておこう」と、この厄介な心の動きを主題として読者に愉快に物語る。物語の主人公はるいちゃん。るいちゃんはわたしわたしは一人称で胸を突く短い言葉で語りつづける。


わたしの一番の仲良しはふうこちゃんだ。ある日、クラスに転校生アンリちゃんがきて、ふうこちゃんのとなりの席にすわる。かくして、わたしとふうこちゃんとあんりちゃんの三者関係が生まれた。ここから、物語は転びはじめる。深刻ではない、愉快に展開する。太い描線で同調させ、やきもちを焼くわたしの表情変化(へんげ)を大胆に描きわけたイラストも、テキストと並行して楽しく転ぶ。


やさしいふうこちゃんはクラスに不慣れなあんりちゃんに何かと気を配る。話しかけたり教えたり。そのたびに「ムカッ」とするわたし。心の中に突然噴きだすこの気持ち。一体なんなのといった思いだろうか。あのふたりが一緒にいるだけで、わたしは「ムカッ」「ムカッ」と込みあげてくるのである。


ふうこちゃんが「いっしょにかえろう」と誘ってくれても「ムカッ」が込みあげて、「いそいでるから さきにかえる」と、本当はうれしいのに、うそまでついてしまう。こんな感情を持て余す小さなわたしの心の裡。そんなとき、弟のけんたが赤ちゃんのゆうたに「お母さんをとられた」と泣きわめく。で、わたしは反射的に言い放つ。「あかちゃんにやきもちやいてどうすんのよ!」。「あれっ」と、自分の言い草にわたしは何かに気づいたのである。<あれ、あれっ。わたしも、やきもちを焼いてたんじゃないか>と。


作者は「やきもちとの付き合い方はむずかしいぞ」と正直に伝えている。作者の善意だと思う。だから、できるだけ早くこんな火は消さなければならないと次善の策を提案する。


作者は物語を、わたしが何とか火を消すのに成功して三人仲良く遊ぶハッピーエンドで結ぶ。大人も子ども変わりなく不意に瞬時におそわれる厄介なやきもちを焼き・嫉妬する感情。なかなかのくせものだ。親子いっしょに読みたい主題だろう。

(おび・ただす)

 

 

ムカッ やきもちやいた』

かさいまり/さく

小泉るみ子/え 

くもん出版

飫肥 糺 連載123 『葉っぱのフレディ—―いのちの旅――』 

「絵本フォーラム」第134号・2021.01.10

生きること・死ぬことをみんなで考える 示唆に富む絵本  『葉っぱのフレディ—―いのちの旅――』(童話屋)

飫肥 糺( 批評家・エッセイスト)

葉っぱのフレディ
葉っぱのフレディ

 数量では測れない重さがある。喜怒哀楽の感情などがそうで、最も尊重されなければならないのが「いのち」の重さだろう。コロナ禍の一年、そんな人命の重さが軽く扱われていないか。死者や感染者数の多少で他国や他地域と較べて優劣を語る風潮はどうにも不遜に思えて気分が滅入る。

 師走も半ば。新型コロナ感染の波は止まらない。連日のように過去最多という各都道府県の感染状況が報道される。「これからの3週間が勝負だ」と担当相が拳をふりあげる。首相は「いのちと暮らしをしっかりと守る」とボソッとつぶやく。つまりは自主的行動変容を求める精神論……。一方で自ら仕掛けた旅行・飲食を煽るGO TOキャンペーンは続行というのだから矛盾だらけだ。続行を固執する背景は奈辺にあるやだ。かくして感染拡大はつづく。医療従事者は極度に疲弊し医療体制は逼迫、崩壊の瀬戸際にある自治体も出てきた。

 ようやく政府が重い腰を上げたのは12月も14日。年末年始の15日間GO TOトラベル停止を決定した。世論に押された渋々の決断だったと思う。

 コロナ禍と関わるのかは不明だが深刻な問題も進行する。自ら命を絶つ人びとの増加である。

 旅行や外食など恩恵を受けるのはゆとりのある一握りの人々にすぎない。コロナ禍は拡大する格差社会を顕在化した。一人親家庭、非正規就業者、高齢療養者、失職者、将来を憂う若者たち……。先行きの不安を抱え込む人びとは少数ではない。自殺者のなかに現況に因果を持つ人が存在してはいないかと胸が痛む。

 ぼくは学校教育の場で「生きるとは?/死ぬとはどんなことか?」と、問い・考える学習を受けたことがない。日本が「自殺大国」と不名誉な呼ばれ方をするのは、児童生徒期の学習課程で哲学や心理學など人間の生死について学ぶことが少ないことに多少は関係していないかと勝手に推し量っている。

 絵本『葉っぱのフレディ』にこんな場面がある。紅葉時期を経て寒さや強い風が楓の葉をおそいはじめる。葉っぱはこらえきれずに枝から吹きとばされてゆく。主人公フレディの親友ダニエルは、おびえる葉っぱたちに「みんな引っ越しするときがきたんだよ」と諭す場面だ。さて、引っ越しって何だろう。

 考えることが好きで物知りなダニエルは、いつもフレディのよき相談相手である。「引っ越しって死ぬことでしょ。ぼくこわいよ」とフレディは不安げだ。ダニエルは「春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。変化するって自然なことなんだ。死ぬというのも変わることのひとつ。怖くはないさ」と諭して、さらにつづける。「いつかは死ぬさ。でも、いのちは永遠に生きているのだよ」と……。

