小澤俊夫氏 講演会 全編


「昔ばなしと子ども」講演録1

ー 時間に乗った文芸、昔話 ー

 こんにちは。ご紹介いただいた小澤俊夫です。貴重な時間ですから、いきなり本題に入ります。

  最初に僕のほうで質問をさせてもらいたいんだけれども、昔話はどこにありますかって僕が聞いたら、皆さん何を思い浮かべますか? 昔話ってどこにあります?って聞いたら……絵本に書いてありますっ言うよね、「絵本で子育て」センターだもんね(笑)。あるいは、昔話集に出てくる、あるいは時々ラジオに出てくる。そうするともう、僕らが実際に田舎へ行っておじいちゃん、おばあちゃんから聞いてきた人間からするとですね、昔話が本当にあるのは、それが語られていた時間の間だけなんです。語られている時間の間にだけ、昔話はある。終わったら消えちゃう、そういうもんです。

  と言ったらもう皆さん気が付いたと思うんだけど、音楽と同じだよね。音楽も演奏されている間だけあるんです。CDがあるじゃないかというけれど、それは缶詰に過ぎないんでね。本当にあるのは、演奏されているその時間だけ、音楽は時間に乗った芸術ですね。

  昔話も同じ意味で、時間に乗った文芸です。そこをまず覚えといてください。

 なぜそんなことを先に言うかっていうとですね、おそらく皆さん昔話っていうのはみんな本で読んでると思うんだよね。僕も本を出しているけど、本で読んでると思うんですよ。だから、昔話ってのは本に書いてあるもんだと思っている人がすごく多いわけ。で、それは本に書いてあるもの、例えば児童文学の本に書いてあるものと昔話、比べてみてください。本に書いてる小説・児童文学は、例えば50ページの本で20ページまで読んでって、何だか筋がわからなくなったら、元へ戻って読み返すことができるでしょ。もう一度読むことができるじゃないですか。あるいはどっかで止まって考えることも出来るよね。ですから書くほうはどんなに細かいことでも書けるんです。細かい心の動きとかね、森のこう微妙な光の関係とかね、そういうの書けるのが作家として認められるわけです。そういうことを書ける人が……。

 昔話は、そうじゃありません。昔話は耳で聞いてきました。一回きりです、耳で聞くってことは。待ってくれっていうわけにいかないんです。あすこもう一回っていうわけにっちゃいかないんですね。ということは、昔話は耳で聞いてわかりやすい単純明快な文体を獲得してきた、と言えます。単純明快な文体を獲得してきた。長い伝承だよね。

 ただ、文体って言葉を使うとどうしても、文という字が入っちゃって、書かれたみたいに思うから、僕は「語り口」といいます(ホワイトボードに「語り口」と書かれる)。「語り口」という言葉を使います。今日はこれで行きます、「語り口」。昔話は耳で聞いてわかりやすいいろんな単純明快な「語り口」を獲得してきた。獲得してきたという意味は、何百年も伝えられている間に、いつの間にか獲得した、そういう意味です。誰かが作ったんじゃなくて。で、今日はですね、その、ま、90分ありますけどね。まず前半は、その昔話の単純明快な「語り口」って具体的にどうなんだっていうのを、実例でお聞かせしようと、僕がひとつ語りますからそれを聞いてください。で、それを使ってやります。後半は、今日のメインテーマである、子どもの問題。

 昔話ってのは、大事なメッセージは僕は3種類あると確信しているんだよね。

 ひとつは、子どもが成長する姿なんですよね。昔話のメッセージは、第1は子どもが成長する姿。

  2番目は人間と自然との関係。特に日本の昔話は、それが大事なんですよね。人間と自然の……。

  3番目は人間の命とは何か。人間だけじゃなくてね、動物の命とは何か。

 だけど、これ3つはとても出来ませんので、今日は子どものテーマに絞ってお話ししたいと思います。

 で、まず最初ですけど、その簡単明瞭な「語り口」ってどういうことかっていうと、ひとつだけあります。宮城県のですね、登米郡というところにいらしたおばあちゃん、亡くなりましたけれど、彼女が語った、うまかたとやまんばの話なんですね。これ、息子さんの佐々木徳夫さんが、お母さんの話を書き取って発表したんですね。で、ぼくはそれを見たときに、もちろん宮城の言葉ですよ、それはね。聞いた時に、もう僕らの言ってる昔話の文法そのものなのね、ずばり。佐々木さんの了解をとって共通語に直して、語りに使ったり、あるいは絵本にもしました。


「昔ばなしと子ども」講演録2

ー 想像する力を養う昔話 ー

馬方とやまんば

 僕がひとつ語りますから聞いてください。

  むかしある村にひとりの馬方がいた。あるひのこと浜へ行って、魚をたくさん仕入れて、馬の背にふりわけに積んで、峠の道を帰ってきた。日が暮れて、あたりが暗くなると、松の木の陰からやまんばがとび出してきて、「こらまてー、その馬の片荷置いてけ、置かなきゃおまえをとって食うぞ」っていうんだね。馬方は、馬の片荷をひとつうしろへぶん投げて、馬を引いて、また峠の道を行くんだね。

 したらばやまんば、その馬の片荷の魚をばりばり食っちまうと、すぐまた追いかけてきて、「こらまてー、その馬の片荷もうひとつおいてけー、おかなきゃお前をとって食うぞ」っていうもんで、馬方、残りの片荷もうしろへぶん投げて裸馬になって、わらわら峠の道を逃げてね。

 したらばやまんば、その片荷の魚をばりばり食っちまうと、すぐまた追いかけてきて、「こらまてー、その馬の脚一本置いてけ、置かなきゃおまえをとって食うぞ」っていうもんでね、馬方馬の脚を一本ぶった切って、それっと後ろへ投げて、三本脚の馬に乗って、がったがったがったと峠の道を逃げてく。

 したらばやまんば、その馬の脚もまたばりばり食っちまうと、すぐまた追いかけてきて、「こらまてー、その馬の脚もう一本置いてけー」っていうんだね。馬方、馬の脚もう一本ぶった切って、それっと後ろへ投げて、二本脚の馬に乗って、がったがったがったと峠の道を逃げていく。

 したらばやまんば、その馬の脚もばりばり食っちまって、すぐまた追いかけてきて、「こらまてー、その馬の脚もう一本置いてけー、置かなきゃお前をとって食うぞ」っていうもんで、馬方、これはもうとても逃げおおせるもんじゃねえぞって、馬をまるごとそこにおいて、薮をこいでわらわら山のなかに逃げた。

 したらば、池があって、その池のほとりに高い木があったもんで、木によじ登って、上でじーっと隠れていた。やまんば、馬にまたがると、馬をばりばり食っちまって、すぐにまた追いかけて来た。池のほとりまで来ると、池の水のなかに馬方の姿が見えたもんだから、「おめぇそんなとこに隠れてたか。隠れたってだめだぞー」って、池にどぼんととび込んだ。それを見て、馬方は、木の上から降りてきて、薮をこいで、また山のなかへわらわら逃げていった。

 したらば、うまいことに小屋が一軒あったもんで、これはいい隠れ家だと思って、なかへとび込んで、梁にあがって、じーっとしていた。

 しばらくすると、なんと、さっきのやまんばがずぶぬれになって入ってきた。

「おー寒い寒い、今日は魚いっぱい食った。馬まるごと食って腹くちくなった(腹いっぱいなった)。どうれ、甘酒でもわかして飲むか」っていって、囲炉裏に大きな鍋で、甘酒をわかしだした。で、自分はくるっと背中を向けて、背あぶりをはじめた。甘酒がちょうどわいてきたころ、やまんばは、くらーんくらーんとねむりかけ始めた。それを見て、梁の上の馬方、屋根のかやを一本抜いて、つっぱつっぱと甘酒を吸っちゃった。

 したらば、やまんば目を覚まして、「おれの甘酒を飲んだやつはだれだー」っつて叫んだ。梁の上の馬方、ちっちゃい声で、「火の神、火の神」っつたらば、「火の神さまが飲んだんじゃあ、しょうがねぇ、どれ餅でも焼いて食うか」っつて、餅を三つ持ってきて火にのっけて、また自分はくるっと背中を向けて、背あぶりを始めた。餅が焼けて、ぷーっとふくらんできたころ、やまんばは、また、くらーんくらーんていねむりを始めた。それを見て、梁の上の馬方、さっきのかやで、餅をつくんと刺しては食べ、つくんと刺しては食べ、三つとも食べちゃった。

