京都大学原子炉実験所助教 小出裕章氏 インタビュー


~絵本フォーラム第78号(2011年09.10)より~

 NPO法人「絵本で子育て」センターの森ゆり子、大長咲子、舛谷裕子の 3 名は 8 月 2 日(火)、大阪府泉南郡熊取町にある京都大学原子炉実験所に小出裕章先生を訪ねました。ここ数日は新聞に雨マークが出ているにもかかわらず晴天が続いています。車中で原子力発電、エネルギー開発、絵本講座、来期の「絵本講師・養成講座」のことなどを話しているうちに、あっという間に目的地に到着しました。先生の研究室でお話しをうかがうことになりました。開かれた窓からの風と頭上からくる扇風機の風が、初対面の緊張を和らげてくれます。先生への質問は 3 人が交代で行います。頂いた時間に制限がありますので、早々に質問を始めさせていただきました。

 小出先生は、原子核工学科の友人との「生活を言い訳にするような行動はとらない」という約束を40年近く守り通して、原子力発電所の怖さを発信してこられました。先生にとっては約束を守るのは当たり前のことかもしれませんが、一般的に言えば、大変強靭な精神を持っておられる、現在では数少ない方のように思います。どのような幼少時代を過ごされたのか、どのような環境のなかで人格を形成されていかれたのか大変興味があるのです。

下町で近所の子たちと遊びまわっていました

小出裕章 講演の依頼がありましたが、私の日程が全て埋まってしまっておりまして、 4 月以降のお約束はもうしないと決めています。申し訳ないけれど今はお約束できない。年が明けたころ、まだ私が生きていましたら、そしてその時になっても私の話しを聞いてくださるという気持ちがまだ残っているといえば、改めてご相談させてください。他のみなさんにも全てお断りしています。

 

森ゆり子 先生がお忙しいことは重々承知しております。来年になりましたら、またご連絡させていただきますので、ぜひよろしくお願いいたします。それから、今日の取材は、先日お願いしましたように「絵本フォーラム」に掲載させていただきたいと思っていますので、録音と写真撮影のご了解をお願いいたします。

 

小出 どうぞ、なんでもご自由に。

 

 私は先生の生い立ちに大変興味があります。不屈の精神はどのような環境のなかで養われてきたのかと、小さいころにご両親から絵本を読んでもらったりした経験はおありでしょうか。

 

小出 あんまり記憶ないですね。

 

 ではおじいちゃんやおばあちゃんと同居されていましたか。

 

小出 おばあちゃんがいました。

 

 じゃあ、お話しをしてもらったりという思い出は。

 

小出 お話しをしてもらったんだとは思いますが、特別にこれといった記憶はありません。

 先生はご長男でいらっしゃいますか。

 

小出 兄貴が一人おりまして、私は弟です。兄弟二人です。

 

 学校に入る前の、本当に小さいころの、思い出に残るような物語とかお話しとかはありますか。また、どのようなことに興味がおありでしたか。

 

小出 私が生まれたのは東京の下町で、うちは零細企業の経営者の家でした。

零細企業ですから、親父もおふくろも忙しく働いていました。おじいちゃんは戦争で死んでいました。

おばあちゃんがいましたけど、私が生まれたときは 1 歳半違いの兄貴がいましたので、兄貴がおばあちゃんにくっついていて、私は、おふくろにくっついていたように思います。

東京の下町ですから、まわりにいっぱい家もあったし、同じ年ごろの子たちがいっぱいいました。

まだ、高度経済成長より前の年ですから、東京の下町は本当に江戸の町のようなところで、路地とかがあって、私の家のすぐ裏は、お寺さんやお墓がありました。

そんなところですから、塀を乗り越えてあっちへ行ったり、こっちへ行ったりして近所の子たちと遊んでいました。

そんなくらいしか記憶にないですね。64年に東京オリンピックがあったのですが、それを見てこの町はだめだと思いました。

中・高 6 年間皆勤賞をもらったすごく「いい子」でした

 中学、高校は、開成と聞いております。地質部に入っておられたそうですね。

 

小出 よくご存じですね。中学 1 年から高校 3 年まで地質部に、あと水泳部にも入っていました。

 

 ご著書を拝読しておりましたら、文科系のかたのような表現をされている文章に出会いましたが、思春期はどのような本を読まれましたか。

 

