飫肥 糺 連載121 『がっこうだって どきどきしてる』 

「絵本フォーラム」第132号・2020.09.10

学校って、どんなところだろう? 子どもたちと素朴に語り合おう。

『がっこうだってどきどきしてる』(WAVE出版)

飫肥 糺( 批評家・エッセイスト)


『がっこうだって
どきどきしてる』WAVE出版

 世界中で新型コロナウイルスの感染拡大がつづく。わが国でも政府行政の不思議な対応で感染に拍車がかかる。献身的な医療従事者や保健師たちにすがり、心許ない休業補償や給付だけで自粛要請するばかりでは感染を止めることはできない。

 びっくりなのは、公衆衛生や感染症医療体制、そして官庁の行うICT業務システムなど社会基盤のひどい弱さだ。これが、先進国などと胸をはる国かと呆れてしまう。経済合理性だけで、保健所を半減し国公立病院の統合縮小やベッド数の削減を図ってきたのではないか、と訝るばかりだ。こうして、コロナ禍は利益優先主義に奔るわが国の負の側面をしっかり露見した。格差社会の実態もリアルに見えた。なにしろ、富はひとにぎりに偏在し、15%もの世帯が貧しい国、一人親家庭に至ってはほぼ半数が貧しさにあえいでいるのだ(2018年OECD調査)。感染拡大で少なくない人びとが職を失い休業に追いやられた。なおつづくコロナ禍は、弱者をどんどん過酷で貧しい生活に追い込む。

 子どもたちも例外ではない。2月末、唐突にわが国の首相が小中高・特別支援学校に向けて全国一斉の休校実施要請を出す。混乱する子どもたちや学校。6月まで休校はつづき、現在でも落ち着いてはいない。学校へ行けず友人とも遊べない在宅休校の毎日は子どもたちの心身に変調を来さないか。働く親は働き方に悩み、給食がなく家計破綻に苦しむ家庭も生まれた。子どもの7人に1人が貧困という日本の貧しい現実がここでも露見した。

 子どもは、政府や大人たちが意のままに動かしていい存在ではない。

 子どもの暮らしの拠点は家庭だけではない。学校で広く学び遊ぶことも必要だ。友だちができて喜び悲しみを共有できるのも、いやな想いやくやしさを味わうのも学校だ。それを乗りこえるのも学校ではないか。社会的関係や心身の発達を促すのが学校だろう。災い転じて、こんな理(ことわり)を、子どもたちが気づいたとしたら、と想う……。

 こんな逆境の機会だ。「学校ってどんなところかなぁ」と、子どもたちと素朴に語り合うというのはどうだろうか。米国生まれの絵本『がっこうだって どきどきしてる』はきっと語り場の良いテキストになると思う。

 舞台は新設の小学校。「ぼく」と自称する学校が主人公のおはなし。「ぼく=がっこう」は学校がどんなところか分かっていない。「ぼく」は用務員さんから教えをこい、どきどきしながら、多様な子どもたちとふれあうことで「ぼく=がっこう」を分かろうとする。

 「…あっちにもこども。こっちにもこども。ドアやロッカーもばたんばたんとあけたりしめたり。…」、元気いっぱいのこどもがいれば、ふくれっつらの子どももいる。

 「…ねぇ、がっこうってすき?」「きまってるじゃん。だいっきらいだよ」とうそぶく子どもたちも。学校って、なんだ?

 ときに、「ぼく」は胸をさされる思いになるが……。そこからの「ぼく」は「学校ってどんなところ?」「子どもって何しに学校に?」などと自問をくりかえし、観察を重ねてゆく。

 まちがって非常ベルをならして子どもたちにあやまる「ぼく」。ゲラゲラ笑いにあふれる給食時間、「がっこうなんてきらい」とつぶやく女の子が、ほめ上手の先生にほめられて喜ぶ姿もある。そこで「ぼく」は、学校の役割を考える。子どもの多様さを知る。楽しさ・豊かさを発見する。

 アニメーションづくりやセサミ・ストリート・ワークショップ等での経験を重ねたイラストレーターが描く入学したばかりの一年生は肌の色も髪の色も多彩で自由でのびのびした入学したばかりの一年生、広がりのある教室や机配置、楽しそうな授業風景を、白地を活かしてポップで明るい絵画構成で展開している。初々しい学び舎の匂うような雰囲気を感じられて、読む手のぼくも気持ちいい。

