もみの木と「形式意志」

小澤俊夫氏講演会 ぼく、息子が二人いるんですが、もう大人やってます。親やってますけどね。彼らが子どもの頃、クリスマスツリーを作ってやろうと思って、もみの木の苗を買ってきたのね。で、庭に植えたんですね。ちょうど僕の勉強机の真正面だったもんだから、毎日見てたわけ。

 もみの木って成長が早くてね、とってもきれいな形になったんですね。こういう、きれいな形<ホワイトボードに、もみの木の絵を描く>になったもんで、みんな喜んで、12月になったらクリスマスツリー作れるなぁ、と思って楽しみにしてたわけ。秋に植木屋さんを入れたらですね、植木屋さんの言うには、「もみの木は成長が早すぎて、根っこがまだちゃんとしてないから、風が吹いたら倒れちゃいますよ」とぴしゃっと、ここを横に切られちゃった。<もみの木の絵の真ん中に横線を入れ、上半分を消す>

 ところがね、何週間か経ったころ、ハッと気がついたら、ぼくから見て左側の枝がちょっと立ってきたんだよ。はじめ、わかんなかったんだよ。で、どんどんどんどん立ってきて、結局そのあと6週間ぐらいだったかなぁ、2ヶ月だったかなぁ、完全に元に戻ったんです。

 こんな感じになったんです。<もみの木の再生した形を描く>

 嘘だと思ったらやってごらん。完全に戻ったんですよ。ほんとにぼくはね、そんとき、衝撃受けました。もみの木にも意志があるってこと。「おれはこういう形じゃないよ。おれは本当は、こういう形なんだよ」と。そう考えるとね、思い出したんだけど、哲学の方では「形式意志」という言葉があるんですよ。

 生きているものと芸術作品は、自分がどういう形でありたいという意志を持っている。こういう理屈です。ぼくは、もちろん知ってたんです、言葉は。だけど、実際に目の前で見せられたのは、この時初めてだったわけ。もみの木に、「形式意志」があるってこと。内的な意識がある。

 

子どもたちの持つ「形式意志」

 それから何年か経って、生物学やっている人に久しぶりに会った時に、この話をしたら笑われちゃ小澤俊夫講氏講演会って。おまえ、それはDNAだって言われちゃって……。そりゃそうだよ。そりゃDNAだよ。だけど僕は文学やってる人間だから、そういう言葉は使わない。そういうんじゃなくて、生きているものは「形式意志」を持っている。それでね、ほんとにこのことは忘れられないんです。僕は、こう思う。もみの木でさえも、自分はこういうきれいな形でありたい、普通の形でありたいという意志を持っているんだから、いわんや、人間の子どもたちも、みんな、そういう意志を持ってるんじゃないかってことです。これを皆さんに考えてもらいたいと。

 子どもたちも、大人から見たらね、きっといろいろ足りないところがあるだろう。怠けてるとか、遅いとかさ、片付けが悪いとかいろいろあるでしょ。だけど、子ども自身としては、わたしはこういう人間でありたいと思ってんじゃないか。どうだろうか。世の中に出ても、大人になっても、どっか狭い場所、日本に生きる、世界の中で生きる狭い場所、家庭を担っていく。そして、何か職業が出来て生きていける。普通の人間として生きていける。そういうものでありたいと思ってんじゃないか。どうだろうか。ぼくはそう思う。

 もみの木でさえも、そうやって「形式意志」があるんだから、いわんや、人間に「形式意志」が無いはずがないよ。障害がある子はどうするんだと言うかもしれないけど、でも、障害があっても普通にいこうと思ってるんですよ。だから生きていけるわけでしょ。

 

大切な3つの自覚

小澤俊夫氏「こんにちは、昔話です」 ぼくは、これがとっても大事なヒントだと思ってんのね。特に、大人が子どもと接するときのね。大人の方から見たら、足りないとこいっぱいあるんだよ。あとかたづけが出来ないとかさ、朝遅いとか、いろいろあるでしょ。だけど子ども自身は、そういういろいろ欠点はあるけど、自分は世の中で普通に人間として生きたい、生きていきたいって、みんな思ってんじゃないか。どうだろうか。それが大事だと思うんだよね。それを守ってやるということだね。そうじゃなくて、大人の方がね、考えを押し付けて、こうであるべきだって言いますけどね。こうあるべきだっていうのを押し付けていくと、子どもがつぶれていくんだよね。

 ぼくたち大人が子どもにしてやれることは何かって言ったら、つきつめていくとね、子どもが思春期の間に、まぁ18才~19才ぐらいまでかな、それまでの間に、3つの自覚が持てたらいいなと思うわけ。

 ひとつは、自分が愛されているという自覚ね。

 そして、自分が信頼されているという自覚ね。

 そして、自分の価値が認められているという自覚ね。

 自分は愛されているんだ、自分は信頼されているんだ、自分の価値は認められているんだ、ということが自覚できたら、あとは、もみの木でやっていくんじゃないか。もみの木のように、自分は普通の形で生きたいという意志を持っているのだから、それに任せたらいいと、ぼくは思っている。

 

なまの声は育ちの栄養

 どうも、ぼくは今、日本を見ててですね、その、親からの規制や、あるいは学校からの規制、それが強すぎると思う。こうあるべきだみたいなの、とても強いように思うんだね。

 戦争のあと、敗戦のあとですね、ぼく敗戦の時、中学でしたから、その時のこと、全部よーく覚えてるんです。自分でものを考えるとか、自立するような教育法ってものが大事だと、ずーっとやってきたんですよ。それが今否定されつつあるんだよね。そうやって、勝手なことを教育したからいけないんだというような考えが、とっても強くなってきた。ぼくは、戦後の教育を否定しようとしているなと思ってる。特に憲法ね。

 それともう一つ大事なのは、文明が発達したでしょ。たとえばスマホみたいな、立派な、便利なもの出来ちゃってるよね。それらからの情報で子どもが規制されるって、とっても強いのね。テレビももちろんそうなんですが。

 ぼくは昔ばなし研究者ですから、その昔話を実際に田舎で聞いてきた経験がいちばんのもとに、ぼくにはあるんです。その経験から言うとですね、子どもたちが育っていくのに大事なことは、まず周りにいる大人のなまの声。親とかね、まわりのおっちゃん、おばちゃんとかね、おじいちゃん、おばあちゃんとか、そういうなまの声。このごろ、なまの声じゃないものがとってもたくさん、子どもの耳に入っているよね。スマホをはじめいろんなもの、テレビもあるし、CDもあるものね。それは便利だからいいように思われているけれども、子どもが育つうえで栄養になるのは何かといったら、皆さんのなまの声。

(構成・池田加津子、協力・東條真由美)

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