ラストエンペラー・愛新覚羅溥儀弟・溥傑次女 福永嫮生さんを訪ねて

 一昨年の秋も深まったある日、事務局で藤井代表から紹介された2冊の本。

 『流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生』(本岡典子/著、中央公論新社)『流転の王妃 愛の書簡 愛新覚羅溥傑・浩』(福永嫮生/著、文藝春秋)

 そのときは、この本との出会いが愛新覚羅嫮生(福永嫮生)さんとのご縁や、このような原稿を書くことに繋がっていくとは全く思ってもいない私でした。

溥傑一家の流転の歴史

 嫮生さんの、母堂・嵯峨浩は、侯爵嵯峨家の実勝と尚子の長女として1914(大正3)年に生まれました。中国の清王朝の最後の皇帝、ラストエンペラー・愛新覚羅溥儀の弟・溥傑に嫁いだその人です。

 それは日満親善の美名のもと日本の軍部が仕組んだ政略結婚でした。それにも関わらず、溥傑と浩はお見合い写真から互いに好印象をもち、お見合いの席では好意を抱き、結婚生活では尊敬と信頼と労わりを重ね、愛を深めていきます。

 やがて、長女・慧生さんと次女・嫮生さんが誕生します。学齢期になった慧生さんは浩の実家・嵯峨家で暮らし中国と日本とに別れての生活。しかしそんな穏やかな生活も長くは続かず、しだいに戦渦にまきこまれ流されていきます。

 大戦が終わると同時に苦難の日々が始まります。浩と次女・嫮生さんは、一年六ヶ月に及ぶ流転の日々を経てやっと日本に帰国します。

 溥傑は満州国皇帝・溥儀と共にソビエトの捕虜となり、その後中国政府に引き渡され管理所生活が始まります。

セミナーで河内厚郎氏と対談される福永嫮生さん

 一家が再会した時は、すでに終戦から十六年の歳月が経っていました。

 嵯峨家の令嬢として生まれ育った浩の流転の日々を支えたものは一体何だったのでしょうか。

 夫・溥傑への溢れる愛、そして日本に暮らす長女・慧生さんに会うまではという親子の絆。さらには、日本人としての誇りであったのかもしれません。

 浩が溥傑に嫁ぐ前に宮中に参内したおり、大正天皇妃(後の貞明皇后)が、「満州国の皇帝に仕えることは、わが国の陛下に仕えるのと同じことです。(中略)溥傑に仕え、日本の婦徳を大いに示すように……」(注1)と仰せになられたそうです。このお言葉や嵯峨家や浩の母の実家・浜口家での生活なども心の支えとなり、強くしなやかに流転の日々を乗り越えられたのでしょうか。

中国と日本の友好を願い

 溥傑に嫁いだ浩の望郷を慰めてくれたものは、家の周りに茂る木々、見上げた空に月が懸かり、四季折々に咲く花々が在ったことではないでしょうか。

 そして、夫・溥傑との再会後、中国での日々を穏やかに過ごすことができたのも、それら自然の存在に目を向け、心を傾けた二人であったからでしょうか。

 木々や草花を愛でて、明るく誰にも優しく、そして中国の料理を学び中国の方々を自邸に招き、「中国の人」になろうとした浩の毎日の生活。

 溥傑はよく記者から「お二人の生活は」と質問されると「相依為命(相依って命を全うする)」と答えたそうです。

 満州国皇帝の兄・溥儀を支え続けた溥傑。その溥傑を支え続けた浩。中国と日本の友好を願い、

「からくにと やまとのくにが むすばれて とわにさちあれ ちよにやちよに」

と詠んだ浩。

 長女・慧生さんは悲しくも若くして亡くなりますが、「平和な日本で平凡に生きる」ことを願った嫮生さんは1968(昭和43)年、福永健治氏と結婚しました。

 五人の子宝に恵まれ、須磨、そして今は西宮にお住まいです。

春風のような微笑みと温かさ

 5月8日から20日まで芦屋市民センターで、溥傑一家の流転の歴史をたどる「『愛新覚羅溥傑・浩』流転の王妃・最後の皇弟」展が、福永嫮生さんから展示品の提供を受け開催されました。5月10日には嫮生さんが河内厚郎氏(神戸夙川学院大学教授)と対談、セミナーと映像鑑賞が同センターでありました。