(おび・ただす)

『がっこうだってどきどきしてる』
アダム・レックス/文  
クリスチャン・ロビンソン/絵  
なかがわちひろ/訳

WAVE出版

飫肥 糺 連載120 『とうさん まいご』 

「絵本フォーラム」第131号・2020.07.10

フラップ絵本で楽しむ、
ゆかいな遊戯ににた
「まいごさがし」物語。

(偕成社)

飫肥 糺( 批評家・エッセイスト)

『とうさん まいご』
五味太郎/さく
偕成社

『大辞泉』によれば、迷子(まいご)はまよいごの音が変化した言葉だという。もともとどこにいるのかわからなくなったり、連れにはぐれてしまったりした状態の子どものことを意味したのだろう。

 昭和初期から中期、とくに地方では、迷子は、百貨店や動物園で店内・園内放送や係員の世話で発見されるという、ほほえみ交じりに語られる出来事(当事者の子どもにとっては、それはそれで心の痛みとなった)とはちがう。家庭に電話すらない時代、迷子で行方知らずとなれば地域あげての大騒動にもなったのだ。

 痛い記憶は、ぼくにもある。昭和27年小学二年、春の遠足で迷子になる。転校したばかりであったぼくは町をほとんど知らなかった。知っていたのは自宅周辺と通学路だけだ。で、遠足当日、学校に朝八時集合した二年総員360人は2列縦隊で徒歩で出発した。途中の小休止をはさみほぼ3時間、目的地の清冽な水を湛える河原に着いた。母の弁当に舌鼓を打ち一心に遊ぶ。転校してはじめて何人かの友だちも生まれた。

 行きはよいよいだった。しかし、帰りはこわかった。往路の小休止場所で点呼をとり全員解散となったのだ。この土地で生まれ育った学童たちは家路を知っていただろう。まるで不案内のぼくにとっては、おいおいどうしてくれるんだ、ではないか。案の定、級友たちと歩きはじめて一人去り、二人、三人去るうちにひとりになってしまった。

 歩き進むが、家路はどの方向へいけばよいかさっぱりわからない。夕暮れは近づき、路上で立ちすくんでしまう。ぼくは迷子になったのだ。泣きべそをかいたのではなかったか。困り果てたぼくに通りすがりのおじさんが気づいてくれなかったら、どうなっていたかと今でも痛い憶いが走る。そのときのぼくは心細さに不安がつのり、形容しがたい怖れにおそわれる。そんな心情だったと記憶する。

 『大辞泉』は、迷子になるのは子どもだけでなく、おなじ状態になる人も迷子だとする。つまり、だれだって迷子になる。で、現在の迷子の一例を五味太郎が『とうさん まいご』で愉快に描く。”迷子になるのも悪くないぞ”といった趣きの快作だ。

 舞台はデパートで、おもちゃ選びに夢中になるぼくをしばし放って、とうさんが動く。ぼくがふりかえると、とうさんがいない。そこで、ぼくはとうさんさがしにデパート中をめぐるという物語。絵本は、奇数頁が部分断裁されたフラップしかけで作者の独創作品。とうさんらしい特徴の一片をぼくは偶数頁で発見するが、奇数頁をめくると、あれっ、とうさんじゃないぞ、という見開き4頁が一幕となる。絵本は八幕のくりかえしで展開する。このめくりのくりかえしが楽しい。たとえば、柱の端に発見したとうさんらしい背広姿は、奇数頁をめくると、まったくの別人であったり、紳士服売場で見えたとうさんのらしい帽子は、マネキンのものであったり、ピアノの下に見えたとうさんのらしいくつは、青年のくつだった……、という具合。何度か読むうちに、とうさんが迷子なのか、ぼくが迷子なのか、どちらでもよくなる。かくれんぼ遊びに見えてくる愉快さなのである。登場キャラもよく立っている。とうさんより立派な紳士、おしゃれマネキン、女性と手をつなぐ青年、金髪レディ?、トイレに立つ男ふたりと、吹き出したくなるキャスティングではないか。 とうさんを見失ったぼく、ぼくの存在を気にもかけてないように動くとうさん、ふたりは不安な想いのかけらさえ感じさせない。心通じる父子の心寄せる関係は、だいじょうぶだぁとでも言っているようである。

