子ども歳時記131 家族が離れている時間(中村 史)

だいちょう さきこ
中村 史
おかあさんは、なにしてる?
『おかあさんは、なにしてる?』
(ドロシー・マリノ/作・絵、
こみやゆう/訳、徳間書店)

 『おかあさんは、なにしてる?』(ドロシー・マリノ/作・絵、こみやゆう/訳、徳間書店)は、子どもたちが学校や幼稚園へ出かけて家にいない間、お母さんたちが何をしているかを描いた楽しい絵本である。家で用事をしているお母さんもいれば、職場で働いているお母さんもいる。見開きごとにさまざまな親子が登場するのだが、その過ごし方において親子が対等に描かれているのが心地よい。また、ジョセフが幼稚園で絵を描いているとき、ジョセフのお母さんは台所でペンキ塗りをしていたり、ふたごのリンダとライルが学校で算数を習っているとき、リンダとライルのお母さんは、会社で計算をしているなど、離れている親と子の行動にはそれぞれ共通点があり、読むたびに嬉しくなってしまう。

 絵本の子どもたちは、月曜日から金曜日まで学校や幼稚園に通い、週末は家族で過ごす。そしてまた月曜日がくると、「きょうは、どんなわくわくすることがまっている」か、楽しみにしながら自分の場所へ出かけるのである。そんな落ち着いた日々の繰り返しのなかで子どもたちが育つことは、誰にとっても幸せなことである。

 子どもにとって、家にいることと、毎日出かける場所があることは、両方とも大切なことだ。家族にしか見せない顔があって、家族以外の人に見せる顔もあって、子どもはいろいろな自分を試しながら成長していくのではないか。子どもは、守られ、世話をされて育つのが望ましいが、それは一部始終を管理されることとは違う。

 子どもの生活のなかに親の知らない時間があることは決して悪いことではない。子どものプライバシーは成長にとって必要であり、年齢に応じて自分だけの場所や時間を持つことは大切なことである。今年、子どもたちは、不安定な始まり方をした新しい集団で、自分の居場所を見つけられているだろうか。この夏、私たち大人は、子どもが一人でいられる場所と、誰かといられる場所の両方に、いっそう注意を払わなければならないと思う。

  「おかあさんは、今日なにしてた?」私がかつて、保育園から帰ってきた子どもにこう聞かれたとき、とても嬉しかったのを覚えている。その問いかけは、離れていた間の家族を思う娘の心の成長を、やさしくあたたかい形で私に感じさせてくれた。

 一日中親子で一緒にいる日々が過ぎると、子どもはやがて新しい生活に足を踏み出していく。日中離れていても、また夕方集う家族がいて、昼間のことを語り合うことができれば、私たちは一日を満足して終えられるだろう。それは、子どもにとっても大人にとっても、きっと明日への力になる。

(なかむら・ふみ)

子ども歳時記130 「読書」をめぐるおはなし(大長咲子)

だいちょう さきこ
大長 咲子
からすのパンやさん
『からすのパンやさん』
(かこさとし/絵と文、偕成社)

 ちょっとした昔ばなしになってしまいますが……。私が高校生だったころ、現代文の授業でこんな宿題が出されました。それは、「読」を含んだ熟語をできるだけたくさん辞書で引いて、それらの言葉の中で、自らの読書姿勢に最も当てはまる言葉を考察せよ、というものでした。今と違って、パソコンで検索すると簡単に言葉が出てくる時代ではありません。それなりに苦労して言葉を探し出しました。そしてその中で、いくつかの大変魅力的な言葉と出合いました。例えば「味読」、「体読」、「精読」。なんと豊かなことばなのでしょう。しかし、課題にそって自らの読書姿勢を省みると、その素的なことばに私の読書は到底当てはまらず、せいぜい「多読」ではあるが、「濫読(乱読)」。当時の私は、本を読むことが好きではありましたが、もう手あたり次第。まさに読み散らかすとういうような読書の仕方でした。この課題によって自らの「品のない読書姿勢」に落胆し、書物を味わい深く、注意深く、書かれた事柄の真意を深く読み取る読書に憧れました。

 そして時は流れ、ある時私は大変魅力的で理想的な読書家たちに出会ったのです。それは、私の読み聞かせを聞いていた幼いころのわが子たちであり、読み聞かせ会でお話を聞いている子どもたちでした。

  彼ら、彼女たちは、『あおくんときいろちゃん』(至光社)に一喜一憂し、『どろんこハリー』(福音館書店)にごくりと唾をのみ、最後にぱっと笑顔を咲かせる。あぁ、読書とは、本を楽しむこととは、まさにこのことなのだなと思わされることになりました。そう考えると、遡ることウン十年前、幼稚園のころに先生に読んでもらった、加古里子さんの絵本の数々に私は熱中したことを思い出しました。『からすのパンやさん』(偕成社)、『だるまちゃんとてんぐちゃん』(福音館書店)その他の科学の絵本など、数えればきりがないほどの絵本を「耽読」したのでした。