小出 特別にこれというふうに、これもまた記憶がありませんが、家に賢治さんの本がいっぱいありましたね。

中学高校のころは賢治さんの本を読んだこともありますし、特別になにというようなものはなく、そこらにあった本を読んでいたというかんじです。

大学に入ってからは、いわゆる大学生ですから自分で稼がなくていいし、まあ自分のためだけに時間を使えばよかったですから、さまざまな本を読みました。

 

 家に宮沢賢治の本があったということですが、ご家族が買っていて、すでに家にあったということですか。

 

小出 親父とおふくろが読んでいたのだと思います。それを読んでいました。

 

 中学高校のころ、感銘をうけた本、また影響をうけられた恩師のようなかたはおられましたか。また、どのような学生生活でしたか。

 

小出 難しい質問が続きますね。こういうのは苦手です。

中学、高校時代は、私はすごく保守的な子どもだったので、親からみると、たぶんすごく「いい子」だったと思います。

開成といういわゆる進学校ですが、私はそこにいて、中学高校6年間、無遅刻・無欠席の皆勤賞をもらいました。

学校の勉強もそこそこやりながら、クラブ活動にのめり込んでいました。

地質部というクラブでは、部長をしていました。高校3年の12月まで地質部で仕事をしていて、高校3年生の12月に「日本学生科学賞」という賞をもらうための仕事を続けていました。ですから受験勉強もなにもしないでクラブ活動をやっていました。

先ほどもいいましたが、水泳部というクラブにも入っていて、そこはいわゆる日本の古式泳法なのです。

夏になると千葉県の館山という所に合宿所があって、ずっとそこにいて夏中泳いでいました。

親や大人からから見るとそこそこいい子だったのだと思いますし、またそれなりに自分のやりたいこともやっていました。

べつに破目を外さなかったのだと思います。そんな生活ですから、特別に社会的な問題に対して何か活動をしたとかいうことはありませんでした。

ただ、ちょうど当時ベトナム戦争というものがあって、「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)というものができてきたころだったのですね。

それにちょっと心が動いたことがありました。ベ平連の集会に行ったりしたことがありました。

高校の卒業式の日にこのバッチ(殺すなという文字が印字されているベ平連のバッチ)を胸に付けて入って行ったら、体育の教師とけんかになりました。せいぜいそのくらいのことで何もしていません。

答えを求めてもがき苦しみ、出した結論

 大学時代はどうでしたか。

 

小出 とにかくそのころは原子力の勉強をやりたいと思い込んでいました。

大学に行ってからは学生服を着ていました。大学一年のときはほとんど無遅刻無欠席で、皆さん信じられないような生活でした。

大学時代はすべて自分の時間なので、本もたくさん読みました。

この社会がどうなっているかということも少しは考えざるを得ないようになって、こんなになってしまったということです。

大学は68年に入学してからは、原子力の勉強がしたくて、ただひたすら勉強をしていました。

そのころ、女川に原子力発電所を建てるという計画が確かそのころにもあったのだと思います。

あまりそのことの意味がまだわらからないまま過ごしていて、一方では学生闘争があったのですが、その意味もわからないまま過ごしていました。

今聞いていただいたように一年の間は、ほとんどまじめに、親や社会からみれば、ほんとにいい子という姿で、私は勉強をしていた時期がありました。

一方で女川の問題があって、一方で学生闘争というものがあって、自分がやっている学問が、社会とどういう関係があるかを問われたものですから、それに答えをだそうとして、もがき苦しんで、結局出た結論が原子力はダメだということだったのです。

もうそうなってしまえば、あとは簡単で止めたと180度転換して、社会から見たら今度は「悪い子」になったわけです。それからは授業には 1 時間も出ませんでした。

家族は常に信頼していてくれたと思います

  180度の転換に、ご両親、お兄さまの反応はいかがでしたか。

 

小出 両親は、僕のやることには、もう任せるという感じで、信頼してくれていたということかなあ。何も文句は言いませんでした。好きなようにやれと。

私がパートナーを見つけて「結婚するよ」といった時も、「はい、そうか」と言っただけでした。

こいつが決めたら何をいっても結局駄目だと思っていたのでしょう。後で親父がそういうことを言っていました。

兄貴は僕に輪をかけたように保守的でした。

大学の時、僕は東北大学にいまして兄貴は千葉大学の医学部にいました。

もう全然別々に暮らしていましたので、ほとんどなにも話すこともありませんでした。

 