 したらば、やまんば、目を覚まして、「おれの焼餅、食ったやつはだれだー」と叫んでる。梁の上の馬方は、ちっちゃい声で「火の神、火の神」っつったんだ。「火の神さまが食ったんじゃあ、しょうがねぇ。どれ、寝ることにするか。木のからとに入って寝るか、石のからとに入って寝るか」と独り言をいった。梁の上の馬方、ちっちゃい声で「木のからと、木のからと」っつったらば、「火の神さまがおっしゃるんじゃあ、木のからとにするか」といって、木のからとに入った。それを見て、馬方、梁から降りてきて、湯をわかして、もみぎりを持ってきて、その木のからとにキリキリキリキリ穴をあけだした。

 やまんば、「あすは天気だか。きりきり虫が鳴いてらぁ」なんつうけど、かまわずキリキリキリキリ穴をあける、穴があくと、熱湯を持ってきて、その穴から熱湯を注ぎ込んだ。

 やまんば、はじめは「このねずみ野郎、しょんべんなんかひっかけやがって」なんつって、かまわず、熱湯を注ぎこんでったら、しまいに、やまんば、「あっつい、あっつい、助けてくれ、助けてくれ」って叫んだけれども、馬方、「おれの魚と大事な馬を食ったかたきだ」っていって、熱湯をどうどうと注ぎ込んだんで、やまんば、とうとう死んでしまったと。

 「こんで、えんつこもんつこ、さけた」っていって、宮城県では終わりますね。

おとぎの世界を宣言する結末句

 「こんで、えんつこもんつこ、さけた」ってのはですね、「結末句」って僕ら言ってますけど、「これで、お話は終わりだよ」という挨拶です。っていうのはですね、昔話って、おとぎ話でしょ。おとぎ話っていうとかっこいいけどさ、ぶっちゃけていえば、これ「うそ」じゃないですか。だから、語り終わってからね、語り手が責任追及されても困るわけだよ。

 馬がなんで三本脚で走ったんだって、返事のしようがないよね。

 だから、「ここまでは、おとぎ話ですよ、私の責任じゃありません」と、ガードをはるわけです。それで結末の挨拶、昔話にはつきます。伝説にはつきません。伝説はおとぎ話じゃないからですね。で、これは地域的に非常に狭くなってるんです。岩手県に行ったら、「どんとはれ」、なんてったりね、秋田県に行ったら「どっぺんぱらりのぷう」、新潟県では、「これでいちごさけた」、いろいろあります。あの、世界中の昔話はうそっぱなしですから、優れた語りではですね、その、最後に結末句をつけるんですね。

 ですから、ヨーロッパにもたくさんあります。ヨーロッパの一番有名なのはね、たとえば、「王子と王女はめでたく結婚しました」。なんていうでしょ、「死んでいなければまだ生きているでしょう」って……あたりめえだって、笑わしてぱっと終わるのね、結末句にして終わる。ところで「馬方とやまんば」の話を聞いていただいて、どうですか、最初の場面。

 馬方がひとりで現れたでしょ。なんとなく皆さん馬方の姿を想像したんじゃないか、そうでしょ。やまんばが出てきたよね、それもなんとなく想像したんじゃない?

 お話って言葉でしょ。言葉で耳に入ってくるよね。それを頭んなかで絵に描くわけだよ、想像するってことは。

 言葉で聞いたことを、頭のなかで絵に描くこと。その変換する力。言葉から絵に変換する力を養う事。これが、子どもにお話を聞かせることの、一番大事な、第一の意味なんです。

耳で聞きやすい昔話

 「馬方とやまんば」の冒頭のところをね、たとえば、いきなり馬方がさ、13人ぞろぞろ出てきました。と、そこへやまんばが15人来て取り囲みました。(笑)絵にならないじゃん。だいたいの絵になっちゃうよね。それじゃ、だめなんです。ひとりだからとおる、はっきりイメージできた。それが大事です。昔話の一番基本、昔話は人物や大道具、小道具を孤立的に語る、という基本的な文法があります。(孤立的とホワイトボードに書かれる)

 例はいくらでも挙げられます。たとえば、「浦島太郎」。浦島太郎は、亀の背中に乗って竜宮城へ行きました。っていうじゃない、あんときひとりで行ってるよ、そうでしょ。

 弟を連れてったっつうんじゃ話になるもんじゃない。それで行ったら、むこうで乙姫様もひとりでいるじゃないですか。そうでしょ。で、そこへ浦島太郎がひとりで来る、一対一になりますね。孤立と孤立で一対一、これも大事な文法。昔話の場面は、一対一で構成される。大事なことなんです。一番シンプルで、クリアーでしょ。例を挙げだすと、きりないんですけれどね、たとえば、ヘンゼルとグレーテル。グリム童話ってのは、ドイツの昔話をグリム兄弟が集めて、多少手を加えたのね。だから完全な昔話ではないんですけれども、まあ9割がた8割がた昔話でいいのね。ヘンゼルとグレーテルは、森のなかに捨てられました。

 そもそも孤立的じゃないですか。ふたりっきりです。それで森のなかを走っていったら、お菓子の家がありましたっていうね。あのお菓子の家、一軒だと思いませんか。

そうでしょ、お菓子の家の団地がありましたっていうのは(笑)、あんまり聞いたことないと思うんだよ。そこに住んでる魔女もひとりだと思うわけ。

 そうでしょ、そうすっとさ、山奥に一軒の孤立的な家があって、そこに老女がひとり住んでたっつったら、さっきの馬方のお話とおんなじじゃない。ね、これが文法です。これを「一対一の法則」という。家が一軒で、で、そこに女が、老女がね、ひとりで住んでる。そういう語り方、それが昔話の語り方だっていう、文法です。例を挙げだすときりがないんですけどいいたくなっちゃう。ラプンツェル。知ってる?、ラプンツェル、グリムね、塔があるでしょ、あの塔、女の子ひとりじゃないですか。塔が一軒。一軒て言わねえな、塔だから、一つだけあって、孤立してんだ。そこにひとりでいる。で、そこへ魔女が来るよね。あの魔女もひとりじゃないですか。だから一対一ですよ。そうでしょ、そのあと王子が来るでしょ。こっそり、あれも一対一じゃないですか。

そんなんで、同じ文法です。こういう文法があるから、昔話は耳で聞きやすいようになってんです。


「昔ばなしと子ども」講演録3

ー 本当は、残酷でない昔話 ー

子どもと大人は感じ方が違う

 さっきの「馬方とやまんば」の話で、すごい場面があったでしょ。馬の脚切ったとかね。 だけど馬は3本脚になって、走ったじゃないですか、そのまま。全然性能が落ちてなかったでしょ〈笑〉。それが昔話。しかも、血が流れてないよね、馬は苦しんでもいないじゃないですか。そうでしょ。 それが昔話。だけど、それを世間ではね、昔話って馬の脚を切って残酷だっちゅうわけだ。だけどね、僕、子どもの前でもずいぶん語ったことあるんですけどね、お話しを聞きなれている子どもたちは、あそこを聞くと、笑うよ。2本脚で走ったなんて言うと、もう手をたたいて笑ってるんだ、喜んで。大人と全然違うんだ、感覚が。今聞いてる皆さんは、ぎょっとしているか、いろいろな顔があったけどさ、子どもは全然逆です。僕はこう思います。子どもと大人は感じ方が違います。感受性が違います。それを大事にしてください。

 教育しないでください、っていうことです。どういうことかっていうとね、例えばあの場面にきたときね、そばにいる母ちゃんが、まあ、残酷ねぇって、馬がかわいそうねぇなんて、どんなに苦しかったんでしょうねぇなんて言っちゃうけど〈笑〉、それって教育したことになります。ね、子どもは聞いてて、あ、そうか、これが残酷っちゅうことなんだなっていう風に思う。

  子どもにしてみれば、脚が一本切れて、そのまま走ったこと自体がおもしろいんです。それで、楽しんでる。ですから、どうぞ教育しないでください。あそこでねぇ笑えるってのはもう、人生の初めの頃の数年間だよ。現代の子どもは、中学生になったら笑わないでしょ。まあ、小学校の4年生ぐらい、3年生ぐらいが限度かなぁ。ですから、そのほんとにもう黄金の時代ですから、親がかき回さないでください。でも、こんなお母さんもいました。あそこへきて、うちの子どもが笑ったんですって言うんだよね。この子はなんて残酷な子なんだろう、私の育て方が悪かったのかしらなんて(笑)、深刻な質問を受けたことがありましたけども、そうじゃないです。子どもは楽しんだらいいんです。子どもにとってはおそらくね、馬は4本脚に決まってんだよ。それ以外のことが起きたら、もうおかしいの。ひたすらおかしいの。