 その絵本の思い出が、私にも素的な読書の素養があったのだな、と私の読書体験に自信を持たせてくれました。そして読書とは自分で読むことだけではなく、誰かに読んでもらうこと、そして形はどうであれお話そのものを楽しむことなのだということを改めて絵本に教えてもらいました。

 この春は、子どもたちはおうちで過ごさなければいけないことが多かったようです。お父さんやお母さんも子どもと一緒にいる時間がいつもより長かったかもしれません。退屈しのぎでも構いません。こんな時こそ子どもと一緒に絵本を開いてみませんか。あなたのお膝の上で、ぽっかりと口を開いて物語の世界に入り込んでいる、かわいく尊い読書家と出会えるチャンスかもしれません。
(だいちょう・さきこ)

子ども歳時記129『木を植えた男』松本 直美

松本 直美
松本直美
木を植えた男
ジャン・ジオノ/原作、
フレデリック・バック/絵、
寺岡襄/訳、あすなろ書房

 昨年末、中村哲氏の訃報に衝撃を受けた。さらに、その一連の出来事について語り合いたい人が身近な日常生活圏に一人もいない! ということもまた。(職場でこの話は「重くて」「浮いてしまう」だろうことも、想像できた)。

 月1回大人に絵本を読む会を開いている。その日を待っている間に遠方に住む友人から「中村哲氏が福岡に帰り着きましたね。南西にむけて手を合わせました」との葉書が届いた。人と語り合わないまま自分の中で中村氏の生きざまを追う中でふっと、思い浮かんだ本がある。本棚の奥深くから探し出し、買った時以来久しぶりに手に取って開いてみた。やはり、中村哲氏に通じるものがある。『木を植えた男』(あすなろ書房)である。次の絵本の会で読んでみようかと下読みがてら、試しに時間を計ってみた。だめだ音読30分以上かかる。長すぎる…… とは言うものの紹介はしたいのでこの本も持っていくことにする。

 そうこうしている間にも新聞には様ざまに中村氏の記事が続く中、こんな投書文を目にした。
“医師 中村哲氏は、戦乱と干ばつのために荒廃したアフガニスタン東部でNGO「ペシャワール会」の現地代表として無償の医療活動を始めて35年。並行して井戸を掘り水路を造るという活動がペシャワール会会報で報告されている”とのこと。ここまでは、聞いたことがあった。が、この先は知らなかった。“昨夏発行の会報には「植樹100万本達成!」とのトップ見出し。”中村氏は、本当に「木を植えた男」でもあったのだ。

 この切り抜きと共に、長いから読みませんが、と紹介した絵本の会では、長くてもいいから「読んで」「読んで」の声に支えられ結局30分以上かけて、読んだのでした。この日頂いた感想には、中村哲さんを偲ぶ会になりましたね。この本忘れません。充実感ある会でしたね。改めて絵本の力と価値を実感しました。等の言葉をいただいた。

 医療よりもまずきれいな水が飲める環境が必要であることや、仕事があって食べていけることこそ平和への原点であり、必要なのは武力ではないことを実践、発信してこられた中村哲氏と、その長年の活動を見守り支え続けたご家族や、仲間の方々の胸中を思いつつ。

 これから大人になっていく人たちに、出会ってほしい本がある。故かこさとし氏をはじめ、20歳前後に敗戦を体験された方々は、その日を境に起きた価値観の反転に衝撃を受けるとともに贖罪の想いや後悔を抱えてその後を生きた方も少なくない。なぜ言われるままに信じてしまったのだろう。なぜ自分で調べて、考えて判断しなかったのだろうと。

 繰り返さないために、語り継ぎたいことがある。希望をつなぐために知っておきたいことがある。
(まつもと・なおみ)

子ども歳時記128「久しぶりに出会った絵本」倉冨 展世

倉富 展世
(倉冨 展世)

 あけましておめでとうございます。お正月はいつも駅伝をテレビで観戦することから始まる私。ずっと変わらず楽しみにしているお正月行事の一つです。皆さまのお正月はどのように始まりましたか。

スイミー
『スイミー』
(レオ・レオニ/作、谷川俊太郎/訳、好学社)

 少し前のことになりますが、11月のある土曜日の昼頃、庭の手入れをしていたら小学生たちが学校から帰ってきていました。とても賑やかに楽しそうに話しながら……。保護者らしき人と帰っている子どももいました。あぁ、そうか。学習発表会があったんだと合点し、そんな時期なのだなと懐かしく思いました。