 見逃せないのは、エスカレーターでデパートへ入る表紙から、ぼくととうさんが仲良く退場する裏表紙まで気持ち良くつながる構成の見事さ、隙のなさだろう。快作である。

(おび・ただす)

『とうさん まいご』
五味太郎/さく
偕成社

飫肥 糺 連載119 『とけいのほん①』

刻一刻と、時を刻む。
短針・長針の役割を明快な画面展開にのせてガイドする

飫肥 糺( 批評家・エッセイスト)

とけいのほん①
まついのりこ/さく 福音館書店

 近年めっきり夜の眠りが浅くなった。そのぶん昼にうつらうつらとするのだから厄介である。寝つきの悪いのに9時半には寝床に就くぼくは、夜半の11時から早朝5時まで名高い「ラジオ深夜便」を流し聴く。時(とき)の長さ六時間。5時に起床すると、ぼくは散歩の準備に入る。寝入ったり目覚めたりをくりかえす六時間、当然だが眠りは浅い。

  「深夜便」は、学術・芸術の碩学や社会・生活文化における優れた実践者たちの語り、なつかしい音曲・歌謡など広いコンテンツにする。いい番組だと好みにしている。六時間を六等分する編集構成は、区切りの時報ごとニュースを5分間報じる。

  このところニュースの大半は新型コロナウイルスの感染情報である。WHOはパンデミックを宣言、日本政府も特措法に由る緊急事態宣言を発して世界中が混乱の極み。中国で昨年12月末に発生したウイルスは瞬く間にグローバル世界を襲った。193か国を覆いつくし三か月半で210万人以上に感染させ、14万人以上の命をうばった。

  この一瞬(とき)、この瞬間(とき)に、刻(とき)は刻(きざ)まれ、ウイルスは人々を襲う。油断はできない。

  日本の感染者も1万人に達し、死亡者は210人を超える。政府対応が後手にまわり、感染の勢いは衰えない。”STAY HOME”や休業を要請するが保証なしの行政対応に中小事業者や国民の暮らしの破たんが見えはじめている。永年、経済合理性だけを追い求め病院や保健所の縮小政策を執ってきた医療行政の大きなツケが回ってきたのではないだろうか。

  刻一刻(こくいっこく)と刻(きざ)まれる時(とき)と時間(とき)。積み上がる感染者の数を前にして、一瞬(いっとき)たりと猶予できる時間(とき)はない。ぐずぐずするな、時計(とき)を見ろ……ではないか。

  ぼくの寝床の枕元には目覚まし時計(どけい)もある。百円ショップで手に入れたが、ちゃんと時(とき)を刻(きざ)む。時計のカチッ、カチッと1秒を刻(きざ)んでゆく鳴音は格別である。ことばでは表現できない想いが強い。幼児・学童期の我が家で、柱時計が打ち刻む鳴音は心に沁み込む音だった。高校入学時、はじめて手にしたゼンマイ式腕時計の鳴音。それは胸躍らせる鳴音だった。

 目覚まし時計が刻(きざ)む鳴音は、ぼくに眠りと目覚めをうながしながら一夜をいざなっている。時計は単なる器械ではない。瞬間・一刻・時間・年月を刻み、ぼくらに命を吹き込む存在ではないか。時計は幼児・学童たちにとってどんな存在だろうか。子どもたちは、時計の見方や仕組みにどれほど関心を寄せるだろうか。

  アナログ時計の短針・長針の関係を、ちびとのっぽと擬人化して朝から夕までのお散歩物語にした絵本に『とけいのほん①』がある。

  ぼくが時計の見方を知ったのはいつだったか。柱時計の鳴音に感動したり感じ入ったりするなかで何となく知ったように記憶する。現在の子どもたちはぼくの幼児期よりはるかに時計について知識はあるのだと思う。少なくとも短針・長針の関係は知っている。しかし、時計の働きかたや仕組みとなると、その理解は少々難解になるのではないか。