なぜ、馬が3本脚で走れるか

 でも、ちょっと今日は大人相手だから、理論的なことも言っとかないと、馬鹿にされるから(笑)。 なぜあそこで馬が3本脚で走れたかっていう問題です。なぜ走れたのか。あれをね、皆さん、考えてみると、説明は簡単なんです、実は。馬の姿を、横向きがいいなぁ、切り紙細工で作ってみてください。脚1本切ってください。3本脚になったでしょ。だけど、血は流れてないでしょ。しかも形は崩れてないんじゃないかな。馬の姿全体は崩れてないでしょ。だから、走れるんです。簡単なんだよ。これが正しいことと証明するのは簡単なんだよ。逆に考えてみてください。あの、太った馬、太ったっていうか、肉体のある馬、その脚を切ったと思ってください。血が流れるでしょ。第一、切るの大変だよ、あの太い脚を切るのは。なたで何度も何度もひっぱたいて、血があたりに飛び散ってという話になっちゃうよね。そんなことは何にも言ってないのね。

 それからもう一つは、馬の脚を一本切ったら、必ず崩れるよね。立ってないでしょ。崩れたら、走れないよね。だから、昔話は、馬を肉体的には語っていない。立体的には語っていない、ということです。もっと言えば、切り紙細工的に語っている。昔話は、切り紙細工のように、語っています。これを平面性と言います。昔話の持っている平面性、昔話は平面的に語っています。理屈で言いますとそういうことです。子どもは全然気にしませんから、気にしないで語ってください、大丈夫です。血が流れていません。

「昔話は残酷」は、まったく誤解

 昔話って、そもそもね、そういうすさまじい場面を血なまぐさく語って聞き手の興味をひこうなんて思っていません。いろんなドラマとかアニメとかは、すさまじい場面、戦闘の場面、格闘の場面があるじゃないですか。そのすさまじさで聞き手をひきつけようと思ってます。昔話は、何でひきつけようとしたかっていうと、話の最後における主人公の幸せ、これです。話のゴールにおける、主人公の幸せ。そこへ引っぱって行きます。残酷な事件は、そのゴールにおける幸せにいたる途中の試練です。途中の試練として、残酷な事件が起きる、と考えていただいていいです。

 じゃあ、結末における幸せは何だって質問が必ず出ると思うんだけれども、僕、広く調べました。

  世界的に広く調べたんですけど、主人公の幸せは、3つに分類されます。一つは、主人公の身の安全。

 これが一番大事だよね。敵をやっつけたんですね。それから2番目が富の獲得。3番目が結婚。もちろん複合はあるよ、結婚と富とか、そういう欲張った話はもちろんあるんだけれども、この3つのどれかに該当します。そうやって、安心させるわけだね。聞き手はそれで安心して終わる。で、その途中にはいろんな事件が起きる、ひどい事件が起きます。だけど、血なまぐさくはない。昔話はリアルには語らない。世の中で、昔話は残酷だっていう意見がとっても強くなっちゃって、日本は特に強いんですけどね。まったく誤解から始まっています。まったく誤解です。そのなかで一番ひどかったのが、『本当は恐ろしいグリム童話』っていうもの。あれは完全に嘘。僕はグリム童話専門家ですから、はっきり言っときます。完全な嘘です。でっち上げているんです。皆さんの周りにも昔話って残酷だからねという意見がとっても多いと思います、特に学校関係で多いですね。気にする先生方が多いので、言ってあげてください。絶対にリアルには語っていません。もし、皆さんが何か昔話の本を手にとって、さっきの様な場面があり、非常に血なまぐさく語っていたら、その本を作った人の間違いということです。気をつけてください。その本を間違えて作っている。間違いはいっぱいあります。

 はい、残酷のことは、ここまでにして先にいきます。

昔話は、同じ場面は同じ言葉で語る

 さっき聞いていただいた「馬方とやまんば」ですが、同じ言葉が何回も出てきたことに気が付いた?同じ言葉が5回使われています。 これも大事なことですね。昔話は同じ場面は同じ言葉で語る、という文法を持っています。これも、とっても大事なことです。なぜそういう風に語るのかって、これわかりやすいよね、大人だってさ、同じこと2回言われたらわかりやすいじゃない。だから子どもはもっとわかりやすいよね、そういう意味です。

もう知っているものへの安心感

 だけどもっと大事なことは、子どものことを思い出してみてください。子どもは、自分が気に入った毛布があったら、もう、毎晩その毛布がなきゃ寝られないなんて子がいるでしょ。

 それから、このお人形がなければ寝られない。子どもはもう知っているものとまた出会いたがっている、と言えるよね。

 僕はすごく大事だと思います、子どもの成長にとって。子どもがそうやってね、もう知っているお人形、寝るときはいつもこのお人形がいるんで、安心して寝られるわけね。いつも同じ毛布があるから安心して寝られる。そういうふうに、同じものと出会うっていうことはですね、特に子どもの場合大切だよね。子どもの心の安定した成長のために必要だと思います。だから子どもは、自分が気に入った絵本があったら何回でも読んでくれって言うんじゃない?

 あるいは自分が気に入った絵本、何回でも読むってあるじゃない。

 そんな時、読んでほしいと言う限り読んでやってください。あるいは自分が読みたいっていったものを徹底的に読ましてやってください。

 でも時々ね、僕こういう質問受けるんだけれども、お母さんから。うちの子どもは同じ本ばかり読んでいて、ちっとも進歩がないんですよってね。もっと新しい本を読んで知識を増やしてもらいたいと思うって。僕はね、全然問題ないとはっきり言います。外から見てね、進歩してないように見えるだけで、 子どもはその同じものを読みながらですね、ひそかにひそかに、発酵してるんですよ、心が。そうじゃない? お味噌とかお醤油とかさ、発酵って外から見たらわかんないじゃない。でも質が変わっているわけだよ、あの状態なの。子どもはね、形では表さない。

 だけど中で変わっていくんですよ。とっても大事ですから、子どもがもう満足するまで読ましてやってください。あるいは聞かせてやってください。


「昔ばなしと子ども」講演録4

ー くり返しとリズムの昔話 ー

心の安定した成長の大事さ

 よく大人が言うのはね、もっと新しい本を読んで知識を増やして欲しいということ。僕、そんなケチなことを考えないでくださいって言います。子どもの心のね、魂が安定した成長と、知識をちょっと人より早く吸収する事と、どっちが大事ですか、長い人生にとって。心の安定した成長の方が、よっぽど大事ですね。どうぞ、それを守ってやってください。  

 でもね、それは、子どもだけじゃないんだよ。大人だってそうだよ。もう知ってるものとずいぶん出会ってる。やってんじゃない、みんな。というのは年末になったら第九を聞きに行く人がいっぱいいるんじゃないですか。そうでしょ。あれ、第4楽章がどうなるかわかっているんだよ(笑)。あるいは、忠臣蔵を見るんだよね。あれ、結末どうなるか、みんなわかっているんですよ。だけど見るじゃないですか。大人だっておんなじ、それで安心するわけだから。今年も無事に終わりました(笑)、おんなじよ。人間にとって、同じものと出会うということは本当に大事なこと。

  あせらないで、子どもが満足するまで読ませてやってください、あるいは聞かせてやってください、同じもの。さっき僕は冒頭で、昔話は音楽と似ていると言ったけれども、音楽でもそうだよ。同じメロディが2度出てこない音楽は無いよ。何でもいいよ、思い出してごらん。学校の校歌だろうが、ロックだろうがジャズだろうが演歌だろうが、クラシックはもちろん、同じメロディが2度出てこない音楽は無いんですよ。音楽家、作曲家はみんなそれを知ってる。人間が何を求めているか知ってるから、それをやるわけです。同じことです。

 昔話もおんなじ。ですから、どうぞ、子どもには同じものを尊重してあげてください。

白雪姫は三回殺されている

 先に行きますが、昔話はですね、そういう同じ場面を同じ言葉で語るってのはとても大事なんですけど、特に好んでやるのは、3回のくり返しをほとんど同じ言葉で語る、ということです。昔話は3回のくり返しをほとんど同じ言葉で語る。  

 白雪姫は3回殺されているんですが、ご存じでしょうか。自分の知ってる白雪姫が、りんごで殺されているだけだと思ってる方は、ディズニーにだまされています(笑)。どうぞ、オリジナルを読んでください。

 もう一つ、ついでに聞くけど、シンデレラがガラスの靴を置いてきたのは3回目の舞踏会の帰りだったの知ってる?(会場:知らない……)知らない人が多いんだ。

 1回目のガラスの靴だって、それもディズニーにだまされている(笑)。どうぞ、だまされないでください。「シンデレラ」は大事だから、あとで取り上げます。

 「白雪姫」にはね、こんな話があるんですよ。女王は白雪姫を殺そうと思うでしょ。で、狩人に渡すよね。でも狩人は殺さないで逃がすという。で、白雪姫は七人のこびとの家でかくまわれている。女王は殺したつもりだったけど、鏡を見たらまだ生きているでしょ。