  生家に宮沢賢治の本があったそうです。書棚を見ればその家庭の文化度がわかるとも言われます。先生が東北大学へすすまれたのもその影響なのでしょうか。

 〈雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ 夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク……ソウイウモノニワタシハナリタイ〉 ふと「身体的文化資本」という言葉が頭に浮かびました。小出先生の生き方を指し示した言葉かもしれません。

 「私たちは、いったい何をどう伝えていけばよいのでしょうか」という問いに次のようにおっしゃいました。「嘘をついたらいけない。間違ったことをしたらあやまる。これだけです。教育は大切ですね」

 著書やユーチューブを拝見し、想像していたとおりのかたでした。ありがとうございました。

(もり・ゆりこ)


~絵本フォーラム第78号(2011年09.10)より~

 福島の原発事故についてお話をうかがうために京都大学原子炉実験所を訪れました。長身の穏やかな佇まいからは、 40 年というながきにわたり原発反対運動をされてきたとは想像できませんでしたが、お話をうかがい、静かな怒り、強い信念を感じました。私には長い間、疑問に思ってきたことがありました。子どもじみた質問に貴重なお時間を頂くことは申し訳なかったのですが、これからの自分自身の生き方を見つめ直すために質問させていただきました。

福島の放射線は広島原爆の 130 発分が空気中に放出

舛谷裕子 今現在どれくらいの放射線による汚染がありますか。

 

小出裕章 今回の水素爆発で放出された放射線は広島に落とされた原子力爆弾の130発分に相当し、それに加え130発分の放射線に汚染された水が敷地内の地下から漏れている状況です。

 

舛谷 8月1日、1号機と2号機の原子炉建屋の間にある排気用煙突の底の部分で、1時間あたり1万ミリシーベルト以上(被曝するとほぼ全員が死亡する量、また放射線業務従事者の被曝量は1年間に20ミリシーベルトまでとされている)の線量が確認され、他の地点では観測されていないと報道がありました。

 

小出 現在の福島原子力発電所の中にはそういう場所がたくさんあり、原子炉建屋や格納容器の中はその程度の放射線量ではすまないと思います。

その放射性物質を何十年もかけて始末をしていかなければいけないのですけれども、今後も次々と高い値を示す場所が見つかるだろうと思われます。

 

舛谷 これから、福島はどんな風になっていくと思われますか。

 

小出 よくわかりません。

私が考える最悪のシナリオをたどるとすると広島の原子爆弾1000発分程の放射性物質が出てくる可能性が残っています。

現在、作業員の方がたが懸命に手当をしてくださっていて苦労がなんとか実を結んでくれることを願っています。

だが、もうすでに広島原爆130発分相当の放射性物質が大気中に出てしまい、同じくらいの汚染水も漏れています。

福島を中心に汚染を広げ、世界中が汚染されてしまいました。

これから汚染された世の中でどうやって生きていくのかを考えないといけません。

福島の発電所の中には、高濃度の放射性物質がそこにあるわけで、とにかくその放射性物質が環境に出ないように閉じ込める作業を10年20年30年と継続して手当をしていかなければなりません。

 

舛谷 86年におきたチェルノブイリ原子力発電所の事故では、まだ放射能が漏れていると聞きました。

 

小出 チェルノブイリでは事故が起こった原子炉を石棺で覆っていますが、あちこち割れ、穴が開いていて、その穴を埋めていっていますがそんなことをいつまでやっていても仕方がないわけです。

今の石棺をもっと大きな石棺で丸ごと覆ってしまおうという計画があります。福島の場合もおそらくそうなるでしょう。

「騙された責任」こそ感じてほしい

舛谷 1970年代香川県に住んでおり、子どもを対象とした伊方原発の安全勉強会に参加しました。

小学生の質問に「原子炉に入っている物は核ではないし、爆発もしない。広島の原子力爆弾とは少し違う」と答えられました。

腑に落ちない一人が「日本には非核三原則があるんじゃないのですか」と聞くと返答はなく、その会は、四国電力の人がみんなのためにこんなに便利な物を造ってくれてよかったね、という雰囲気で終わりました。

