■芦屋の桜花は葉桜に
事務局の近くに桜の並木道がある。阪神電車の高架を挟んで南北に約300b近くあるだろうか。今年も桜花は見事に咲いた。しかし、花の色は例年と違い薄い桃色。その爛漫も花散らしの雨に打たれ大方が散ってしまった。今は緑が芽吹いている。 

内輪のことであるが14日(土)、絵本講師の会(はばたきの会)の2012年度初めての交流会が開催された。ここで、「絵本講師の『学習心得』について」のお題をいただき90分話すことになった。新入会員が多いこともあって、事務局のTさんに「新しい会員が多いから、上品に話さないといけませんね」と尋ねた。Tさんは「いえ、いつも上品ですから普段のままで」、と。
講義終了直後、おひとりの会員が私の傍に寄ってきて「難しくて詰まらなかったから、眠っていました」と率直な感想を述べてくれた。話法でなく内容に問題(空疎)があったようだ。このように素直に反省できるところが私の取り柄でもある。後刻、事務局で数人の会員たちと反省会のようなことをしていたら、「今日はたくさんの人が眠っていましたね。正確に数えたわけではありませんが5〜6人はいました」。嗚呼……。

■迷走から暴走へ
政府(野田佳彦首相)は、なりふり構わず関西電力大飯原発の再稼働に暴走している。「迷走」から「暴走」へとギヤチェンジしたようだ。前号(3月10日)でマスコミ報道の醜態を「度し難い」と書いたが一部を除いて、ここでも再稼働に向けて必死の論陣を張っている。もちろん、「原発(暫定)安全基準」については4月5日付の各紙が社説で一定の批判を加えている。朝日=「再稼働ありきはダメだ」毎日=「つじつま合わせはだめ」読売=「丁寧な説明で早期に再稼働を」。朝日、毎日は安全基準の策定過程に疑義を呈しているが、読売は読売らしく「政府は安全基準の策定を急ぎ、速やかに地元の説得を開始すべきである。」と早期の再稼働を後押ししている。何をか言わんや、である。さらに朝日の10日付紙面では、大阪府市が政府や関西電力に対して出した「原発再稼働8条件」を朝刊トップで掲載している。この8条件の6番目に「使用済み核燃料の最終処理体制を確立し、その実現が見通せること」がある。この条件を本気で主張するなら原発の再稼働は理論上不可能である。新自由主義の衣を着た大阪維新の殆どの政策は評価しないが、この一点は大声で主張してもらいたい。主張の継続をしかと見守ろう。

原発を全基廃炉にする務め
我らが背負う重い十字架


■ 批評精神を失った新聞は哀れ
朝日新聞(大阪)4月2日付の、夕刊トップ記事を読んでビックリした。大阪市役所での新入職員の入庁式で橋下徹市長が《「みなさんは国民に対して命令をする立場。だからしっかりルールを守らないと命令なんか誰も聞いてくれない」と服務規律の徹底を求めた。》というものだ。発言に驚いたのではない。扇動家の橋下氏なら言いそうな台詞だ。驚いたのはその発言に対して朝日は一行の批判も書いていない。他のページを丹念に繰った。しかし、どこにも訓示に対する論評はない。失望した。それでも何日かは、「きっと、批判は掲載するだろう」と少しの期待で紙面を追っていた。果たして一週間後の8日、読者欄「声」に、《「公僕」概念を欠く橋下訓示」》という投稿を載せた。内容は真っ当で《維新八策もけっこうだが、最大の課題は、地盤沈下した大阪市を浮上させることである。それを担う新人職員への言葉として、あまりにも不適切ではないだろうか。》と投稿者は厳しく「訓示」を批判している。
新聞は事実のみを書けばいいというものでは、ない。下の随感録の、むのたけじ氏の言葉を噛みしめたいものだ。

ジャーナルの使命を捨てた新聞紙
われらは何を道標(しるべ)とするか

3・11以降の随感録の続きです。
このころジャーナリズムは、「大本営発表」と読者からの批判に晒されていました。

■ジャーナリズムの原点とは                                 
3・11の東日本大震災、東京電力福島第一原発のカタストロフィー以降、私たちの日常は劇的に変化した。多くの人々が文明史的転換であることを自覚するに至ったのではないか。とりわけ原発事故は立地の福島県のみならず、日本国内は無論、世界的規模で放射能汚染を引き起こしている。まことに嘆かわしく、残念無念である。
原発事故が発生以来、新聞、テレビをはじめとするジャーナリズムは、夥しい言説を人びとに提供してきた。事故発生時の政府、東京電力の「情報隠し」に始まり、「安全神話」の崩壊、菅直人首相の「脱原発」宣言の一人芝居、また各電力会社、原子力安全・保安院の「やらせ問題」など多岐にわたる。情報の量としては単一の問題に対して格段に多いのではないか。
幾つかの記事は蒙を啓いてくれたが、情報量に比して胸に迫ってきたものは少ない。なぜかと考えたとき、ジャーナリズムとは何か、という根源的な命題に突き当たった。
《ジャーナリズムは、記録と主張の体系である。考える素材を人びとに提供する事業である。主張のない報道は、報道のない主張に劣る。それは人びとを迷わせるだけである》(むのたけじ/『詞集 たいまつ』)
一例であるが、原発の「安全神話崩壊」に関しての報道は、新聞自らを「原子力村」の村外に置き、政界・官界・財界・学会に批判の筆を走らせる。1955年の新聞週間の標語「新聞は世界平和の原子力」を、忘れてしまったのか。この50数年間、自らも「安全神話」の創作に加担してきたことこそ真摯に検証すべきではないか。そうすれば、昨今の報道を「大本営発表」などと、人びとに揶揄されることはない。(2011年8月8日記)
(ふじい・ゆういち)

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