 それがわかって殺してやろうと思って、一度目は行商人に変装して、きれいなひもを作って白雪姫に売りつけます。白雪姫がそのひもを買うと、じゃああんたの胸を飾ってあげようといって、胸をぎゅんと締めるんですね。で、白雪姫はばったり倒れる。それを見て、女王は帰っちゃいました。

 夕方こびとたちが山の仕事から戻ってきてみたら白雪姫が倒れていたので、体中を探ってみたら、胸がひもで締められていた。そのひもを切ってやったら、パーッと生き返ったというんです。窒息はしてなかったっていう話。それで、こびとたちは言うんですね。その行商人はお前の悪い継母に違いないから、もう買っちゃいけない。

 だけど、翌日、7人みんな行っちゃったから、惜しかったね。3人ぐらい残っていたらよかったんだね(笑)。でも、みんな行かなきゃだめなんです。だから、白雪姫はひとりになったでしょ。ひとり、孤立性。そこへ二度目、女王がひとりで来ます。1対1、さっきの文法どおり。

 二度目は毒のくしを作ってですね、きれいなくしなのね。で、白雪姫は買っちゃいけないって言われていたのに、きれいなくしを見せられると、つい買っちゃったんだよね。昔から衝動買いってあったんだね(笑)。白雪姫がくしを買うと、じゃあ、あんたの髪をすいてやるよといって女王は白雪姫の髪の毛にくしをたてました。すると、白雪姫はばったり倒れる。毒が効いたみたいにね。それを見て女王は帰っちゃいました。

 こびとたちが戻ってきたら、また白雪姫が倒れている。見たら、くしがささっていたからくしを抜いてやったら、パーッと生き返った。毒は効いてなかったという話。そこで、こびとたちはもっと厳しく言うんですね。もう買っちゃいけないって、厳しく言うんです。厳しく言いながらね、翌日7人みんな行っちゃうんですね(笑)。こびとたちは、反省という言葉を知らない(笑)。みんな行っちゃう。だから、またひとりになる。1対1、この文法はすごく強い。1対1。

 3回目は毒のりんご。赤いところにだけ毒が入っていて、それを食べたら白雪姫は倒れました。それを見て、女王が帰っちゃいました。夕方こびとたちが戻ってきたら、また白雪姫が倒れていた。体中を探ったけれども、何も見つかりません。とうとう生き返りませんでした。毒が体の中に入っちゃっているからね。だけど、その死に顔がまるで生きているように美しいので、こびとたちは彼女をあの黒い土の中に埋める気にはならない、って書いてあります。で、ガラスの棺に入れて、山の上に安置している。7人が交代で見張りをしながら泣いていました。

 幾日も経ちました。ある日王子が通りかかって、その美しい死に顔を見て愛を感じて、こびとたちから遺体をもらい受けます。ガラスの棺ごともらい受けて、召使いがその棺をかついで山を下って行きました。下って行く途中の木の切り株に召使が足を引っかけて、棺はがたんと揺れた。揺れたとたんに、白雪姫ののどに引っかかっていた毒のりんごがぽろっとはずれちゃった。そうしたら生き返ったんです。これがオリジナルです。ぜひ読んでみてください。ぜひじゃない、必ず読んでみてください。

本物を伝える大人の責任

 ディズニーはね、おそらくのどからぽろっとはずれて白雪姫が生き返ったっていうのが理解できなかったんだね。あまりにも馬鹿らしいと思ったんだ。で、知ってるでしょ、王子のキスによって生き返ったって。ロマンティックにしたつもりかも知れないけど、陳腐じゃないですか。誰だって思いつくね、そんなの。あの、のどからりんごがはずれて生き返ったっていうのは、はるかに昔話的なんです。  

 これとおんなじ語り方がですね、日本にもあるんです。日本だけじゃない、昔話にあるんです。りんごじゃないけどね。これをやりだすと、30分かかっちゃうんです。理論的に説明できることなんですけれどね。そのほうがはるかに昔話的だったんです。それをディズニーは理解できなかった。それで変えちゃった。

 どうぞ皆さん、あのグリムの「白雪姫」、全訳で必ず読んでください。子どものころ、ディズニーの映画を見て楽しんだ。いいよ。それは子どもだからいいんです。だけど、今みなさんはもう大人をやっているでしょ。しかも親をやっているんじゃないですか。子どもに対する責任だぜ、これは。ぼくは、はっきり言うよ、まじめに言うよ、これは。だまされっぱなしにしないでください、自分を。で、今、その3回のことを説明したんだけど、これを図解するとこうなるんだよね。(ホワイトボードに図を描かれる)1度目、ひもで殺されました。2度目、くしで殺されました。3度目、りんごで殺されました。で、生き返ったので、王子との結婚。

 りんごを食べて死ぬまでは、グリムは同じ言葉で語っています。読んでみてください、全訳で。実にほとんど同じ言葉で書いてあります。 このあと王子が現れてからは別な事件ですから、言葉は変わるんです。要するに、この3回目は一番長くて、一番重要です。これが何かっていうと、リズムなんですよ。こういうリズム、タン、タン、タン!っていうリズム。いち、に、さん!ていう、さんが一番強い(実際に手をたたく)こういうリズム。

 そういうリズムなんです。ですから、これを壊すことは出来ないんですよ。これ(ひもの部分)を無しにしちゃったら、リズム無しでしょ。女の子が毒のりんごで殺されましたという新聞記事になるでしょ(笑)。物語だから、リズムが無いとだめなんです。

 すぐ気が付いたことなんだけれども、これって、陸上競技の3段跳びと同じリズムだよね。そうじゃない?重ねるとほとんどおんなじだよ。ホップ、ステップ、そしてジャンプ。ジャンプで勝負するでしょ。3回目が一番重要だから、勝負するんだから、一番長いんです。


「昔ばなしと子ども」講演録5

ー 成長する姿を語る昔話 ー

音楽のリズムと昔ばなしの文法

それからここまで来ると、僕の中では音楽と結びついたんだけれども、音楽にも同じ言葉があるんです。音楽は、幾何学的に、きちんと等間隔でやりますけれどね。

 要は、2小節、2小節、4小節、こういう分け方です。このことを「バーフォーム」って言います。「バー」って小節を区切る縦の棒のことです。このごろバーコードなんて言うじゃない。棒で値段を書いてある。「バーフォーム」これがね、ヨーロッパの中世に吟遊詩人といわれる人たちがいたんですね。その人たちがとても好んだメロディの形で、あの、ヨーロッパの音楽史の中では、それが受け継がれましてね。特にドイツの古典派と言われる人たちが好みます。ハイドン、モーツァルト、ベートーベン。もちろん、ブラームス、シューベルトまでいきますよね。とても、好まれるんです。それとおんなじなんですよ。

 例えばですね、シューベルトの子守歌っていったら、たぶん皆さん知ってると思うんだな。「ね~むれ~、ね~むれ~、母の~む~ね~~に」こういう風にね。そうすると、「ねむれ~」っていうメロディ、同じメロディを2度さげて、「ね~むれ~」こう繰り返します。今度はちょっと変わって、「母の~む~ね~に」ってこういう風にね。この時どこを強く歌うかって言うと、この辺りを一番強く歌います、この辺り(4小節の初め)、一番クライマックスです。音楽やる方いっぱいいると思うんで、きちんと思い出してください。これもう、器楽、声楽おんなじです。ここをふくらませる。そうすると、白雪姫と、陸上競技の3段跳びと、シューベルトの子守歌、おんなじメロディなんです。

 おんなじ構図。僕が言いたいのは、シューベルトの子守歌歌う人がね、ここが大事なんですね、じゃ、ここカットしますって誰も言わないんじゃないか、そうでしょ。3段跳びの選手がね、ここ一番大事なんですね、じゃ、あたしこれカットしますって、誰も言わないんじゃない。だけども、白雪姫に関しては、グリム童話に関してはリンゴだけ残して、これおんなしにしちゃってる。不可能ですよ、これ、そうでしょ。だから、騙されてるって言うんです。だから、ダメですよ、不可能なんです。新聞記事ならいいよ、さっき言ったように。殺人事件ならいいよ。物語は、そらダメです。そういう風に、昔話ってのはですね、ばかっぱなしだけども、うそのはなしだけども、きちっと文法があります。

 だから、その文法を守った本を選んでください、っていうことを、僕は言いたいんであります。

昔話は道徳教訓の話?