あの会は小学生の私たちをも騙すための会だったのでしょうか。

 

小出 もちろん、そうです。私も騙されました。

騙されたという言葉は私にはしっくりきませんが、原子力の平和利用はあると思い、自分の命を使おうと考えてこんなところに来てしまいました。

しかし、聞かされていたことと事実は全く違っていました。核と原子力は違うといわれ、生活をするためには必要、ゆたかな日本を作るために必要、原子力発電所は絶対に事故は起こしませんと聞かされ続け、ほとんどの日本人が信じて来たんだと思います。

それを私は嘘だといってきたし、事故は起きるといい続けてきました。

本当は事故なんか起きなければ良かったんだけど、起きてしまった。

ここまで来たら、みなさん気付いてくれよと思います。

 

舛谷 まさか子どもには大人がそんなことをしないだろうと思っていました。

あの時に、おかしいといえていたら大きく変わることはなくとも少しはましだったのではないかと思ってしまいます。

 

小出 ありがとうございます。しかし、日本なんて数十年前まで戦争をしていたのです。

大本営発表があり、それと違ったことをいえば村八分にされてしまう世界がありました。

学校教育の現場は原発に関して反旗を翻せない、そんなことをしていればほされてしまいます。

いつの時代もいつの世界も、その国その社会で力を持っている者が都合の良い情報を流し、都合の悪い情報を流したものを罰するそれの繰り返しなのではないですか。

 

舛谷 安易に核を使ってはいけなかったのではないでしょうか。

 

小出 国は、原子力は核とは違うといい続けてきました。nuclear(核)ですが、言葉の訳し方で都合良く使い分けています。

nuclear weapon(核兵器)、nuclear power plant(原子力発電所)と訳しています。

どちらも核を使っていることにかわりはないのに、核と原子力は全く違うと国はいい続けてきました。

マスコミもそうです。

イランや朝鮮民主主義人民共和国が原子炉を造ったあるいはウラン濃縮をしたと聞けば核開発(nuclear development)をして悪い国だといい、日本だと原子力開発といい、良いことをしているという。

でも、やっていることは同じなのです。

原子力発電所は危険だから過疎地に造るのです

舛谷 原子力を造った方も安全だと思って造っているわけではないとわかっているのですよね。

 

小出 原子力開発をすすめてきた人も、絶対に安全だとはみんな思っていないと思います。

だから、原子力発電所は都会にはない。関西でも神戸や大阪湾には造らず若狭湾に林立させている。

そして、長い送電線で電気を供給している。

東京電力は、火力発電所は東京湾に林立させているけれど、原子力発電所だけは自分の管轄下に置くことができず、やれ福島だ、やれ新潟だというところにおいて長い送電線を引いている。

次に造ろうとしたのは青森県の下北半島の最北端東通村です。

もういい加減にしてくれと私は思います。

本当に安全なら都会に造ればいいことです。

それはできないまま、安全だ安全だといいながら過疎地の人々に危険が生じている。

大人は嘘をつかない生き方を子どもに見せることです

舛谷 子どもに対する教育はとても影響があると思いますが。

 

小出 教育はすごくたいせつだろうし、子育てですよね。

どういう人間を創るかということが一番の根本なわけだし。

嘘をついてはいけない、間違えたら謝れる子に育てられればそれだけでいいと思うんです。

でも、大人になるに従って、みんな嘘をつきながら、社会の中に巻き込まれながら、なんとか自分の出世も含めて生きていこう、なんて思うような大人になっちゃうんですよね。

嘘をついても、それを取り繕う。今の原子力のやっていることとそっくりそのままですけれども、どうしてもそうなってしまう。そうならないようなまっすぐな子どもを育てるということですよね、たいせつなのは。

 

舛谷 どうしてこんな風になってしまったのかと考えてしまいます。

 