 だから作者は、ゆっくり、のんびりと、ちびとのっぽの散歩をつづけてゆく。長針がぐるりと一回りして時計の天におさまる。すると短針はひとつの数字だけ動く。その瞬間に短針が指す数字を〇〇時と呼ぶことを教える。なーるほどと子どもたちはうなずけるのではないか。この絵本から学べるのは、何時と半(はん)(30 分)の見方だけでおしまい。これだけで30頁を費やしている。それだけにゆっくり・のんびりの散歩が愉快に展開するふんわりムードの傑作絵本なのだ。どうやら、分や秒はシリーズ②巻目にゆずったらしい。詰め込みをよしとしない作者の考えに賛成する。シンプルで明快な画面展開もいい。
朝7時から夕刻5時半過ぎまで、ほぼ、丸一日の散歩譚。とうせんぼ、S字カーブに上り坂ありの見せ場もありで、かわいいキャラクターたちが跳ねている。
(おび・ただす)

『てぶくろ』
ウクライナ民話
エウゲニー・M・ラチョフ/え
うちだ りさこ/やく 
(福音館書店)

飫肥 糺 連載118 ウクライナ民話『てぶくろ』

単純明快な大傑作。
つみかさねばなし・繰り返しのリズムに、描かない存在感も。

飫肥 糺( 批評家・エッセイスト)

てぶjくろ
ウクライナ民話『てぶくろ』
(福音館書店)

 異常気象で日本の四季がおかしくなった。この冬も異様な暖かさで、寒さの冬があたりまえの地方では人びとの日常の暮らしをひどく困らせている。そんな暖冬でも立春がすぎて強い寒波がおそう。日めくりのように繰り返す寒暖差にもからだは翻弄されるが、早朝5時の散歩を、ぼくは欠かさない。

 夜明け前の散歩道は暗く寒い。ダウンを着こみニット帽をかぶる。手袋も……。戦後の混乱期に育った少年期、ぼくは南九州に育った。真冬でもセーター1枚に裸足で遊びまわったころを偲ぶと冷笑するしかない。なさけない恰好ではないか。

 手袋にはなつかしい想いがある。窪田聡作詞・作曲の「母さんの唄」を、編み物好きの母がよく口ずさんでいたからだ。 <かあさんが よなべをして てぶくろ あんでくれた……>、この唄の音曲と詞はうらがなしくも叙情味あふれ、母につられてぼくも歌うようになった。昭和も30年代半ば、ぼくが14、15歳のころだ。のちに家を離れて高校の学寮で過ごしはじめたとき、ぼくは母が編んでくれたセーターや手袋の暖かさをしみじみと知る。

 で、手袋のはなし。齢を重ねたせいか手足がひどくしびれ指先は冷える。だから、手袋のあたたかさはありがたい。もともと厳寒の地では手袋はなくてはならぬ必需の品であった。

  永く子どもたちに語りつづけられる絵本にシベリア生まれの画家E・М・ラチョフがウクライナ民話を絵本化した傑作、『てぶくろ』がある。物語は素朴で単純明快。登場するのは、おじいさんとこいぬに7匹の動物たち。そして、主人公の手袋だ。面白いことにおじいさんとこいぬは語りのなかでしか出てこない舞台裏の登場者だ。 物語はこいぬを連れて散策するおじいさんがその途上、手袋の片方を落としてしまう。

 手袋は親指部分と4本指が分かれた大きなミトンの手袋で、そこに、ねずみ、かえる、うさぎ、きつね、おおかみ、いのしし、くまの7匹が順に住みつくというおはなしである。動物たちは1匹、2匹とふえるたびに枝木をあつめて手袋を住まいに造作して梯子をかけて高床式のような住まいに……。まぁ、とても入りきれない動物7匹を収容しようとするのだから、無茶で奇想天外なおはなしなのである。だけれど、同じ問答を繰り返して住人が増えてゆくテキストのリズムはなかなか快適で、つぎはどんな動物がやってくるかと期待をつのらせる。くいしんぼ、ぴょんぴょん、はやあし、おしゃれ、はいいろ、きばもち、のっそりと7匹の動物たちにそれらしい似合いの形容句がついているのも面白い。

 異種多様な動物たちが争うことなくなかよく同居するありようはどうだろう。現在のぼくら大人になにがしかの示唆を与えているのではないか。
(おび・ただす)