 5月14日に嫮生さんからお話を伺う約束になっている私は、このセミナーに出席される嫮生さんをご自宅の最寄り駅までお迎えに上がりました。待ち合わせ時間より15分も早く来られた嫮生さんは柔らかな微笑みで私の緊張をほぐしてくださいました。

 心を解きほぐす春風のような人と言われた父・溥傑。情愛の深かった母・浩。その娘の嫮生さんも春風のような微笑みと温かさがあります。

 今年は日中平和友好条約が結ばれて35年になります。尖閣諸島の問題を始め、日中関係は緊迫の状況です。嫮生さんは過去の流転の日々を胸に、今の中国と日本の友好を願い溥傑と浩の思いを紡ぎます。

「わたくしは物欲ではなく、心の豊かさを第一にと考え、五人の子供を育てて参りました。誠実であること。心を尽くしておつき合いをすることの大切さを伝えながら育てて参りました。福永と二人で築いて参りました家庭は、それはそれは温かいものでございました。家族はお互いを助け合い、かばい合い、補い合って生きて参りました。(後略)」(注2)

「親が子に与えられるのは後ろ姿だけでございます。何かを期待したり、求めたりすることはございません。わたくしが父と母の後ろ姿から多くを学んだように、福永とわたくしの生きた後ろ姿から、生きることの意味を学んでほしゅうございます。親が子に残せるのはただそれだけでございます」(注3)

私の緊張をほぐしてくださった嫮生さんの、優しい微笑みを思い出しながら、「子育て」「絵本」と記した質問のメモを携え、ご自宅に伺う日はもうすぐです。

(ないとう・なおこ)

(注1)『流転の王妃の昭和史』(愛新覚羅浩/著、中央公論新社)p40

(注2)『流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生』(本岡典子/著、中央公論新社)p416

(注3)『流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生』(本岡典子/著、中央公論新社)p418



 風薫る5月14日、西宮市の福永嫮生さんのご自宅を、写真担当の原知恵(芦屋7期)と共にお訪ねしました。街が一望できる素晴らしい眺望の居間のテーブルには、私たちの到着時間に合わせて冷たいおしぼりと茶菓が置かれ、春風のような微笑みで私たちを迎えてくださいました。今日は、北京での生活と料理、子育てについてお聞きします。

おもてなしの気持ち楽しむ

 素敵な食器でございますね。

お人がよくお見えになるので「あればよいでしょう」と娘が買ってくれた物でございます。

 

ご両親様のお住まいのお庭には果樹や草花が多く、お母様も確かお客様が多い生活で、料理がお得意でいらしたそうですね。

 はい。両親が晩年住んでおりました北京の護国寺の家の庭には果物の木が多く、果実が稔る前に花が咲くのが綺麗で、父も母も木や花が大好きでございました。朝の水やりは父が、夕方は母がやっておりました。木々や草花は人の心を和(なご)ませてくれますでしょ。

 お客様がいらしても花が咲いておりますと、夕方お庭に大きな丸いテーブルを出して打ち水をしてそこに母が作ったご飯をお出ししておりました。

 当時は配給でなかなか材料を手に入れるのが困難でした。が、たった一丁のお豆腐からでもいくつかの前菜が出来るのでございます。

 本当にお客様に対して、自分の手で料理を工夫しておもてなしをすることを楽しんでおりました。母が元気な間は、いつも庭から母の笑い声が絶えない北京での生活でございました。

 中国の夏は暑いのでお昼休みに一時間程お昼寝の時間がございます。父はそのお昼寝の時間を返上して購買部のような所で珍しい材料を買ってバスに乗って母に届けていたようでございます。

 

 お優しいですね。袋を下げたお父様のお姿が目に浮かぶようでございます。お母様は、料理の本をお出しになっていらっしゃいますが。何かお母様の思い出のお料理を一品お教えいただけますでしょうか。