小出 アインシュタインがルーズベルトに原爆を作れと進言したんですよね。

ナチスが作れば世界が破滅する。ナチスより前に作らないといけないといい、それで原爆ができた。

できたときにはナチスは崩壊していた。だから、アインシュタインはもう原爆は使うなといったけれども米国としては作ってしまったから使ってしまった。

そこで、アインシュタインは一言呻いて「次にもし生まれ変われるなら、水道の配管工になりたい」といったといいます。

歴史というのは強大な流れで流れるわけです。

一人ひとりの個人の力なんて、あのアインシュタインだって微々たるものだったわけだし、誰だってそうですよね。

個人の力なんて。でも、小さいからといって黙ってみているなんて、もちろんできないわけだから。

後から問われるんじゃないですか。あの時、お前はどうやって生きてたんだってね。全ての子どもに。

ウランの毒性が減るのに 100 万年かかります

舛谷 永久機関は存在しないが、核分裂から元に戻るのには孫の代でも見られないほどの期間がかかると習いました。

 

小出 地球というこの星にはウランがあるわけです。

ウランというものも放射能を持っている。キュリー夫妻が、ウランが放射能を持っていることの正体を一生懸命調べ、ウラン自体も危険な物だとわかった。

そして、ウランを核分裂させてしまうと元々ウランの持っていた危険性の1億倍とか10億倍程の危険を持った核分裂生成物になってしまう。

ウランは45億年経たないと半分にならない、核分裂生成物はもっともっと寿命が短いので、どんどん寿命が減っていってくれる。

ヨウ素は8日経てば半分に減り80日経てば1000分の1に減り、あっという間になくなっていくわけです。

今、私が問題にしているセシウムという物は30年経てば半分に減り300年経てば1000分の1になります。

一方、ものすごく寿命の長い放射能もあって、例えばプルトニウム239は2万4千年経たなければ半分にならない、ヨウ素129は1600万年経たないと半分にならないという物ですから、少しずつ減っていってくれるがなかなか最後は減らなくなる。

ウランは、元々のウランが持っていた毒性と等しいくらいの毒性まで減ってくれるのに100万年かかる。

せいぜい100万年間は、ウランが地底に眠っていたように、地球の生命環境に出てこないようにする責任があるだろう。

でも100万年なんてね。六甲山はまだ海の底ですよ。

自分が作り出したゴミの始末ができないことを、分かっていながらやるかと思います。

 小出先生は拙い私の質問にも、真意をくみとってくださり丁寧に、真摯に答えてくださいました。思いやりがあふれ、質問者の私を傷つけないように言葉を選んでくださっているのが、よく分かり感激いたしました。

 原発安全教育に違和感を感じながらも、追究してきませんでした。そして、大人になってしまいました。小出先生がおっしゃるように、これからの自分の生き方が問われていると思います。詩人 茨木のり子さんの『倚りかからず』を思い出しました。

(ますたに・ゆうこ)


~絵本フォーラム第78号(2011年09.10)より~

 京都大学原子炉実験所を訪れたのは、蝉しぐれが降り注ぐ暑い日でした。小出先生は研究室のある建物の前まで私たちを迎えに出てくださいました。 先生の研究室には、小さな扇風機が一台と、小さな蛍光灯がひとつ。今はどこへ行っても寒いぐらいに効いているクーラーや、昼間でも煌々とともっている明かりに慣れてしまっている私たちにとっては薄暗く感じるこの部屋も、今まで原子力発電と向き合い戦ってこられた先生にとっては「日常」なのです。

原発推進は「正気の沙汰」ではありません

大長咲子 原子力発電が危険なものだと分かっていながら、今なお政府や電力会社が原子力発電をやめないのは何故なのか。

政治家は危険の上に原子力開発が成り立っているということを今まで本当に気がついていなかったのでしょうか?

 

小出裕章 原子力を専門にしている研究者であれば原子力が危険を抱えているということをみんな分かっています。

ただし、今度のような事故は起きないだろうと思っていた。私自身も半ば油断があったと思います。

私は「起きる。起きる」と言っていた人間なのですよ。この私でさえ実際に起きてみると「こんなことが起きちゃったんだ」と夢を見ているような気持ちになる。

私でさえこんな風なのだから、今まで原子力の旗を振ってきた学者たちは(今回の事故に対して)「こんなことは起きっこないよ」と思ってきたと思いますよ。

ですから彼らが今、この事故を見ながらどう思っているかは私には分かりません。

 

大長 「フクシマ」の事故の後、私のような素人が本を読んだり新聞を読んだりしながら少し考えただけでも「原子力は怖いものだ。すぐにでも止めて欲しい」と思う訳ですが、どうして政府は原発を止めるという決断ができないのでしょうか。