 作者バスカーリアは、ダニエルに何を語らせようとしたのだろうか。<死とは自然の摂理で自然なこと><死んでもいのちは生きている>とは示唆に富む考えではないだろうか。

 米国の高名な教育学者である作者は児童生徒の教育現場で行ってきた豊富な「いのちについて学ぶ」教育実践で広く知られる。『葉っぱのフレディ』はこの作品を材料に、「死ぬこと」、「生きること」について、みんなで考えて欲しいということではないかと思う。

 いっしょに生まれた葉っぱたちが春・夏・秋を季節に準じて楽しく生きるようすがえがかれる物語は共生する人間たちに涼しさを与えたり、鮮やかな紅葉を見せたりして冬に至る四季の変化を謳いあげる。冬の描き方も傑出で、葉っぱが散ったのちに”いのち”が土や根の目に見えぬところで新しい葉っぱを生み出す準備にかかるとする。

 本書は「精一杯生きることが死ぬことだ」と語っているのではないだろうか。かぎりある尊いいのちだ。自然が許すかぎり、ぼくらは生きぬかなければならない。(おび・ただす)

『葉っぱのフレディ—―いのちの旅――』

レオ・バスカーリア/作
みらい なな/訳
童話屋

飫肥 糺 連載122 『じゅうにしのおはなし』 

「絵本フォーラム」第133号・2020.11.10

日本的戯画の魅力を再発見。 丑年の新年は、どんな一年になるのだろう。じゅうにしのおはなし

『じゅうにしのおはなし』(ひさかたチャイルド)

飫肥 糺( 批評家・エッセイスト)


『じゅうにしのおはなし』(ひさかたチャイルド)

 10月下旬。ぐずつく南関東の空模様は12月初旬の寒さを引き寄せている。旧暦(太陰太陽暦)ではこの頃から12月初旬に和名・神無月を充てる。今年の季節感は旧暦に符合するではないか。この和名、俗説にはこの月、全国の神々が出雲大社に集まり諸国に神がいなくなることに由来するという。何事につけ神頼みにすがった中近世諸国の民はこの時期をどう過ごしたのだろうか。

 世界中で爆発的に感染拡大したコロナ禍の勢いは衰えない。中近世の話ではない。医療インフラの貧しい各所で受診機会すらまともに持てない人々はどうしているだろうかと不安になる。今年は新型コロナウイルスに翻弄されながら、まもなく暮れる。

 十二支では子年から丑年へ。中国古代殷王朝期に生まれて暦の役割を果たしてきたのが十干と十二支で、旧暦よりはるかに古い。干支(えと)は両者を組み合わせた熟語だ。

 で、今回は十二支「子丑寅卯辰未申酉戌亥」のはなしである。これに十干「甲乙丙丁戌己庚辛壬癸」を組み合わせると60種の年の名ができる。人生ひとめぐり、「還暦」とはこのことだ。

 十二支にあてられた漢字に特段の意味はなく記号のようなものであったらしい。広く使用をうながすために、後年になって表音の似た12種の動物名をあてられたのだという。かくして「わたしはさる年、あなたは何年?」などと親しみやすく伝播したアジアの漢字圏で民話や昔話となって広く民衆に語りつがれてきた。

 ぼくは永く、『ね、うし、とら 十二支のはなし』(D・V・ウォアコム文/エロル・ルカイン絵/ほるぷ出版)を愛読する。この中国民話を再話した物語は充分に魅力的。ルカインが描く絵物語も彼の作品には珍しい描出スタイルで、エキゾチックな風趣を醸しだしすばらしい。

 今回読んだ『じゅうにしのおはなし』は十二支の本筋を同じにするが、物語の舞台や展開は前掲書とがらりと変わる。

 前掲書では年初月の名を我こそが獲得しようとねずみと牛が争い、他の動物は月順にこだわらない鷹揚さを描く。いくらかなりと、中国というお国柄を考えさせられる物語の仕立てだ。一方、『じゅうにしのおはなし』は、神がまず、元旦の朝、御殿への到着順に一年の月名を与えようという一大行事の提案をする。日本的な運動会の趣きの物語なのだ。

 で、神がりゅうを空高く舞わせて国中の動物たちにお触れを出すと、動物たちが我こそと踊りだす。牛がみんなをだしぬいて前夜から御殿へ向かえば、ねずみはこっそりと牛の背に跳びのる。こうしてねずみは楽して勝を射るのだが、物語はねずみと牛の知恵比べに留まらない。その他の登場動物もそれぞれに総員で順位争奪戦に挑むのである。

 和名「辰」を馴染みの「りゅう」名で登場させているのは読者サービスだろうか。

 イラスト展開も愉快で上手い。動物だけでなく神や門番まで個性豊かに描いて物語を展開する。傑作作品に押し上げる要因になっていると思う。

 また、確かなデッサン力を下地に描出された誇張表現は、気合の入った粋のいい絵筆を奔らせてこころよい。日本的な戯画の魅力を再発見した想いである。

 新しく迎える年は丑年だ。さぁ、どんな一年となるのだろうか。千年以上もの間、暦を刻んだ旧暦や十二支、この際、そんな歩みをたどるのも味わい深いと思う。(おび・ただす)

『じゅうにしのおはなし』
ゆきのゆみこ/文
くすはら順子/絵
ひさかたチャイルド