 これが婦人画報社から母が出しました『食在宮廷』(注1)という料理の本でございます。もう絶版になっておりますが、今、日本では学生社から「『食在宮廷』〈増補新版〉中国の宮廷料理」(注2)が出版されています。

 思い出の料理、色々ございます。一品というとなかなか難しいですね(笑い)。

 夏になりますと、レタスを皮にして、その中に紫蘇の葉を一枚入れて胡麻だれをぬって、その上に色々な野菜や卵、ベーコン、ハムの入った塩こしょう味の炒飯を入れていただく菜包という料理がございまして、ビールを飲みながら召し上がると皆さんに大好評です。

子どもは皆の中で育つ

美味しそうでございますね。是非、作ってみたいと思います。お母様から受け継がれたお料理のように、子育てについても受け継がれたことは何かございますか。

 私に子どもが出来たとき、母からの手紙に「子どもは可愛いでしょうけれど、おもちゃをたくさん与えないこと。日本はいくらでも物はあるでしょうけれど、一つの物で工夫をして遊ばせないと気が散って移り気な子どもになると将来可哀想なことになるから、最低限で工夫してずっと遊ばせるように」、と手紙に書いてくれました。また「お稽古の中から身に付くもの、資格を取るように」「健康でさえあれば資格があったら恐らく生活には困らないだろうから」、とも手紙に認めてありました。

 姉はバイオリンを、私はピアノを習っておりました。母もかつて著名な先生にピアノを習っておりましたので、ピアノが弾けます。これくらいは弾けるだろう、と思っているところを私が何回も間違って弾くと、ピシャと叩かれるのでございます。どんなことがあっても、一日四時間くらい練習をしないと叱られました。その内ピアノの前に座るのが怖くなったくらいでございますが、母にしたら、芸術なら芸術を身につけて食べていかれるように、と必死の思いで私たち子どもを育ててくれたのだろうと思います。

 「共産国であっても芸術に国境はないから」、と申しておりました。怖かったのでございますよ、ピアノ(笑い)。

 私共が弾いていたピアノを、嵯峨の叔父の子どもたちも弾いておりました。間違うと子どもたちもお母さんに叱られていたらしくて、叔父が「このピアノは祟っていて、怖いね」、と冗談を言うほど熱心だったようです。

 主人の母は上の子が夜寝る時、必ずお話をしたり絵本を読んだりしてくれましたが、おばあちゃまが先に寝てしまって(笑い)。

 主人も子どもたちに自分で作ったお話をして寝かしておりました。自分で作るから次の日にお話が少し変わっているのです。「ちがうよ!」、と指摘されたりしておりました。

 〈尾の白い仔猫の話〉なんかもしたようです。「面白かったか?」、と聞いて『お(尾)もしろ(白)かった』、と笑い、ことばをかけて楽しんでいたようでございます。

 主人が亡くなった今、子どもたちが「お父さんは子煩悩で、いろんな話をしてくれた」、と電話で懐かしそうに話しております。

 このようなことが大事なことでございます。

 お話や絵本の読み聞かせをすることが、後に国語力がついてくるようでございます。何でも基礎は国語でございますから。問題の文を読み違えてはたいへんでございますから。小さい時のことばがけはこどもの成長の基礎だと思います。

 

今、乱暴なことばや相手を責めるような強いことばをよく耳に致しますが、嫮生さんはどのようにお感じになられますか。

 ある程度、理性や教養というのは、学ぶことで身につくことだと思っております。

 やはり、ちゃんとした敬語は、家庭で教えるべきだと思うのですよ。子どもは無限の力がありますから、将来どんなに偉くなって、偉い方とお付き合いをすることもあるかも分かりません。

 お箸の持ち方など、最低限のことは教えてあげないと恥をかいたら可哀想ですから。家庭で教えるべきだと思っております。

 