即刻止めても停電などありません

小出 推進した人に聞いてください。私は「正気の沙汰」ではないと思っています。

こんなことが起きていて尚且つ、いまだに原子力発電所は動いているのですよ。それが信じられない。

私は、即刻、全部止めればいいと思っているのです。

ただ、今、国や電力会社が何と言っているかというと原発を停めたら停電しちゃうと言っている。

でも、それが嘘なのですよ。

原発なんて即刻すべて止めても、他に発電所はちゃんとあるし、停電も何もしない状態なのに、彼らはいまだに嘘をつきながら人々を脅かしているわけなのですよ。

そして節電をしろと。いい加減にしてくれと私は思うけれど、しかし彼らはいまだに原子力発電をやりたがっている。

例えば経団連の人の話を聞けば原発を止めたら雇用がなくなっちゃうとかね、日本の産業が空洞化してしまうとかいっている。

しかし、産業が空洞化しようがこれだけ放射能汚染で苦しんでいる人がいることを考えれば、そんなことが何なんだと思ってしまう。

でも、今まで日本を動かしてきた人たちの考え方はそうではないということですよ。

経済発展、そして一年間に必ず何パーセントか経済を拡大していってお金持ちの国になってそのお金を使って自衛隊という軍隊で世界最強に近い軍隊を作って国連の常任理事国になりたい。

そのためには核兵器を持つための潜在的な力も懐に入れておかなければならないということで、ずっとやってきている。

大長 私たちは、絵本講師としてまた、普通の母親として子ども達の未来の幸せを願ってやまないのですが、この現状を子育てする人々にどう伝えていけばよいでしょうか。

 

小出 私は、時々、あちこちの集会に呼んでいただいて行きますけれど、何年か前の集会で挨拶をされた主催者の女性が言ったんですね。

「私は子どもたちに嘘をついてはいけない、そして自分が間違えた時には謝りなさいと教えてきた」と。

それだけです。それを教えてくれたらいいのです。

子どもたちにも。それをやらない大人が多すぎる。今の日本には……。

「各々止むなき表現をなせ」

大長 この期に及んでも、なぜ、原発を止めてくれないのかなというジレンマがある。

しかし、自分自身が今回の「フクシマ」の事故が起こるまで、原発問題に向き合ってこなかった反省もしている。

こんな私たちは今後どう考えて行動していけばよいのか。

 

小出 賢治さんが言っている《世界ぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない。個性の優れる方面において、各々止むなき表現をなせ》と。

私はこんなことしかできないが、原子力の専門家として私のできることをやろうと思っています。

皆さんは絵本を作る、絵本を語る人たちを育てるという立場にいるわけで、それを活かして活動してくださればいい。

 

大長 原発事故に関しては、あまりにもショックなことが多すぎる。

自分では今まで、少しは問題意識があるほうだと思っていた。

しかし「フクシマ」以降、自分自身の無知に猛省しています。

 

小出 それは、しょうがないのですよ。

日本という国が原子力をやると決めてしまって、電力会社、巨大原子力産業、土建屋さん、マスコミ、教育界、学会を含めて、みんなが嘘をつきとおしてきた。

ですから日本人の一般の人々はその嘘に騙されるということは、仕方のないことだと私は思います。

戦争中に日本国民が騙されたのと一緒で仕方のないことだと私は思うけれども、でも、騙されたことを仕方がないといってしまうと、また次に騙されるということになるので、騙されたことが分かった時には、ちゃんと反省しないといけないはずだと私は思うし、騙された人たちにも責任は付随していると思う。

戦争の時の日本国民にしてもそうだし、原子力に対しての今の日本人に対してもそうだし。

仕方のないことではあるけれども責任がないわけではない。

何にも不思議なことを私は言ってないと思うんですけど、そんなことは全然通用しない。

少なくとも今までは通用しなかった。

 

大長 「フクシマ」の事故以前と以降とでは、状況は変わったとお感じになりますか。

 

小出 だって皆さん、こうして来てくださっているじゃないですか(笑)

 

大長 先生に対する取材が増えたとか、細かなことはたくさんあると思います。

もっと大きなところで何か動いていると感じられることはありますか。

 