 すると2人で帰っていた男の子の一人が庭にいた私にフェンス越しに近づいてきて「なんしようと?」と声をかけてきました。もう一人の連れの子は少し離れた後ろで不安そうに立っています。「お花を植えようとよ。今日は学校やったと? 学習発表会?」と聞くと「そう!」と元気に答えてくれました。「何したと?」と聞くと「スイミー!」という返事が返ってきました。

 思いがけず、なつかしい絵本に出会えました。「それ、知っとーよ。『ぼくが目になるよ』やろ?」と自慢げに私が言うと、その子は「2年生の時にしたっちゃろ!? やっぱね! いっしょやん!」と満足そうです。「じゃーねー!」と元気に去っていくその子に「気をつけて帰りーね!」と声かけすると「うんっ!!」ととびきりの返事が返ってきました。学習発表会でうまくいったのでしょうか。ちょっと興奮気味のその子との会話にこちらも心が弾みました。まっすぐに私の目を見て話す、多分、近所に住む誰かさんとのほんのちょっとのコミュニケーションに、昔、子どもに読み聞かせしていた絵本が仲介役をしてくれました。台詞まですっと出てきた自分にも驚きました。ああ、こんなことで役に立つこともあるのだなと思いました。

 『子どもに絵本を届ける大人の心構え』(藤井勇市/著)の中の一文に「大人がいない社会」というのがあります。藤井氏は、大人の定義として3つあげています。自分が無知であることを理解する能力、周りの環境を良くすることを黙って行える能力、そして自分や家族と同等に他人を大事にできる能力。まだまだできていないと感じた私ですが、この近所(に住んでいるであろう)の子どもたちとのコミュニケーションは、その小さな一歩になればと思いました。「お帰り」「行ってらっしゃい」「気をつけてね」。知り合いでも何でもない人の中にも信頼しうる大人もいるのではと少しでも思ってもらえれば嬉しいです。

 庭に植えた花が道行く人の目を楽しませるように、身の回りの小さなふれあいを大切に することが世の中をうつくしくし、子どもたちの過ごしやすい社会につながればと思います。

(くらとみ・のぶよ)

子ども歳時記127『自分のための絵本』北 素子

松本 直美
北 素子

 金融庁が発表した 「95歳まで生きるには夫婦で約2000万円の蓄えが必要である」とする老後資金報告書に批判が相次ぎ、公的年金制度に対する不満や、先行きへの不安が国民の問に広がりました。 この数字についてはともかく、我が国は人生100年時代に向けてすでに動き出しています。

 学校教育を終え、就職し、家庭を持ち、定年まで勤めあげ、年金を頼りに暮らしていく人生を考える時代ではなくなりました。 進学、就職、結婚、子どもをもっかどうかも最終的には個人が選択できる時代へ。”正解”も”ゴール”もないのですから。わたしたちは100歳という数字を前に、どのように生きていけぱいいのでしよう。

 「人生とは」 「幸せとは」 「生きることの意味とは」…。書店には、人生論、哲学、倫理学についての書籍がたくさん並んでいます。 しかし、絵本や児童文学作品を存分に味わったことのある人なら、絵本や児童書にこそ、人生の大切なことが描かれていることをご存じでしょう。

 そして、持っていた袋から衣装や小物を出して芸をしました。 それはこれまでにないほど見事な芸でした。 そして彼は …… 。 そこで起こつた奇跡は …… 。

神の道化師
『神の道化師』
(トミー・デ・パオラ /さく・え、
ゆあさ ふみえ /やく、ほるぷ出版)

 フランスに伝わる古い民話をもとにしたこのお話。人生を考えることは、悠久の歴史課題なのでしょう。

 人は様々な体験を通して、日々変化していきます。 一生で直接体験できることは限られているからこそ、問接体験でイメージする力をもっことが『 人生の豊かさにつながるはず。
人生100年時代を生きていく楽しみとして、自分のために絵本を読むのも、いいですよね。
(きた・もとこ)

子ども歳時記126「絵本を読み継ぐ」吉澤 志津江

絵本講師 吉澤 志津江

絵本を読み継ぐ

 町内の保育士や幼稚園教諭を対象に絵本の話をする機会があった。子どものエネルギーを受け止める力のある絵本を、子どもにかかわる専門家として子どもに読んでほしいと話した。

 

 

『スモールさんはおとうさん』(福音館書店)

 限られた時間のなかで、『スモールさんはおとうさん』(福音館書店)『めのまどあけろ』(福音館書店)『くんちゃんのはじめてのがっこう』(ペンギン社)など、スタンダードな絵本ばかり紹介した。「ご存じですか?」「子どもの頃に読んでもらったことがありますよね」と呼びかけても、反応が薄い。『スモールさんはおとうさん』にいたってはほぼ皆無、世代間ギャップとばかりは言えない空気に困惑しながら話を進めた。そういえば少し前に、学校司書の方から、「子どもたちは、家庭や保育園でスタンダードな絵本を、案外読んでもらっていない」と聞いていたので、会場の雰囲気に、戸惑いつつ納得もした。