五人のお子さんを育てられた嫮生さんから、今、子育てをされているお母さん達に何かおことばをいただけますでしょうか。

 一人で苦労してイライラせずに、人はそれぞれ性格が違いますから、いろんな方と話し合っていろんなお子さんと遊ばせたりしていると自然に一人で悩むこともなくなって上手く育てていけると思います。

 そして子どももそれぞれ性格が違いますから、同じように育てても違って参ります。

 その子その子の良いところを見つけてあげて褒めて伸ばしてあげるといいですね。怒ってしまうと縮んでしまうので褒めて育ててあげる。子どもは褒められると伸びます。

 頭を撫でられると嬉しそうにします。子どもはまた頑張ろうとします。褒めて育ててあげてください。

 

頭を撫でるお母さんは笑顔ですから。子どもは、お父さんお母さんの笑顔が大好きです。

 はじめての子どもは、良く育てようと親も必死に頑張りすぎたりするものです。だからすぐ怒ったりしてしまいます。

 でも後の子は、一緒に生きられる時間が短いと思うと余計に可哀想になり、優しくなってしまうものです。一緒にいられる時間が少ないと思うと意識していなくても怒るのが少ないようです。

親子が共に生きる時間は限られています。命がけの流転の日々を経験されたからこその思いでしょうか。だからこそ嫮生さんは人にも優しく穏やかなのでしょうか。次回は、ご両親と嫮生さんの生き方・日々の思いなどをお聞きしたいと思っています。

(ないとう・なおこ)

(注1)『食在宮廷』(愛新覚羅 浩/著、婦人画報社)絶版

(注2)『食在宮廷』〈増補新版〉中国の宮廷料理(愛新覚羅 浩/著馬遅伯昌料理校/訂、学生社)


 温かく優しい微笑で、お子さんのことを語られる嫮生さん。遠く懐かしい眼差しで、ご両親やご主人の思い出を語られる嫮生さん。今、嫮生さんの胸には、どのような思いが去来しているのでしょうか。前号に続き嫮生さんのお話をお聞きいたします。

思考の核となる父母の姿勢

愛新覚羅溥儀の実弟であるお父様、溥傑さんは、私達には歴史上の人物ですが、ご家庭ではどのような方でいらっしゃいましたか。

 お目にかかった方を終生大事にしておりまして、この広い世の中でご縁があってお会いした方とは、心を込めてお付き合いをし、そして家庭・家族を大事にしておりました。父が中国の病院に入院しておりました時に、病室の前に「心配でたまらなくて、東北から2日間かけて列車で来ました」という3人の若い兵隊さんがいました。父とは一度会ったことがあるようでした。

お父様が、一度しか会ったことのない方の、心にも残る接し方をなさっていたことが分かるお話でございます。

 また士官学校の同室の方のお話だと、ゲートルを短時間で巻くのは難しく、父は、手間取っていたようですが、人より早く起きて巻いて集合時間に合わせて、他の方に迷惑がかからないように努めていたようです。軍隊という所は、一人が遅いと全員叩かれるのです。父は前半生、ソビエトで5年間の抑留生活を、撫順でも10年間の管理所生活をしております。晩年、「一日の終わりに床に入る前に、今日一日をどのように過ごしたかを必ず反省して休んでいる」「反省の無い人間は進歩、前進がないから」とこの一言は父が私に言い残したことでございます。成る程、と得ることが多くございました。

 

ご自分に厳しいお父様のお姿でございますね。お母様の浩さんはどのような方でいらっしゃいましたか。

 責任感の非常に強い人でしたので、母は自分が置かれている立場等を大事に考える人でございました。流転の日々を共にしました愛新覚羅婉容皇后は、アヘン中毒でご自分の身の回りのことがお出来になれず、また誰もお世話をしたがらなかったので、母がお世話をさせていただいておりました。母は自分が嫁いだ先の方だから、自分が最後までお世話をするのが使命だと考えていたのだと思います。兵隊さんには、いつも感謝をしておりました。兵隊さん達が私を可愛がってくださったからだと思います。大人の母は、外出が許されなかったのですが、子どもの私を、外に連れ出してくれたのです。常日頃、母は有り難いと思って感謝の気持ちを持っておりました。

 