小出 動いて欲しいとは願いますけれども、本当にこれで原子力を止められるかどうかということを考えると、またこれでもダメなのかもしれないという気持ちはありますね。

でも、確かに変わってきたなと思わないわけでもありません。

有名人の発言より無名な人の行動がたいせつ

大長 いま、様々な著名人、有名人が原発反対への表明などをされていますが、世の中に影響を与えていると思いますか。

 

小出 あるのでしょうけど、私は有名人の発言なんてどうでもいいと思っています。

そうではなく無名な一人ひとりの人たちがどう思ってくれるか。それだけが勝負だと思っています。

チェルノブイリの事故が起きた後、86年の秋にオーストリアのウィーンでアンチアトムインターナショナルという会議があった。

反原子力国際会議とでもいうのでしょうか。私はそれに行ったのですけど、ウィーンの町ってご存知ですか。

市街地の真ん中にホーフブルクという宮殿があるんですけれど、あちこちから鉄道がウィーンに集まるかたちでひかれている。

その方々の駅から中心のホーフブルク宮殿にむかってデモをするということがあった。

私たちは北駅という駅に行ったと思うんですが、開始時刻の少し早めに行くと誰もいないんですよ。

主催者だけがポツンといて。

「こんなことでいいのかな」と思い「これで大丈夫なのか」と主催者に尋ねてみると「これでいい」と言う。

そしてしばらく待っていると、三々五々だんだんと集まってくる。

その集まってくるというのも、当時の日本のデモというイメージでは、なんとか労働組合が動員をかけてみんな同じゼッケンをして腕を組んで歩く、そういうデモしか私にはイメージはなかったんですけど、ウィーンのデモというのはそうじゃないのですよね。

一人ひとりが、てんでばらばらに、ある人はサンドイッチマンのような格好で看板をかけて歩いているし、ある人は乳母車を押しながら来たり。

誰かに言われて動くというのではなくて、自分の中から沸きあがってくる声でそれを発信する。そういう人たちが参加するデモだった。

そしてやっている間に、どんどん、どんどんそれが膨れてくる。

「お上意識」をなくし自立した個人を

大長 まったく、個々の意見なのですね。

 

小出 そうです。一人ひとりの人たちがどう考えてどう声を上げるかということであるし、それがすごい事なのだと。

オーストリアは「ツエッペン」という原発を作って、ほぼ完成していたんですけれども、それも国民の投票でやめさせました。

こういう人たちだからこそ出来るのだとその時感じました。

 

大長 オーストリアの社会または国家自体が個人の意識が高くそれを尊重するということでしょうね。

 

小出 そうです。一人ひとり、個々の意識が高いと言うことです。

自立しているというか、日本のようにお上意識が高くないのではないでしょうか(笑)

お上が言っていれば間違いない、というような意識が国民にない。そういう人々が普通に生きられる社会なんだと。

そういった社会であれば原発なんて、出来っこないと思うんだけれども日本は全然そういう社会にならないまま今日まで来てしまった。

でも今回の「フクシマ」の事故が起こってしまってからは、結構そういうデモが日本のあちこちでもあるじゃないですか。

労働組合でもなんでもない人や、誰かが呼びかけて、インターネット上でツイッターとかいうんですか、私はやったこともないんですけど、そんなことをやってるうちに、みんなが集まってくる。

ひょっとすると変わるかもしれないと思っている。

 

大長 少しでも日本が変わることを願っています。

 

小出 ありがとうございます。

 今は夏休み。涼しい午前中にこの原稿を書き上げようと、子どもたちが宿題をする傍らでパソコンに向かいながら、ふと、「お昼ご飯は何にしようか」とキーボードをたたく手を止め、米を研ぎました。研ぎ終えた米は1時間もすれば、炊き立てのご飯になるでしょう。かまどに薪をくべることも知らない私が、この電気炊飯器の火はどこからどうやって来るのか。なんの疑問も持たずに、あたりまえに、日々の食事をしてきました。「フクシマ」以降、やっと芽生えた問題意識。これから子育てをしている皆さんに、絵本講師としてどう伝えていこうか……。これからの私たち一人ひとりが、今現在のこの問題を考え続けることが大切なのだと実感しました。

(だいちょう・さきこ)