 で、その勉強のために昔話大学ってものを20年前からやってるんですけれどね。

 あの、ずっと話を、こうやってると、きりがないんで、このあたりで止めますが、どうぞみなさん、もしグループでもいいし、一人でもいいけれども、勉強してみてください。入門としていちばんいいのはこれです。『こんにちは昔話です』っていう本を書きました。いちばんわかりやすいです。さっき聞いていただいた話を例にしてですね、もうちょっと詳しく説明してます。どうぞ、読んでみてください。

 それから、今お話ししたその昔話の文法をきちんと守った再話、というのを僕たち、僕は昔話大学でやっているんですけど、その成果がですね、このシリーズで発表してます。「子どもに贈る昔話」っていうシリーズで、17ぐらいまで出ているのかな。これもうちょっと厚いのがあるんですけれどもね、この『鬼とあんころもち』というのはですね、特に子ども向き、幼いころ、幼稚園、保育園、一年生くらいまでに使えるような話を選んだんです。案外ないでしょ。知ってる?日本の昔話って、年齢高いよね。3年、4年より上でないとわからない。幼い子向きに選びました。もし良かったら使ってください。それから、これからお話しするメッセージの問題。これは、先にお話ししました『ろばの子』って本、この中に詳しくいろんな例が書いてあります。今日はいくつかお話ししようと思うんですけどね。

 メッセージの方に移りますね。昔話は、よくね、道徳教訓の話だっていうふうに言われるんですよ。ぼくなんか、昔話の研究所ですって言うと、あ~って、教訓話ね、なんて言われちゃうんですけど。それから、日本ではですね、「花咲かじい」や「舌切り雀」とか、ああいうのが有名でしょ。なもんだから、教訓話だと思われてる。あれは、江戸時代からですね。特に教訓がいいというんで強調されて、赤本、黒本になったり、教科書に載ったり絵本になったりするんで、有名なだけです。決して日本の昔話の代表ではありません。間違えないでください。ほとんど人為的に有名にされたんです。ああいうのは、はじめはじいさん、みんないいじいさんでしょ。あとのじいさん、みんな悪いじいさんでしょ。変わらないじゃない。いいのは最後までいいよね。悪いのは最後まで悪いの。昔話って、変わるものです。昔話は、若者や子どもが主人公になってるわけですね。

 変わります。変わっていきます。それが、昔話なんですよね。いわゆる成長する姿を語るんですよ。あるいは全然成長してないんです、まあ、じいちゃんだから、もう成長しようがないんだけれども。で、僕は、ですからこの成長する話、子どもがね、子どもや若者の話に注目します。で、そういうふうに注目するとですね、その、納得できる話がたくさんあるんですよね。今日は、いくつか言っていきたいと思います。

《悪知恵も知恵のうち・三年寝太郎》

 まず、寝太郎かな。「三年寝太郎」っつったら、きっと皆さん知ってるだろうと思うんだけど。僕が聞いて、僕は福島で調査してる時に聞いたんです。

 ある村に一人の若者がいた。ちっとも働かないで寝てばかりいるもんだから、みんなからばかにされて、あいつは役立たずだ、寝太郎だってあだ名された。そうやって何年も過ぎた。ある日のこと、むっくり起き上がって、街へ出かけて行った。そして、鳩と提灯を買って帰ってきた。で、夜になるとその鳩と提灯を持って、隣の長者の家の松の木によじ登った。それで、大声で叫んだんですね。「長者よ、よく聞け。我こそは鎮守の森の神様だ。今夜は、お前のうちの家運を予言しに来た」って言うんですね。で、長者は夜中に大きな声が聞こえたもんで、何事かと思って、縁側に出てみたら、真っ暗闇で声だけ聞こえました。「お前の一人娘に、隣の寝太郎を婿に取らなければ、お前の家の家運はたちまち傾くであろう。よいか、わかったか。では、余は鎮守の森に帰るぞ」と言って、寝太郎は提灯に火をつけて、鳩の脚に結び付けて、パッと放した。では帰るぞと言ったとたんに、火がシューっと鎮守の森の方に飛んで行ったもんだから、長者はすっかり本気にしてしまった。で、翌朝起きると一番に寝太郎のとこに行ったんですね。寝太郎、まだ寝てたのを、たたき起こしてね。で、鎮守の神様のご命令だ、ぜひうちの一人娘の婿になってくれってことで、じゃあしゃあねえ、なってやるかっていって、寝太郎が長者の婿になったっちゅう話ですがね。まじめに聞かないでくださいよ。(笑)話しにくいよ。             

 ほんと、とんでもない話よね、これ。常識的に言えば悪い話をしているわけだから、学校じゃきっとだめでしょう。排斥されるでしょう。でもね、あの、昔話ってね意外に思うかもしれないけど、あんまりね道徳気にしてません。それよりも、強く生きろ、このメッセージなんですよ。あんまり善悪気にしてないよ、本当は。嘘つきで幸せになる話なんて、いっくらでもある。世界中だよ、日本だけじゃなく。強く生きろ、この方がよっぽど大事なメッセージなんです。だからね、あの、寝太郎の悪知恵は、悪知恵も知恵の内と考えてください。悪知恵の悪を「  」(カッコ)に入れてみてください。そうすると、いいメッセージを読み取れると思うんだ。

 こう言っていいんじゃないか、今の話をさ。あの寝太郎は、寝ていたのは若いときだけだった、途中で起きたんだ。途中で知恵がつく。一生寝てないよね。そこんとこです。一生寝てない。若いときに、寝てた。でも途中で知恵を出して生きてった、で、幸せを獲得した。……っていうふうに考えたら、多くの方の人生、そういうもんじゃないですか、なんて失礼だけど。皆さん、どうぞ学校時代のこと思い出してくんない、正直に。

 授業、教室に入ると眠くなる、つい居眠りが出る、みんなやってんじゃないか。うちへ帰って宿題やろうと思ったら、つい眠りが出ちゃう。親の目をかすめてちょっと悪いことをしたとかね、先生の目を盗んで学校抜け出して裏山に逃げてったとか、いろいろやってるよ、若いときは。だけど、そういうやつが30歳になって40歳になってもね、そんなことやってるかっていうと、やらないんだよ。もう、普通の社会人になってるわけよ、家庭人とか。そうでしょ。


「昔ばなしと子ども」講演録6

ー 子どもの変化を見守る昔話 ー

寝太郎理論 (生きる力の大切さ)

 今日集まった方は、もう起きちゃった人だと思うんだ、ほとんど。人間て面白いもんだよね。自分が起きちゃうとね、自分がかつて寝てたことを忘れるのね。で、すまーした顔して子どもにはしっかりやりなさいなんて、言ってるわけ。特に親になったら忘れるね。そして学校の先生になったらもっと忘れるんだ。だから親で先生だったら百パーセント忘れるんだ。ぼくは、自分が親で先生だから、もう百パーセント忘れてると思う。認めてますけどね。

 三十歳・四十歳になったらみんな起きてるでしょ。普通の社会人になるんだよ。そこが大事なんじゃないの。僕は長いこと大学の教師をやってたもんですからね、もう勉強しないやつなんていっぱいいたよ。麻雀ばっかりやってたとかね、バンドばっかりやってたとかね、女の子と何だかきれいに着飾って遊んでたりとか、いっぱいいるよ。

  だけど、この頃ね、卒業後二十年とか三十年とかで呼ばれていくとね、みんなもうまじめな顔してね、いっぱい名刺くれるんですよ。どっかの県立病院局長だとか。そんときすごく嬉しいよね。だから言ってやんの、「おまえ、どっかで起きたんだな」。酒なんか入るとね、勢いに乗って言うんですけどね、「おまえらよかったなぁ、若いときにエネルギー節約しといて」なんて。大事なことは、社会に出て、ちゃんとやることだよ。そうじゃない?学校時代の成績がちょっといいか悪いかなんて問題じゃないんですよ。それよりも、生きる力の方が大事だ。僕の周囲には、僕の寝太郎理論にぴったり合う男女がたくさんいます。今もう、みんな四十歳を越えちゃってるからね、もう立派なおじさんおばさんになってますけどね。心配ないよ。そりゃ皆さんの年齢だと、高校生の子どもとかね、いろいろだと思うんだ。寝てばっかりいると思うんだけど、大丈夫です。

 ちゃんと考えてんだから。ほっといて大丈夫、必ず起きる。親がプレッシャーかけなければ起きます。親がいろいろ期待してプレッシャーかけると、その期待に応えるんだよね、子どもはね。で、また寝てるわけよ。ほっといてやるとね、自然に起きる。そういうもんです。

「シンデレラ」と「灰かぶり」

 もうひとつ言うとね、シンデレラの話。さっきちょっと言ったけど、シンデレラがガラスの靴を置いてきたのは、グリム童話によると三回目の舞踏会の帰りなのね。で、僕はその三回目ってとこに意味があるっていうふうに思っているもんで、それを聞いてもらいたいんだよね。ところが、ディズニーは一回にしちゃいました。そうすると、今からお話しするメッセージは完全に消えます。グリム童話の二十一番「灰かぶり」を必ず読んでください。とっても見事な話です。