身分の上下でなく、人としての関係を大切になさっていらしたのですね。嫮生さんは、福永家に嫁がれて、家庭を築かれました。ご主人はどのような方でいらしたのでしょうか。

 とてもユーモアがあって人望がございました。お葬式の時(2007年1月2日67歳 永眠)、とてもたくさんの方にいらしていただきました。人というのは、亡くなった時にそれまでの生き方が分かるような気が致します。どれだけの方が嘆いて惜しんでくださるか。亡くなって初めて分かるものだと思っております。

命あればこそ

嫮生さんのお話は、家族の在り方や心の持ち方等を考える良いお手本になると思います。

 やはり夫婦というのは、生まれも育ちも各々違いますから、結婚してもすぐにピッタリと上手くいくとは限りません。お互いに努力しながら育んでいくものだと思います。あまり高望みをせず要求をせずに、愛情とか情愛はその人が好きでその人の為に捧げるという気持ちでいれば、そんなに簡単に別れることもなくなるのだと思います。あまり要求ばかり利己的にするのではなくて、その人のために愛情を捧げる、あげるという気持ちでお互いが尽くしていければ、上手くいくのではと思います。

 捧げる。見返りを期待しないで。

 はい、期待しないで。あげるという気持ちで尽くしていければ。「帰りが遅い」とか「お休みの日にどこかへ連れて行って下さい」と言うような要求ばかりしていたら上手く行かないものです(笑い)。男の方は、外に7人の敵があって、一生懸命家族のために頑張っているのですから。飲んで遅くても、それは、人間関係が上手くいくように、お酒が好きでなくてもお付き合いで遅いのかもしれないので、それを責めたら可哀想です。相手に何か言う時も、相手の気持ちを考えて言わないと伝わらないでしょう。結婚した子どもにはそう言っているのです。そして、母は「どんなに親しい夫婦でも最後まで女としての恥じらいを忘れないように」と私に教えてくれました。母は、ゴミを捨てに行く時も口紅は必ず付けて出ておりました。「どなたに会うか、分からないから」と申しまして、「口紅くらいは付けてゴミ捨てに行きなさいね」と身だしなみを教えてくれました。今、パジャマ姿でゴミ捨てに行かれる方がいらっしゃいますから(笑い)。

 

今、恥じらいが消えている世の中でございますので(笑い)。本当にちょっとした気持ちの持ち方でございますね。ご本に「生前から父はよく申しておりました。『モノに執着してはいけない。モノは生きているときのお客様。困っている人がいたら、差し上げなさい。広い世間で、ご縁があってお目にかかった方を大切にしなさい。生きているうちに他人様のお役に立つことができれば、生きていた甲斐がある』と」(注1)とお父様のおことばがありました。

 「私利私欲を失くして」と父はよくそれを申しておりましたし、父もそうでございました。父は出自ではなく、その人生を自分で努力したことが良かったから、今の中国でも大事にされているのだと思います。私利私欲の全くない誠実な人でございました。「ほんの少しのものでも、皆で分け合って食べよう」といつも申しておりました。満州時代に軍隊の車を父がお借りして、外で食事をするときも運転手さんを外で待たせるのではなく「一緒に食べよう」と言って連れて入って共に食べておりました。父や母にはいつも喜びや楽しみを分かち合いたいという思いがあったようでございます。だから、どんな時代になっても慕ってくださって、亡くなった今でも、お知り合いだった方やその奥様や子どもさんが父の命日や誕生日に「お供え下さい」と果物等を贈って下さるのです。お供えをした後、子どもや孫と一緒に「有り難いこと」と感謝しながらいただいております。

 

 

心や思い、行いは残っていくのでございますね。

 そうみたいですね。父と母が愛でた朝顔。母が亡くなった後、7年間、父が大切に水をあげて花を咲かせ種を採っておりました。その種が日中友好の朝顔の種として広がっております。種を手渡された方々は皆様喜んで大切に育てて下さっています。お隣同士の近い国です。2000年の文化交流があって、友好を深めてきた国同士でございます。昔の方々の苦労を忘れること無く自然に交流の輪を広めていってもらえればと思います。