『てぶくろ』
ウクライナ民話
エウゲニー・M・ラチョフ/え
うちだ りさこ/やく 
(福音館書店)

飫肥 糺 連載117『ちいさい わたし』

育ちのとちゅうの少女とゆったりと見守る母親

飫肥 糺( 批評家・エッセイスト)

『ちいさい わたし』かさいまり=さく おかだちあき=え くもん出版

急伸する高度情報化やグローバル経済社会が国家間をはげしく軋ませている。環境危機や貧困問題も喫緊の待ったなしの大問題だ。国内でも同じ。権力の一元化が進み、ひとにぎりの資産家たちに富が集中する。生まれる不平等な格差社会。かつての企業社会を支えた終身雇用制は後退して2000万人を超える人びとがいまや非正規雇用である。実に37%を超える労働者が不安定な暮らしを強いられているのだ。少子化の一因がここにある。そして高齢化はますます進行し超高齢社会となった。

             *   *   *

 多くの若い親たちは呻吟する。子育て、暮らしの設計……、と呻吟を止めない。問題だらけの保育やIT情報環境に投げこまれる子どもたちも大変だ。
  たびたび起きる親による幼児や児童への虐待事件。いじめ、自殺。SNSなどに翻弄されてとんでもない被害にあう子どもたちもいる。
 子育てはつくづくむずかしいと思う。核家族があたりまえとなった現在、身近に子育て経験者である両親や祖父母のいないちいさな家庭が多い。まして、近所の大人たちが適宜なちょっかいを出してくれることなどもまるでない。で、若い母親・父親は無手勝流で子育てにのぞむ。

             *   *   *

 もともと、子どもの心身発達のようすを理解するのはむずかしい。個人差があり年齢だけではよく分からない。だから、おなじ年齢だからといって誰彼と自分を比べられたら子どもたちは迷惑だろう。
 ただ、早い遅いはともかくとして、子どもたちはみんな順序だった段階をふみながら成長する。ことばが分かり歩けるようになるまでの赤ちゃん期。思いのままに動きまわり物をいじくりはじめるなど遊ぶ楽しさを知る幼児の前期段階。後期に入り3、4歳をすぎるころになると自分の存在を知り自我を生む。何でもやってみたい意志を募らせる。好き・嫌いや恥ずかしさの感情も持ちはじめるのがこのころだろう。

             *   *   *

 こんな幼児期の少女をふんわりとやさしく描くのが絵本『ちいさいわたし』である。何でもやりたい主人公のわたしは何かとうまくできないことをよく知っている。利口な少女なのだ。うまくできないのは、わたしがちいさいから……、ということらしい。
 だから、いつも助け船はお母さん。愛犬との散歩には同行してもらい、恥ずかしさであいさつできないときはスカートの陰に隠れる。もちろん、真っ暗がこわい少女は寝つくまで本を読んでもらう。助け船のないときは大変である。わがままいっぱいで我を張り、ともだちとうまく遊べない。それもこれも、ちゃんとできるようになるとちゅうだからというではないか。

             *   *   *

 なるほど、作者のねらいはここにあったかと想うばかりである。幼児・学童期の発達段階のとちゅうをちゃんと認識しようというのだろうか。 わたしのとちゅうが終わり、少女は語る。
「いろんなこと できるようになったら ちいさい わたしじゃ なくなるの。そうしたら わたし どんなこに なるのかな」
と少女の言葉に”すてきな未来が待っているよ”と応えたくなるお話ではないか。

             *   *   *

幼児・児童のとちゅうという発達段階を、ぼくらはどれほど意識してきたか。早いとちゅう・遅いとちゅうもあるだろう。少女のとちゅうを、ゆったりと見守る母親の姿が舞台袖の光景のように描かれているのが、とてもいい。
(おび・ただす)

(『ちいさい わたし』かさいまり=さく おかだちあき=え くもん出版 )

飫肥 糺 連載116 森の盛衰から、 気候危機の現在を知る。

『森のおはなし』(六燿社)
飫肥 糺( 批評家・エッセイスト)

