「えほんの力 絵本の可能性 」第15期『絵本講師・養成講座』を受講して(「絵本フォーラム」124号から)

絵本のちから 絵本の可能性

第15期『絵本講師・養成講座』を受講して

「絵本フォーラム」124号2019.05.10

絵本の力を信じて  松坂 明美(東京15期)

松坂 明美(東京15期)

 私は子どもの頃から絵本が大好きで、今も自宅にはたくさんの絵本があります。社会人になってからはアナウンサーという仕事柄、読み聞かせの機会が何度かありましたが、読み聞かせは奥が深く、難しさを感じていました。読みのテクニックだけでは成立しないのです。「いつか本格的に絵本を学びたい」という思いは強くなっていきました。 

  一昨年出産し、初めての育児で悩むことも多くありましたが、何度も絵本に助けられ、魅力を改めて実感していました。そして、ますます絵本の世界に飛び込みたくなりました。思い立ったら即行動! というタイプの私は、その勢いのまま事務局に電話。第15期第2編の開催前日のことです。私の急な電話にも快く対応して下さり、そのまま次の日の講座に参加出来ることになったのです。

 講座では、絵本の素晴らしさ、絵本で子育てをすることの大切さなど多くのことを学びました。私自身が子育中であるために、勉強になることがたくさんあり、家に帰って実践したり、家族や友人に伝えたりと、充実した日々を送ることが出来ました。娘を寝かしつけた後、一人課題と向き合って集中する時間。途中何度も夜泣きで中断し、全くはかどらず、毎回締め切りギリギリに提出したこと。今思えば、どれも良い思い出です。

  子育てをして1年ちょっとの私が絵本で子育てについて語れるのか……。と、葛藤もありますが、同じ目線で、「一緒にやってみませんか?」と伝えていきたいです。今、子育てを取り巻く環境は大きく変化しています。スマホやテレビに触れない日、電子音を聞かない日はありません。このような毎日の中でも、絵本を読んでいる時は子どもと向き合い、ほっとする温かな時間にして欲しいと、心から思います。絵本が結んでくれた縁を大切にしながら、絵本の力を信じ、活動していけたらと思います。

(まつざか・あけみ)

絵本を理解する貴重な体験  第15期 吉田 和生(東京15期)

吉田 和生(東京15期)

 数年前に一冊の絵本に出会いました。

  友人に勧められ、大人向けの絵本の読み聞かせの会に参加しました。その時に読んでもらった一冊が子どものころ抱いていた気持ちを思いださせてくれました。大人になった今でも、絵本から受け取るメッセージがあるということを実感し、絵本のすばらしさを伝えたいと自分も大人に向けて絵本を読むようになりました。

  大人への読み聞かせをしていると子育て中のお母さんからお子さんへの読み聞かせについての質問を受けるようになりました。そんなお母さんたちのお役に立つために、学びを深めたいと考えたことが「絵本講師・養成講座」の受講を決めた一番の理由です。

  毎回の講義では、第一線で活躍されている絵本作家、評論家などの方々による講演があり、作品の背景や作品への想い、創作の裏話、絵本を介した親子のコミュニケーションなどこの講座でしか聞くことができない大変貴重なお話が満載でした。

  グループワークでは、様々なバックグラウンドを持つ方々の多様な意見を聞き、議論するなかで子育てにおける絵本の役割などへの理解が深まりました。

  「絵本講師・養成講座」は、単にテキストを読み、内容を理解し覚えるというものではありません。講演を聞き、グループワークで話し合い、課題リポートを作成することで自分で考えながら「絵本」への理解を深めていく過程を体験するものであったと思います。そして、この過程を通して、「絵本で子育て」の意義を単に頭で理解するだけではなく、実感することで、絵本講師として自信を持って講座ができるカリキュラムであったのだと修了レポートの作成を終えた今実感しています。

  これから子育てをする若いお父さんや孫育て? をする世代のお父さんにもお役に立つ講座だと思います。是非、お父さんも受講されてみてはいかがでしょうか。

(よしだ・かずお)

飫肥 糺 連載114  先生って、どんな人をいうのだろう

先生って、どんな人をいうのだろう
飫肥 糺( 批評家・エッセイスト)