 一回目、二回目、三回目。グリムはこの一回目、二回目、三回目をほとんど同じように書いてます。で、三回目の後半が違うんです。こんな話なんです。

グリム童話二十一番「灰かぶり」

 ある女の子が、母親に死なれて継母に育てられてるんですね。そして、その継母にも実の娘がふたりいるのね。この継母とふたりの娘はきれいに着飾って遊んでばかりいるんです。シンデレラばかり汚い服装させられて、夜寝るときには灰の中で寝させられるもんで「灰かぶり」というあだ名がつく。それを英語で言うと「シンデレラ」、ドイツ語で「アッシェンプッテル」、フランス語でいうと「サンドリオン」です。

 ある日、宮殿で、王子が花嫁を選ぶための舞踏会が開かれます。継母と実の娘ふたりは、きれいに着飾って出かけようとするんですね。シンデレラも連れていってくれって言うんだけど、継母に「あんたにはきれいな服がないじゃないか」と言われて、置いていかれちゃうんですね。でも彼女はどうしても行きたかった。みんなが出かけた後、与えられた課題を早く片付けてですね、実の母のお墓へ行きます。するとそこにハシバミの木が生えていて、そのハシバミの木に白い鳥が飛んできて、きれいな服を落としてくれるんですね。彼女はその服を着ると、見違えるように美しいお姫様になります。その美しいお姫様の姿になったとき、シンデレラは宮殿に行きます。宮殿では王子がもうすっかり彼女に首ったけになってしまって、他の誰とも踊らせようとしない。この人は僕のパートナーだと、すぐにプロポーズしてるんです。だけど、何だか知らないけどある時間が来ると、王子の腕からするっと抜けて帰ってきちゃうのね。そしてまた汚い服に着替えて、灰の中に寝てるんです。継母と実の娘ふたりは夜遅く帰ってきて、「今日の舞踏会ではどっかの見知らぬ美しいお姫様が現れて、王子様はその彼女に首ったけだったのよ」って話をするんです。ところが、彼女はまるで他人ごとの様に、「あ、そう」って聞き流してます。

 二回目、また置いていかれます。また実の母のお墓へ。すると白い鳥が前よりもっと美しい服を落としてくれた。彼女はそれを着ると前よりもっと美しいお姫様になって宮殿へ行きますね。宮殿では、王子がこのあいだ逃げられたお姫様がまた現れて、今度こそどこの誰か確かめようとするけれど、また逃げられちゃうんですね。間抜けな王子っちゃあ、間抜けな王子。灰かぶりは逃げ帰って、また汚い服に着替えます。

 三回目、また置いてかれます。また実の母のお墓へ。すると白い鳥が飛んできて、もっと美しい服を落としてくれた。彼女はそれを着て前よりもっと美しいお姫様になって宮殿へ行く。宮殿では、王子が、こないだ逃げられたお姫様がまた現れたので、今度こそどこの誰だか確かめようと思って、王子は階段にタールを塗っておいたんですね。それで、シンデレラは逃げ帰るときに、そのタールに左靴を取られて、置いてきちゃったんです。王子はその残された左靴をたよりにして、その靴に足が合う子を捜して、結局は、シンデレラを見つけて結婚したって言う、こういう話です。ぜひ、ぜひじゃない、必ず読んでください。これはもう、子どもに対する責任だと思う。これが、本当のシンデレラの話です。それでね、とっても整ってるんですよ。だから、語り口の説明としちゃ、もうそれでやめていいの。

思春期の心の動き

 だけど、僕がどうしても解らなかったのは、シンデレラはね、考えてみれば最後には結局王子様のプロポーズで結婚してんだよな。だったらば、一回目のプロポーズでいっちゃえばいいじゃないですか。だったら、話は短くて済むしね。覚えるのも楽だしね。だけど帰ってきちゃう。そして汚い服に着替えるわけ。汚い服に着替えて私はもう、労働階級がいいわっていうと、そうでもないんだ。またきれいな服であっちへ行っちゃう。王子が首ったけになると、また逃げて帰ってくる。あの行ったり来たりは、なんだったんだ。これ難しいよな。何年も考えてました。ほんとに何年も考えてたんです。そんなこと書いてある本なんかないからね。世界中にないですからね。でもある時はっと気が付いた。これも、思春期の子どもの心の動き、そして行動を語ってるんだってことに気が付いたわけ。キーワードは、あの、白い鳥なんだよね。実の母のお墓に現れた白い鳥は何者か、わかったのね。白い鳥ってのはですね、文化人類学とか心理学の方ではわかっていた事らしいんだけれども、ほとんど、どこの民族でも、死者の魂の化身と考えられているんです。

 日本ではね、人が亡くなると、しばらくの間その魂がその家の周りにいるっていうじゃない。そして、四十九日目に本当に死の国にいくんだよね。だから四十九日があるわけだ。僕、ドイツに長くいたんですけど、ドイツでも同じでした。四十九日とは言わなかったけども、人が亡くなると、しばらく、その魂は住まいの周りにいるんですね。おなじなんです。そうするとだね、いつも空を飛んでいるから、鳥と同一。しかも、白い鳥なの。白って何か神聖な感じがあるじゃない。魔法的な何かね。ドイツでも、ヨーロッパでも白い鳥です。日本は、完全にそうです。そうするとだね、実はあのお墓に現れた白い鳥は、間違いなく実の母の魂の化身なんだ……でしょ。その、魂の化身がくれた服を着た彼女の姿は、彼女の本当の姿と言えるんじゃないか? だって、実の母がくれたんだから、本当の姿と言えるわけ。それが、美しかったんです。彼女は、普段はダーティでした。灰かぶりでした。だけど本当は美しかったんだっていう、この二重性ね。本当は美しかったの、そういう物語。まじめな物語なんだよ。

 ディズニーの絵本ではね、なんか魔法の杖でさわられたらパーンと美しくなった、そんなまやかしの美しさじゃない。まったく逆だったの。彼女は普段は汚かったんです。 でも、本当の姿は美しかったんです、こういう話よ。まじめな話よ。そう考えるとね、これはもう若者の思春期の心の動き、そして行動を語っているということはわかるんじゃない、想像がつくんじゃない。

 わからないのは、シンデレラの美しい姿を王子が認めてね、首ったけになったのに、シンデレラは帰ってきちゃうよね。あれは、なぜだったのか、ここは説明が一切ないんだね。グリム童話の中にもね、一切ないんです。


「昔ばなしと子ども」講演録7

ー 振り子のメッセージがある昔話 ー

振れる子ども

 ぼくは長いこと教師していたようなもんですから、まあいろんな学生がいました。 男にしろ女にしろ、何か問題があった場合ね、思い余って親が相談に来ることがずいぶんあったんですよ。で、ぼくが学類長やってるときには、お会いしました。そういう子どもの問題で、学校へ相談にくるのは、たいてい母親が多いわけだよな。で、よくね、お母さん方が言ってたのは、子どもがね、いつも荒れてて、でも、ちょっと良くなってくる。もうだまされたくない、もう裏切らないでもらいたいと思ってるんですよ、って切々とぼくに訴えるわけよ。ぼくは、つめたいようだけど、それは、はかない夢ですよ、って言うわけ。なぜかと言うと、息子、娘はね、お母さんをだまそうと思っているわけじゃないから。そうじゃなくて、あれは振り子が振れてるみたいに、行かざるを得ないんだと思う。振り子だと思って……でも振り子だから、行ったっきりということはない。戻ってくるから、それまで待っててやってください、という言い方をぼくはしました。

大事なのは友だち、そして先生

 ぼくが勤めてた筑波大学は、学校カウンセリングの有名な教授が何人もいるもんだから、学生相談室ってとても盛んなんですよ。何か問題があると、みんなそこに渡してしまう。 ぼくは自分が学類長の時には、専門家に渡さず、ぼくのところによこすように言いました。ほんとにつらかったけど、きつかったけども、やりました。なぜかっていうとですね、そういう時にね、なぜ行ったり来たりするのかというのをね、分析しようとするわけね、カウンセリングっていうのは。分析するために、成育歴を全部聞くんですよ。成育歴って、18年か19年生きていればね、なんか親との関係でいろいろありますよ。例えば、「中学3年の時にお父さんに言われたその一言に君は引っかかっているんだよね。それから脱出しなきゃだめだよ」なんて言われるわけ。すると今度は、それから脱出することにまた何年もかかっちゃうんです。だから、アリジゴクってぼくは言ったんだけれどもね、ますます悪くなる。 だからぼくは、そういう方法をとらなかった。そうじゃなくって、ぼくはもう信念として持ってんだけど、大事なのは友だち、そして直接の先生、そのふたつだと。私淑するって言葉知ってる? 学生が、何となくあの先生いいなぁと思う。先生の方