森のおはなし
マーク・マーティン作/
おびただす訳 /
六耀社

 もはや気候異常は気候危機なのだという。待ったなしの状況に人類は正しく行動できるだろうか。

 9月8、9日、ぼくの住む房総半島を台風15号がおそう。猛烈な暴風で半島に上陸した台風は電柱や樹木をなぎ倒し家々の屋根を吹きとばした。杉林の倒木も被災に拍車をかけ、ゴルフ練習場の鉄柱住宅10軒を押しつぶした。長引く停電に断水、道路寸断は住民生活を混乱させた。電力会社・政府・県の初動対応がひどく、被災者の生活再建の目処はいまだに立たない。

 これだけではすまなかった。1か月たった10月12、13日、台風19号がつづいた。東海から関東・東北に至る大広域で大雨が猛威をふるう。多摩川・千曲川・阿武隈川など7県52箇所の大中河川が決壊して市街や田畑園を濁水で蔽った。鉄橋も落ち道路は陥没する。新幹線車両も水に沈んだ。15日現在で死者75人行方不明14人を出す大惨事となった。ひどい被災に遭遇して住民たちは茫然とたたずんだ…。被災住民が生活復興を果たすのは何時になるのだろうか。

 ふたつの台風は、先進科学技術立国として到達した21世紀日本の現在の一面を如実に示したと言えないか。たくさんの恵みを、自然はぼくらに与えてくれる。しかし、その摂理に逆らうと容赦なく牙をむく。こんな自然の摂理を『森のおはなし』は素朴に説く。

 作者は、森の盛衰を滞酒なイラストで描き出して散文詩でやわらかく語りだす。

 可憐な樹木の林立する林は何千年もの年月を経て深く生い茂る森に育つが、やがて人間たちが森の木を切りはじめる。【人間たちははじめ、すこしだけ切っては、切った分だけあたらしい苗をうえつけていました】と森を営むルールにしたがうが、【人間たちはまもなく、よくばりになっていき森から切りとれるかぎりの木々をいまにも手に入れたくなったのです】、そして、【人間たちは、木々のすべてを切りたおし、森をビルや工場にかえていきました…】と絵本は語りつづける。ぼくは経済成長過程の山林がどのような扱いを受けてきたかを知っている。だから、絵本を読むぼくの胸中はおだやかでなくなる。

 ついには、【空気をきれいにしてくれる森はすっかりなくなりました。…そして、森のなくなった都市の空気は、どんよりとよどみ、どんどんよごれていきました】と、絵本は素朴にたんたんと語りをつづけていく。

 地球温暖化が科学者たちから深刻な問題として取沙汰されるようになったのは1970年代に入ってからだ。1992年、世界の国々は「気候変動枠組み条約」で努力目標をつくる。そののち97年「京都議定書」、2015年「パリ協定」でc02などの温室効果ガスを期限をかぎつて減らしていくことを取り決めた。しかし、196の国と地域が参加するパリ協定を守ろうとする国や地域は半数にも及んでいない。なかでも大国アメリカは協定不参加を表明し、日本・中国など温室効果ガス排出大国の取り組みはきわめて消極的である。

 かくして絵本は、【やがて、都市はおそろしい暴風におそわれます。ますます空気はよごれていきました】【暴風は、はげしい風だけでなく、さらに大雨もふらせます】【大雨は、ものすごい洪水となって都市をおそい…】と語りつづけるではないか。先述のふたつの台風をまるで実況中継するかのようだ。

 しかし、絵本は自然の摂理にしたがえば、【むかしむかしとおなじような森】によみがえることを見開きいっぱいにイラスト展開する。希望を捨ててはいけないのである。時をほぼ、台風襲来と同じくして9月23日、国連気候サミットが開催される。大会議場は16歳の環境活動家グレタ・トウンベリさんの怒りの演説に震憾する。そして、感動の拍手をよぶ。

 「私たちはあなたたちを見ている。あなたたちは私の夢を、子ども時代を、空っぽな言葉で奪った」「苦しんでいる人たち、死にゆく人たちがいる。生態系は破壊され、多くの種の絶滅も始まった。あなたたちはお金の話や、経済成長のおとぎ話ばかりしている」と大人たちに怒りをぶつけた。最後にグレタさんは「HoW dare you」(よくも、そんなことができるわね)の言葉で演説を締めくくった。

 瞬時に世界中をかけめぐつた演説にグレタさんよりはるかに年齢を刻むぼくは頬をはげしく殴られたような衝撃を受ける。ぼくらは地球の行く末について子どもたちといつしょに語り合わなければならない。

『森のおはなし』
マーク・マーティン作/
おびただす訳 /
六耀社

飫肥 糺 連載115 トウモロコシ3人組ののぞみは、おいしく食べてもらうこと。 だから、男前になる!?