『せんせい』(福音館書店)

 

 先生とよばれる人はどんな人だろうか。『大辞林』によれば、①に学問や技術・芸能を教える人で、とくに、学校の教師であり、また、自分が教えを受けている人であるという。この意にはだれでもすなおに納得できるだろう。
ところが、『大辞林』は②の意に教師・師匠・医師のほかに代議士など学識のある人や指導的立場にある人を敬う語でもあるとする。昨今の、言いのがれやうそに満ちた議員たちの行状や発言を知ると、こんな議員たちまで先生とよぶのかと違和感がつのる。そうだろう、どう考えても不愉快ではないか。先生とよぶにふさわしい人物から「先生といわれるほどの馬鹿でなし」と敬遠される言葉となっているとしたら語意が転倒してしまう。
            
 絵本『せんせい』に描かれる先生は、だれからみても、どこからみても先生だ。物語の舞台は保育園か幼稚園の年少組のようである。
 「ねえ、みんなしっている?」と言葉を投げかけて、子どもたちが”せんせい”を、語る。たのしく語る。親しく語る。自慢げに語る。「せんせいって、ときどき うまだよ」って。「…ときどきオニだよ」って……。これを承けてページをめくると、「ねっ!ぱっか ぱっかのおうまさん」「ねっ!おにごっこの オニ わーっ、にげろっ」と、遊びであふれる園の活動を、子どもたちは語る。うれしそうに語る。子どもたちも”せんせい”も、よく遊ぶ。ここでは遊ぶことは学ぶことなのだ。…かくして”せんせい”は、おすもうさんになり、おおかみになり、ままごとのおきゃくさんに、かんごふさん、おとうさん、おかあさんになっていく。      
 幼保教育のたしかな実践者であり、数多くの幼児教育論考を著してきた大場牧夫は『せんせい』のなかで先生と幼児たちとのあるべき姿を描きたかったのだろうか。ここでは、徹底して未就学幼児の目線から先生像を語り描く。

 ぼくの父や母も教師だった。理数科教師だった父は戦時下の外地赴任(大連)をふくめて戦後の70年代半ばまで教師をつづける。そんな父を、多くの教え子たちが自宅によく訪ねてきた。地元役所の職員や漁業・農業従事者たち、企業人に大学教授、父にあこがれたという小・中・高の教師たち。そのころ、まだ児童や生徒であったぼくも、教え子に慕われる父の職業にいくらかなりとあこがれを持っていたように思う。

 不思議なことに、古希すでに越えて喜寿に近づく年齢となったぼくには、学童期から姉・兄と慕ってきた父の教え子との交流が首都圏でつづく。

 その父はよく言っていた。「学者と教師はどちらも先生と呼ばれるが本質がちがう。教師はなによりも児童や生徒と全人的に向き合わなければいけない。だから、教師としては大学より高校、より中学校、より小学校の方がむずかしい。人間力をもっとも必要とするのは幼稚園や保育所の先生だろう」と。           

 作者の大場牧夫は大学で幼児教育を論じながらも数十年の本職を幼稚園教諭として生きる。先生として生きたのである。全人的に子どもたちと向き合う『せんせい』像に作者のすがたを読みとれるように思う。 そして、『せんせい』をいっそうの傑作に仕上げた長新太のイラストの役割を見のがすわけにはいかないだろう。達意で闊達なイラストはテキストを幾倍にも引き立たせて子どもたちや”せんせい”を躍動させ、明るく親しめる彩色で活写する。”せんせい”の役割を12項、表裏2ページでくりかえす。この心地よいスピードとリズムをイラストが親しく展開させる。

 いっしょに遊んで子どもみたいに転んでしまう”せんせい”。”せんせい”は、子どもたちみんなの先生だけれど、家に帰れば子どものいる本当のおかあさんで、”せんせい”にもおかあさんがいる。だから、”せんせい”も本当の子ども。そんなことを、いつのまにか、子どもたちは知っている……。いいおはなしである。
(おび・ただす)

( 『せんせい』大場牧夫・文 長新太・え 福音館書店)