は気がつかないんだよ。だけど学生の方からあの先生いいなぁと思っているっていう感じね。君の好きな先生だれ、だれが一番好き、そのシンパシーがあるっていうのを聞いて、それで、その先生にね、忙しいだろうけれど、しばらく付き合ってくれと。友だちもね、まぁ何人かはいるわけだから、3~4人に声をかけて、付き合ってくれというふうにね。付き合うというのはどういう意味かというと、勉強するときに一緒に勉強するとかね、飲み会の時には呼んでやるとかね。要するに一人にしない。あるいは、あの……代返を手伝ってやるとか。わかる? 代返って。身に覚えがある人いっぱいいるんじゃないかな。必要があればやったらいいんですよ。ゲームだから。まあ、カンニングまでは言わなかったけれどもね、そういうものに付き合う。そうするとね、救われるんです。溶けてくるんです。しかし、それを分析して……というとね、益々落ちるんだ。


時間が来ればおさまる振れ

 あれは、振り子が振れてんだから、分析の対象じゃないんですよ。振り子が振れてるだけのこと。だから、時間かけりゃおさまっていくんです、振り子だから。みんなおさまっていきます。 そうやってぼくが救った7人中、6人が卒業しました。ある子なんてね、リストカット3回までいっちゃってね。女の子。浅草から来てたけども、もうダメだと思ったの、ほんとにいつか死ぬと思って。ところが、卒業2年遅れただけだよ。遅れるのはいいんですよ。言っとくけど卒業は1年2年遅れるなんて、問題じゃないですよ。ちゃんと卒業しちゃえばいいんです。ある2月にね、先生、友だちとモスクワ卒業旅行やってますって、モスクワからハガキが来てね。嬉しかったねぇぼくは……。完璧に、回復したわけですよね。 そうかと思ったら、こないだ電車の中で、つり革にぶら下がってたら、隣の若い女の人がチロチロチロチロこっち見るんで、感じ悪いなぁこいつと思ってたら、そのうちにその人が真正面にぼくの方を見て、「あの、小澤先生でしょうか」って言うから、そうですよと言ったら、私は……と名前言ったわけ。もう、うんと苦しめられた学生だから、名前忘れないのよね、20年経っても。今どうしてんのと聞いたら、コンサルタント会社で勤めてますって言うから、良かった~と。救われてんですよ。だいじょぶですよ、振れてるのはね。振っといたらいいんですよ、時間が来ればおさまる。。

生きる力を養う反抗期

 でも、おさまらなかった、うまくいかなかった、たった一人いるんですけれどね。 それは、静岡から来た女子学生で入ったときに成績とても良かったの。卒業の限度ってあるじゃない、延長しても再延長戦何回までってあるよね。最後の年にぼくがちょうど学類長だったとき、ぼくは学類長ですから、卒業させたいわけね。それで、単位取らなかったらどうしようもないんだから、ぼくの授業に登録しなさい、興味があろうがなかろうが、構わない。それで授業にとにかく出てこいと。寝ててもいいから座ってろって。何回か来たんだけど、来られないんだよね。朝電話かけてきて「先生やっぱり行かれません」。 ぼく2回行ったよ、彼女のアパートへ。そしたらね、かわいそうだぜ。昼間なのにカーテン降ろしてね、一人で、こたつにあたってじーっとこうやってんだよね。もう、その姿見た時、かわいそうでかわいそうでかわいそうで、しょうがなかった。もう年は23ぐらいになってるわけだよ。23、4かね、卒業遅れてるから。この年になってこんなに落ち込むんだったら、なんで中学とか高校時代に暴れまわってね、親に反抗して、自分の生きる力を養わなかったんだろうと、ぼくは本当に思った。わかる? 反抗期ってあるんですよ。中学、高校、そん時にやればよかったんだよ。それで、生きる力をつけたら良かったのに。ほんとにそう思った。最後にもうどうしようもなくなって、ご両親に来ていただいたんですね、静岡から。遠かったんだけれども。お父さんは高等学校の校長先生、お母さんは私立中学の教頭先生、典型的な教育家族。あの、ぼくも教師ですから、よくわかるんですけれどね。教師として立派であることは、もちろん必要だよ。だけどうちへ帰ってきてまで教師で立派じゃダメなんだよ。うちへ帰ってきたら、もう野暮な父ちゃんでいいんですよ。野暮な母ちゃんでいいんだよ、何もわかんない母ちゃんでいいんですよ。家庭でもりっぱだったんだろうね。だからつぶれちゃう、だから中学、高校時代は成績良かった、家庭でもいい子だった。で、ストレートで筑波大学入ってきた。でも、最後に落っこっちゃった。結局、そうなった。この子のことは、思い出しても、ほんとに思い出すだけで、話すだけで泣きそうになっちゃうんだけども……。あのね、子どもが揺れるときはね、ほんともう揺らしてやったらいいんです。落ち着く、いつかは落ち着くから、それ。揺れる時期って必ずあるんだから。 あれ、「寝太郎」やってる時期とかね、「眠り姫」やってる時期って必ずあるんだ。ほっといてやったらいいんですね。あとで必ず、回復しますよ、それは。起きますよ。


「昔ばなしと子ども」講演録8

ー 「形式意志」と昔話 ー

もみの木と「形式意志」

 ぼく、息子が二人いるんですが、もう大人やってます。親やってますけどね。彼らが子どもの頃、クリスマスツリーを作ってやろうと思って、もみの木の苗を買ってきたのね。で、庭に植えたんですね。ちょうど僕の勉強机の真正面だったもんだから、毎日見てたわけ。

 もみの木って成長が早くてね、とってもきれいな形になったんですね。こういう、きれいな形<ホワイトボードに、もみの木の絵を描く>になったもんで、みんな喜んで、12月になったらクリスマスツリー作れるなぁ、と思って楽しみにしてたわけ。秋に植木屋さんを入れたらですね、植木屋さんの言うには、「もみの木は成長が早すぎて、根っこがまだちゃんとしてないから、風が吹いたら倒れちゃいますよ」とぴしゃっと、ここを横に切られちゃった。<もみの木の絵の真ん中に横線を入れ、上半分を消す>

 ところがね、何週間か経ったころ、ハッと気がついたら、ぼくから見て左側の枝がちょっと立ってきたんだよ。はじめ、わかんなかったんだよ。で、どんどんどんどん立ってきて、結局そのあと6週間ぐらいだったかなぁ、2ヶ月だったかなぁ、完全に元に戻ったんです。

 こんな感じになったんです。<もみの木の再生した形を描く>

 嘘だと思ったらやってごらん。完全に戻ったんですよ。ほんとにぼくはね、そんとき、衝撃受けました。もみの木にも意志があるってこと。「おれはこういう形じゃないよ。おれは本当は、こういう形なんだよ」と。そう考えるとね、思い出したんだけど、哲学の方では「形式意志」という言葉があるんですよ。

 生きているものと芸術作品は、自分がどういう形でありたいという意志を持っている。こういう理屈です。ぼくは、もちろん知ってたんです、言葉は。だけど、実際に目の前で見せられたのは、この時初めてだったわけ。もみの木に、「形式意志」があるってこと。内的な意識がある。

子どもたちの持つ「形式意志」

 それから何年か経って、生物学やっている人に久しぶりに会った時に、この話をしたら笑われちゃって。おまえ、それはDNAだって言われちゃって……。そりゃそうだよ。そりゃDNAだよ。だけど僕は文学やってる人間だから、そういう言葉は使わない。そういうんじゃなくて、生きているものは「形式意志」を持っている。それでね、ほんとにこのことは忘れられないんです。僕は、こう思う。もみの木でさえも、自分はこういうきれいな形でありたい、普通の形でありたいという意志を持っているんだから、いわんや、人間の子どもたちも、みんな、そういう意志を持ってるんじゃないかってことです。これを皆さんに考えてもらいたいと。

 子どもたちも、大人から見たらね、きっといろいろ足りないところがあるだろう。怠けてるとか、遅いとかさ、片付けが悪いとかいろいろあるでしょ。だけど、子ども自身としては、わたしはこういう人間でありたいと思ってんじゃないか。どうだろうか。世の中に出ても、大人になっても、どっか狭い場所、日本に生きる、世界の中で生きる狭い場所、家庭を担っていく。そして、何か職業が出来て生きていける。普通の人間として生きていける。そういうものでありたいと思ってんじゃないか。どうだろうか。ぼくはそう思う。

 もみの木でさえも、そうやって「形式意志」があるんだから、いわんや、人間に「形式意志」が無いはずがないよ。障害がある子はどうするんだと言うかもしれないけど、でも、障害があっても普通にいこうと思ってるんですよ。だから生きていけるわけでしょ。