トウモロコシ3人組ののぞみは、おいしく食べてもらうこと。
だから、男前になる!?
飫肥 糺( 批評家・エッセイスト)

 長い梅雨寒が去ると打って変わって酷い暑さで、大型台風まで追随する。そんな不順な気候に、ぼくのからだは正直に反応する。酷暑に茹だる。
地球規模の異様な気候変動に直面する世界。1995年、ベルリンで先進諸国は危機を共有して気候変動枠組条約国会議をはじめて開催する。あれから24年経つ。以降、会議は毎年開催されて温室効果ガス抑制の枠組みを策定する。しかし、大国のエゴがそぞろ闊歩し、その進捗はノロノロと。まるで牛の歩みだ。かくして、ぼくの夏は、我慢の夏である。

 我慢の夏、年中変わらぬ4時半起床の早朝散歩で一汗かく。格段の用向きなければ、午前は資料整理や読書で過ごす。昼寝をはさみ午後も午前の延長がもっぱらだが、ときに図書館や書店をぶらつき、ときに映画鑑賞、ときに夏の味覚を味わう。夜は短く過ごす。軽い晩酌に、家人とテレビなど観て、9時半には就寝。ぼくの夏の日常はこんなものだ。

  で、夏の味覚である。酷暑にそうめんは欠かせないが、茹だる気分を爽快にしてくれる西瓜を、ぼくは一の好物とする。ある調査データでも西瓜は夏の味覚のトップだ。上位15位までに、トマト・トウモロコシ・枝豆・きゅうり・なす・うなぎ・もも・ゴーヤ・オクラ・みょうが・ぶどう・メロン・ピーマン・あゆがならぶ。なんと魚類2種に肉類なし。面白いではないか。

 ヒトのからだがほしがる夏の味覚は野菜果物ばかりなり。なるほどと思う。子どもだけならどうなるか。きっとトウモロコシがトップになるのではないかと思う。なにしろ、夏休みの映画館は大きな紙コップを手にした子どもたちでいっぱいで、その中身はポップコーンなのだ。

 絵本『よっ、おとこまえ!』は、元気いっぱいのトウモロコシ3人組を活写するナンセンスな小話。粗けずりではあるが、大胆そぼくな展開で面白い。

 主人公3人組の一番ののぞみはみんなにおいしく食べてもらうこと。そのために料理の上手な男前にならなければ、のぞみを果たせない。そこで3人組はそれぞれ自分を材料にトウモロコシ料理に挑戦する。

 自分を材料に!?、自分を食べてもらう!?、そんなことってないだろう。ナンセンスと言うか言わぬか。ウーンとうなるしかない。

  まず、アンディは塩をふったお湯にとびこみ、ゆでゆで、ゆでられて。つづくカルロスはからだに醤油を塗りつけてこんろに飛び乗り、焼かれてゆく、最後はあにき分のジョーの番。自分のからだから実をつぎつぎにもぎ取ると、油でたぎるフライパンにどんどん投げ込んでゆく。こうして、3人3様のおいしいトウモロコシ料理のできあがり。3人組はみごとに男前になる、というおはなしだ。

 テンポよく歯切れよいテキストにパワフルな絵づくりが目を奪い、ナンセンスなひびきが感じる心をずんずんと刺激する。 とてもシンプルで素朴な絵本であるけれど、ゆきつもどりつ読み込むにつれて、ぼくは想う。作者の意図はどうであれ、生きることのすばらしさをこの物語は語っているのではないかと。生き物の生は一回生である。生の誕生は死への旅立ちだ。その旅をどのように生きるか。それぞれが、持てる力の限りをつくして生きぬくことの大切さを語っていないか、尊さを語っていないか、と、ぼくは深読みしている。

(『よっ、おとこまえ!』いがらしあつし=さく 絵本塾出版)