 年間出版される絵本は約1,000点、その中からいい絵本を選ぶのは至難の業だ。作者や出版社で選ぶ方法もあるが、それよりは、いっそのこと子どもに教えてもらいましょうという話をした。それはもちろん、今、目の前の子どもに聞くということではない。読み継がれた絵本は、これまでの子ども達が、次に生まれてくる子ども達のために残してくれた宝物。その絵本の力と、それを受け止める子どもの力を信じてほしいと話した。また、新しい絵本ばかりを子どもに読んでやる必要があるのだろうかとも問いかけた。600万部発行されている『いない いない ばあ』(童心社)だって、赤ちゃんにとっては新しい絵本ではないのか。日々成長する子どもにとって、昨日読んでもらった本も、今日生まれ変わるかもしれない。

 研修のあとの感想は、「古くからある本は、退屈だろうと思ってなるべく新しい本を選んでいた」「棚にある絵本を適当に選んで読んでいた」「子どもの反応がほしくて声色を使っていた」「読んだ後、いつも子どもから感想を聞き出していた」「昔話のことがとても参考になった」など、率直なものばかりだった。

 保育や幼児教育の現場の方たちに、絵本の奥深さや、読み方選び方が、思いのほか伝わっていない現実を目の当たりにした。現場の大人を、絵本の豊かな世界に引き入れることができれば、大人たちが、義務としてではなく楽しんで、たくさんではなくたっぷりと、園児の時代に出あってほしい本を子どもに読んであげられれば、かかわる子どもたちの喜びに結びつく。

 「もっと詳しく、できれば続きを聞きたい」との感想もいただいた。子どもと接する方たちに、私たちができることが、まだたくさんある。
(よしざわ・しづえ)

子ども歳時記125「体験が育む子どもの理解」栗本 優香

絵本講師 栗本 優香

体験が育む子どもの理解

 太陽がまぶしい季節になりました。水遊びをする子どもたちの歓声、キラキラはねる水しぶき、そんな光景を目にすると、こちらまで楽しい気分になってしまいます。

『にじ』 (福音館書店)
『にじ』 (福音館書店)

ところで皆さんは、虹はどうやったら見ることが出来るのかを知っていますか? その答えを教えてくれる絵本があります。『にじ』(さくらい じゅんじ/文、いせ ひでこ/絵、福音館書店)です。読みすすんでいくと、虹は太陽を背にして立った時、水しぶきや霧の中に見つける事ができる、ということがわかります。絵本の中に出てくる男の子は、雨上がりの空に虹を見上げ、疑問や好奇心を膨らませます。公園の噴水に映る虹も見つけますが、反対側へ回ると虹は見えなくなってしまいました。そんな男の子に、お父さんは洗車をしているホースで水をまきながら、先ほどのように教えてくれるのです。

最近、日常のちょっとした疑問を5歳の女の子が教えてくれるテレビ番組が人気です。子どもの頃は、誰もが色々と素朴な疑問を抱いていたはずなのに、いつの間にか大人は、そんなことはすっかり忘れてしまっています。そして日々の忙しさにかまけて、物事の表面だけをすくって解ったつもりになっていたり、子どもの問いかけに対しても「そんなの常識だ」とか「当たり前だ」と言っていたり……。だからこそ、こういった番組が子どもたちに支持されているのかもしれません。『にじ』の絵本もそうです。静かに、子どもの疑問や好奇心に寄り添い、一緒に立ち止まって考え、さり気なく伝えてくれる絵本です。

小学5年生の娘が小さかった頃には、雨上がりの空に虹を見つけては、親子でベランダから眺めていた事を思い出しました。ベランダで抱っこした娘の、汗ばんだ小さい身体のぬくもり、雨上がりの蒸し暑さは、私の記憶の中に色濃く残っています。そんな風に、蒸し暑い中で目にすることも多い虹ですが、この絵本は、眺めているだけで本当に涼しく感じられ、夏にぴったりの1冊です。画家のいせひでこさんの美しい青色の世界が、読み手に涼しさをもたらしてくれます。

絵本の最後のページに《もう、ぼくはしっている。》というセリフがあります。男の子自身の体験と、お父さんが教えてくれた知識と、それらがあって男の子は初めて“虹を知っている”と自信をもって言えたのではないだろうかと思います。こんな風に、自分自身の体験に根差した知識や理解が、たとえ大人の目には映らなくても、子どもの内面に音もなく積み重なっていくことに、喜びを感じられる大人でありたいものですね。

子どもたちにとって、この夏も、小さな体いっぱいに自然を感じ、興味・関心を湧き立たせることのできる季節となりますように。