 

お母様が詠まれたお歌

ふた国の 永久のむすびの かすがいに なりてはてたき 我がいのちかな

ご両親様の思いが込められた朝顔の種が、ふた国の架け橋となって広がって、つながっているのでございますね。嫮生さんは、「生きてこそ、です」とよくお話をなさいます。それは、1年半の辛い流転の日々があってのおことばなのでしょうか。

 命あればこそ、生きてこそ。今、この世の中に生かせていただいていることをしみじみ有り難く思っております。兵隊さんが私の身体に覆い被さって敵の銃弾から守って下さった命です。だからご恩に報いるために粗末にしないで寿命まで生きていきたいと思っております。対談や講演での臨時収入はアフリカの子どもたちの命が一人でも多く助かることを願って、ユニセフに寄付をさせていただいております。ご縁があって今、この地球上で共に生きているのですから、せっかく生まれた命ですから、一本のワクチンで助かるならお手伝いをしたいと思っております。父と母の顔に泥を塗らないように一生懸命に努めていきたいと思っております。

 嫮生さんの眼差しの先には、ご両親と過ごされた北京の庭や、ご主人と歩かれた須磨の海岸が広がっているのでしょうか。嫮生さんのお話から、何気ない日々の営みに心をかけることの大切さを改めて気づかされました。

 駅のホームで、嫮生さんと私の前をゆっくりと足を運ばれる老婦人がいらっしゃいました。嫮生さんは、「先に行くのは失礼だから」としばらくご婦人の後を歩かれました。ホームの柱の横を彼女が通りすぎるとき、嫮生さんも柱の裏から足早にご婦人を追い越されました。人を追い越すことが日常当たり前のような今、追い越される方の気持ち、追い越す者の気持ちを省みた瞬間でした。この時のことは、今も私の心に鮮やかに残っています。

 人にも物にも心をかけること。自分の気持ちを押し付けること無く、唯、今、共にあることを感謝して生きること。出会えたご縁をたいせつに、気持ち良く、清々しく心を込めてお付き合いをすること。悲しみや苦しみを奥深く受け入れて、静かに穏やかに、そして凛とした嫮生さんの生き方の向こうに、中国と日本の多くの方々の姿が重なりました。

 私たちの後ろ姿を子どもたちは見ています。何をたいせつに生きていくのか。何を伝えていきたいのか。私たちの生き方が問われます。                                      

 厳しい暑さの今夏、日中友好の朝顔が咲きました。嫮生さんとのご縁から、我が家で咲いた白い縁取りの赤い朝顔の花。この花にどれだけの方々の思いが込められているのか、と万感の思いで愛(め)でました。ふた国の友好を願って種を蒔き続けたいと思います。

 嫮生さんのご多幸をお祈りしながら、嫮生さんのおことばを最後に記してこの対談を終えたいと思います。

 「『目には見えないものに包まれ、守られ生かされていることに、日々感謝し、今を生きる』(中略)『静かに行くものは、健やかに行く。健やかに行くものは、遠くまで行く』と申します。静かな心で、正しく歩み続けていれば、幸せはきっと訪れる――そう信じております」(注2)

(ないとう・なおこ)

(注1)『流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生』(本岡典子/著、中央公論新社)413ページ。

(注2)同424ページ


愛新覚羅家直系の子孫 福永嫮生さんに聞く

大長咲子(絵本講師)

 10月17日は夏の名残を惜しむような陽射しの強い日でした。緑豊かな西宮某所にあるご自宅に、福永嫮生さんをお迎えにあがった私は、木漏れ日を浴びながら嫮生さんが現れるのを待っていました。

  その日は、NPO法人「絵本で子育て」センターの藤井勇市顧問、事実報道社の中西正幸デスクと三島史路氏に同席させていただき、福永嫮生さんよりそのドラマチックな人生について、お話を伺うという機会をいただいたのです。

 

 間もなく、嫮生さんが穏やかな笑みをたたえ、玄関口に現われました。ここから甲子園球場の近くにあるノボテル甲子園に場所を移し、昼食をいただきながら嫮生さんから貴重なお話を伺うことになっています。