飫肥 糺 連載114  先生って、どんな人をいうのだろう

先生って、どんな人をいうのだろう
飫肥 糺( 批評家・エッセイスト)

『せんせい』(福音館書店)

 

 先生とよばれる人はどんな人だろうか。『大辞林』によれば、①に学問や技術・芸能を教える人で、とくに、学校の教師であり、また、自分が教えを受けている人であるという。この意にはだれでもすなおに納得できるだろう。
ところが、『大辞林』は②の意に教師・師匠・医師のほかに代議士など学識のある人や指導的立場にある人を敬う語でもあるとする。昨今の、言いのがれやうそに満ちた議員たちの行状や発言を知ると、こんな議員たちまで先生とよぶのかと違和感がつのる。そうだろう、どう考えても不愉快ではないか。先生とよぶにふさわしい人物から「先生といわれるほどの馬鹿でなし」と敬遠される言葉となっているとしたら語意が転倒してしまう。
            
 絵本『せんせい』に描かれる先生は、だれからみても、どこからみても先生だ。物語の舞台は保育園か幼稚園の年少組のようである。
 「ねえ、みんなしっている?」と言葉を投げかけて、子どもたちが”せんせい”を、語る。たのしく語る。親しく語る。自慢げに語る。「せんせいって、ときどき うまだよ」って。「…ときどきオニだよ」って……。これを承けてページをめくると、「ねっ!ぱっか ぱっかのおうまさん」「ねっ!おにごっこの オニ わーっ、にげろっ」と、遊びであふれる園の活動を、子どもたちは語る。うれしそうに語る。子どもたちも”せんせい”も、よく遊ぶ。ここでは遊ぶことは学ぶことなのだ。…かくして”せんせい”は、おすもうさんになり、おおかみになり、ままごとのおきゃくさんに、かんごふさん、おとうさん、おかあさんになっていく。      
 幼保教育のたしかな実践者であり、数多くの幼児教育論考を著してきた大場牧夫は『せんせい』のなかで先生と幼児たちとのあるべき姿を描きたかったのだろうか。ここでは、徹底して未就学幼児の目線から先生像を語り描く。

 ぼくの父や母も教師だった。理数科教師だった父は戦時下の外地赴任(大連)をふくめて戦後の70年代半ばまで教師をつづける。そんな父を、多くの教え子たちが自宅によく訪ねてきた。地元役所の職員や漁業・農業従事者たち、企業人に大学教授、父にあこがれたという小・中・高の教師たち。そのころ、まだ児童や生徒であったぼくも、教え子に慕われる父の職業にいくらかなりとあこがれを持っていたように思う。

 不思議なことに、古希すでに越えて喜寿に近づく年齢となったぼくには、学童期から姉・兄と慕ってきた父の教え子との交流が首都圏でつづく。

 その父はよく言っていた。「学者と教師はどちらも先生と呼ばれるが本質がちがう。教師はなによりも児童や生徒と全人的に向き合わなければいけない。だから、教師としては大学より高校、より中学校、より小学校の方がむずかしい。人間力をもっとも必要とするのは幼稚園や保育所の先生だろう」と。           

 作者の大場牧夫は大学で幼児教育を論じながらも数十年の本職を幼稚園教諭として生きる。先生として生きたのである。全人的に子どもたちと向き合う『せんせい』像に作者のすがたを読みとれるように思う。 そして、『せんせい』をいっそうの傑作に仕上げた長新太のイラストの役割を見のがすわけにはいかないだろう。達意で闊達なイラストはテキストを幾倍にも引き立たせて子どもたちや”せんせい”を躍動させ、明るく親しめる彩色で活写する。”せんせい”の役割を12項、表裏2ページでくりかえす。この心地よいスピードとリズムをイラストが親しく展開させる。

 いっしょに遊んで子どもみたいに転んでしまう”せんせい”。”せんせい”は、子どもたちみんなの先生だけれど、家に帰れば子どものいる本当のおかあさんで、”せんせい”にもおかあさんがいる。だから、”せんせい”も本当の子ども。そんなことを、いつのまにか、子どもたちは知っている……。いいおはなしである。
(おび・ただす)

( 『せんせい』大場牧夫・文 長新太・え 福音館書店)