大切な3つの自覚

 ぼくは、これがとっても大事なヒントだと思ってんのね。特に、大人が子どもと接するときのね。大人の方から見たら、足りないとこいっぱいあるんだよ。あとかたづけが出来ないとかさ、朝遅いとか、いろいろあるでしょ。だけど子ども自身は、そういういろいろ欠点はあるけど、自分は世の中で普通に人間として生きたい、生きていきたいって、みんな思ってんじゃないか。どうだろうか。それが大事だと思うんだよね。それを守ってやるということだね。そうじゃなくて、大人の方がね、考えを押し付けて、こうであるべきだって言いますけどね。こうあるべきだっていうのを押し付けていくと、子どもがつぶれていくんだよね。

 ぼくたち大人が子どもにしてやれることは何かって言ったら、つきつめていくとね、子どもが思春期の間に、まぁ18才~19才ぐらいまでかな、それまでの間に、3つの自覚が持てたらいいなと思うわけ。

 ひとつは、自分が愛されているという自覚ね。

 そして、自分が信頼されているという自覚ね。

 そして、自分の価値が認められているという自覚ね。

 自分は愛されているんだ、自分は信頼されているんだ、自分の価値は認められているんだ、ということが自覚できたら、あとは、もみの木でやっていくんじゃないか。もみの木のように、自分は普通の形で生きたいという意志を持っているのだから、それに任せたらいいと、ぼくは思っている。

なまの声は育ちの栄養

 どうも、ぼくは今、日本を見ててですね、その、親からの規制や、あるいは学校からの規制、それが強すぎると思う。こうあるべきだみたいなの、とても強いように思うんだね。

 戦争のあと、敗戦のあとですね、ぼく敗戦の時、中学でしたから、その時のこと、全部よーく覚えてるんです。自分でものを考えるとか、自立するような教育法ってものが大事だと、ずーっとやってきたんですよ。それが今否定されつつあるんだよね。そうやって、勝手なことを教育したからいけないんだというような考えが、とっても強くなってきた。ぼくは、戦後の教育を否定しようとしているなと思ってる。特に憲法ね。

 それともう一つ大事なのは、文明が発達したでしょ。たとえばスマホみたいな、立派な、便利なもの出来ちゃってるよね。それらからの情報で子どもが規制されるって、とっても強いのね。テレビももちろんそうなんですが。

 ぼくは昔ばなし研究者ですから、その昔話を実際に田舎で聞いてきた経験がいちばんのもとに、ぼくにはあるんです。その経験から言うとですね、子どもたちが育っていくのに大事なことは、まず周りにいる大人のなまの声。親とかね、まわりのおっちゃん、おばちゃんとかね、おじいちゃん、おばあちゃんとか、そういうなまの声。このごろ、なまの声じゃないものがとってもたくさん、子どもの耳に入っているよね。スマホをはじめいろんなもの、テレビもあるし、CDもあるものね。それは便利だからいいように思われているけれども、子どもが育つうえで栄養になるのは何かといったら、皆さんのなまの声。


「昔ばなしと子ども」講演録9

ー 平和な社会と昔話 ー(最終話)

昔話は一方的じゃありません

 皆さんのなまの声、どう使うかなんですけど、ぼくはね、昔話が伝承されてきた形は、ほんとに大事だと思ってるんです。昔話の語り手はですね、合いの手を打ってくれないと語れないんですよ。そういう調査を始めたころ新潟へ行って、黙ってまじめに聞いてたら叱られたのを覚えている。「合いの手を打って」というので、ぼくは「ふーん、ふーん」て聞いてたら、また叱られてね。「ふーん、ふーん」とは、この辺りではね、相手の意見をばかにしたときに使うと言われちゃった。じゃ、なんて言うのかと聞くと、「そうさ」って言うって。新潟だよ、これはね。地域限定ですよ。周りにいた子どもたち、「そうさ」って言ってたよ、確かに。「そうでございます」みたいな意味らしいんだ、「そうさ」っていうのはね。

 とにかく、語りは、合いの手と一緒です。ストーリーテリングやる方、語り部の方いっぱいいると思うんですけど、どうぞお気をつけください。人が語っているときに、必ず自分で相槌を打つこと。それから、子どもたちにも、相槌うっていいんだよっていうこと。子どもはね、静かに聞きなさいって教えられているから、声を出してはいけないんだと思っている。それは逆。合いの手を打ちなさい。その習慣をつけたほうがいいと思うよ。

 合いの手を打つってどういうことかというと、そこにコミュニケーションがあるわけでしょ。相手とのね、つきあいがあるんだ。それが大事なんだよ。昔話というのは一方的に聞かされるものとは、ぼくは思わない。相手からも応えてもらうんだ。その両方が必要です。とっても大事です。昔話は一方的じゃありません。その点、ストーリーテリングやってる方、気をつけてください。共通語でやると、ました、ました、ましたになるでしょ、文が。だからああいうとき、合いの手は、とっても入れにくいんですよ。でも、入りますよ、その気になれば。そういう習慣をなるべくつけてください。それは、人と人を結びつけるから。

平和な日本への大人の責任

 最後にね、ぼくはいま大人やってる人間が、これから育っていく子どもたち、あるいはもっと後の子どもたちに対して、責任を持ってると思うのね。だから、いまみたいに、なまの言葉で子どもとやり取りしてくださいって言ってるわけ。だけど、もっと言えば、そのためには、日本が平和でなければいけません。これはもう、はっきりしてる。どんなに良いお話を語ったって、戦争が始まったら終わりだよ。

 はっきり言わせてもらうんだけど、いま日本はものすごい危険なところへ来ました。皆さん知っていると思うけど、ほんとに危険な時代。ぼくは昭和の初めに生まれた人間だから、ずーっと知ってんだけれどね、昭和の初めの、あの軍部が力を伸ばしてきた時代といまはとても似てます、状況が。既に言ってるでしょ、何とかという大臣が、放送の内容に問題があったら電波を規制する可能性があるって言いだしたでしょ。もう、あれは昭和のはじめと同じ状態だよ。斎藤隆夫って人がね、1940年(昭和15年)2月2日に帝国議会で演説してんですよ、反軍演説って有名なんだけれどね。それで追放されたんです。国会議員くびになったんです。もう、その状況とおんなじことです。

 どうぞ、皆さん気をつけてください。そして、この戦争ってのはどういうことなんだって。ぼくは戦争中、火薬作ってました。中学生として、勤労動員でね。ぼくらが作った火薬で特攻隊が行ったんですよ。特攻隊用の火薬作らされたんだ。知覧基地、九州のね、知覧基地から特攻隊が乗って使う火薬をぼくらは作ってました。僕らが作った火薬で何人もの子どもが、日本人も死んだし、アメリカ人も死んだと思うんだ。ですから、ぼくは強力に戦争に反対です。

治安維持法とぼくの家庭

 ぼくのおやじって、あの東條軍閥に反対の人だったものだから、北京にいる間は、特高警察が毎日うちへ来てました。それから追放されて、日本へ帰ってきて立川にいたんですけど、高木っていう特高課長が毎日うちに来てた。治安維持法ってそういうものよ。拒否できないんです。毎日うちにいるんだぜ。あらゆる会話聞いてんだよ。電話から何から、全部聞いてんですよね。余計なこと言うと、うちのおふくろなんか平気なもんでね、いっしょにごはん食べさせたりなんかして、親しくなっちゃってんですよね。余計な話だけど。

 それともうひとつは、おやじの名誉のために言っとくと、特高課長がね毎日来てたんですが、でも平気でうちのおやじはその東條軍閥、軍部の横暴を批判してたんですよ。そんなだったんです、最後まで。敗戦になったでしょ、で何年かたって、おやじが死んだとき新聞広告が出た。お葬式が終わった3日後かな、その高木って特高課長から手紙がきましてね。「わたしは戦争中、職務上おたくを訪問していた特高課の高木でございます。当時、ご主人の話を聞いて、この方こそ真の愛国者だと感銘を受けておりました」って手紙だったんだ。ぼくら泣いたよ。その手紙とっておけばよかったんですけどね。もう混乱の中で失くしちゃったんですけど、そういうことがありました。それは余計な話だけど。

 とにかくね、治安維持法が決められたらもうどうしようもないです、今の日本の言葉でいうと、緊急事態法。憲法を変えて、緊急事態条項だけは入れようとしているんですね。それは、治安維持法です。もう全く自由無くなりますよ。ですから、どうぞみなさん、次の参議院選挙(2016年7月)、お友達にいってですね、なるべく、護憲のはっきりしている方に投票してください。

 どうも、長い時間のご清聴、ありがとうございました。

おわり

(構成・池田加津子、協力・東條真由美)