  さて、ここで少し福永嫮生さんについて説明をさせていただきたいと思います。読者のみなさんには、もうご存じのことと思いますが、福永嫮生さんは愛新覚羅溥傑と浩の次女として1940年に東京でお生まれになりました。父親の愛新覚羅溥傑は清朝最後の皇帝で、のちに満州国皇帝に即位した愛新覚羅溥儀の実弟。そして母親の浩は天皇家の縁戚にあたる嵯峨侯爵家の出身でした。

両者の結婚は1936年に関東軍主導のもとでとり行われました。当時、関東軍に操られ、いわゆる傀儡国家であった満州国へ対する政略結婚でありました。 このことは『流転の王妃』(文藝春秋社、愛新覚羅浩/著)に詳しく記されています。

 今回の会見に向けて、無知である私は、予習のつもりで『流転の王妃』を読み始めました。そして、読み進むにつれ、愛新覚羅浩の半生についてはもちろんですが、その夫、愛新覚羅溥傑という人物にも大変興味がわきました。そして、始まりは政略結婚であったにせよ、日々の生活の中で育まれ、慈しみあう溥傑と浩夫妻の愛情。子どもたちに恵まれたのち、終戦までの穏やかな家族の日々。

 満州国の解体による夫婦の生き別れ、そして始まった浩と嫮生の1年4か月にも及ぶ中国大陸での流転の日々。まさに事実は小説より奇なり。私はその愛新覚羅浩の数奇な半生の物語にすっかり魅了されてしまい、予習のつもりが、その域をはるかに超えて、『流転の王妃 愛新覚羅溥傑・浩 愛の書簡』(福永嫮生/著、文藝春秋)や『皇弟の昭和史』(舩木繁/著、新潮社)、また、愛新覚羅溥儀の『わが半生』(ちくま文庫)や紫禁城についての書物も読み、果てはDVDでハリウッド映画『ラストエンペラー』まで見るに至りました。

  愛新覚羅家の人々の激動の人生に陶酔してしまった私は、半ばミーハーな気持ちで嫮生さんにお会いできる日を心待ちにしていました。

  しかし実際にお会いした嫮生さんは、「流転」というその激しい言葉からはほど遠く、周りに漂う空気をも優しく涼やかにしてくださるような方でした。

  さて、少し緊張した雰囲気で会食が始まり、みな最初は言葉少なでしたが、時がたつにつれ、嫮生さんのやさしい語りと誰に対しても同じようにお声をかけてくださる心遣いとで、次第に場が和み、徐々に会話が弾んできました。そして、好奇心が抑えきれずにいる私の陳腐で拙い質問のひとつひとつにも真摯に丁寧に答えてくださいました。また、それにまつわるご両親の思い出を淡々と語ってくださいました。

  戦後、中国に抑留されたお父様のことを、遠く離れた日本の地でいつもお母様が案じていらしていたことや、お姉さまの慧生さんが父親に会えるようにと、時の首相周恩来に手紙を書いたというお話。家族の愛があればこそ乗り越えられた試練であったのでしょう。

時代の渦に巻き込まれながらもご両親の愛を感じ、自分自身を信じ、そして今、日本と中国の友好を願う嫮生さん。溥傑がよく口にされたという「時代は変わっても相手を思いやる気持ちがあれば生きていける」ということばを体現されているように感じました。

  しかし、どんな立場であろうと、いつの世も戦争の一番の被害者は子どもたちだということを改めて感じました。

  数年前、嫮生さんから朝顔の種をいただきました。それは植物を愛でることを好まれたご両親が中国大陸で丹精された朝顔の種だということでした。「絵本で子育て」センターの事務局のベランダでは夏になると美しい大輪の花が咲き誇ります。嫮生さんはこの朝顔を「日中友好の懸け橋」だとおしゃっていました。嫮生さんのその思いを胸に、平和な世の中が続くことをこの花を見るにつけ願わずにはいられません。

(だいちょう・さきこ)