寄稿:中尾 卓英(なかお・たくひで)
1963年10月・神戸市出身。1987年〜92年・高校教員とNGO(国際交流・協力団体)職員、1992年〜現在・毎日新聞記者。
松江支局、神戸支局、大阪本社社会部、社会部阪神支局、福山支局尾道通信部長など。1995年の阪神・淡路大震災、2000年の北海道・有珠山、東京都・三宅島噴火災害、2004年の新潟県中越地震、インド洋大津波の取材などに携わった。東日本大震災では4月末から約1カ月間、宮城県石巻市、南三陸町、気仙沼市などで取材。12年4月から現職。取材テーマは「農&食」「まちづくり」「防災(減災)教育」など。現、毎日新聞福島支局いわき通信部長。
太平洋の大海原を臨む福島通りは「あの日」から、二度目のお盆を迎えた。鉦と太鼓で追悼の踊りを奉納する「じゃんがら念仏踊り」や、炭鉱の街として栄えた名残りの「いわき回転櫓(やぐら)盆踊り」などの伝統行事が、ゆく夏を惜しむ家族連れらでにぎわう。だが、今年は多くのお年寄りが「孫にけえって来い、とは言えねえ」と嘆くように、東京第1原発事故による見えない、聞こえない、におわない放射能汚染が濃い影を落とす。
メルトダウン(炉心融解)した福島第1原発20キロ南の双葉郡楢葉町は10日、立ち入りが厳しく制限された警戒区域から自由に行き来できる避難解除指示準備区域(年間被ばく線量20ミリシーベルト以下)に再編された。避難を強いられた11市町村の中での区域再編は、飯舘村、田村市、南相馬市、川内村に次いで5番目。原発立地自治体(福島第2)では初めてのこと。毎年この時期、先祖のお墓はもとより新盆を迎えた家々を数十軒供養して回る信仰心篤い浜通りの人々にとっては、節目の帰還でもある。
楢葉町下小塙(しもこばな)の酪農家、蛭田裕章さん(43)はこの日、前日までバリケード(県警検問所)のあった広野町境を抜けて、古里に入った。やませ(冷害)に苦しみながらも代々、1町5反の田畑と17町歩の山林を守り、こんにゃく芋や炭焼き、養蚕などで生計を立ててきた。祖父政章さん(89)、父公(いさお)さん(70)にならい、名門、県立相馬農業高で学び、北海道・酪農学園大を卒業。昭和30年代に「人に指図されるのは性に合わない」と、酪農を始めた公さんの経営を継いだ。
牛飼い生活は、朝夕の搾乳と生乳出荷、牧草地管理などなど休日もとれない忙しさだ。親子は牛舎のすべてを流された90年10月の集中豪雨など辛苦を乗り越えて近代化を進め、ソメイヨシノ約200本に囲まれた牧草地が広がる山あいに「蛭田牧場」を開設。130頭のホルスタインが約1トンの良質の原乳を生み出す牧場は、全国からの視察や行楽客も訪れる名所となった。
子どもたちに楽しさを伝えようと農業体験学習を企画した縁で95年、双葉町出身の姉さん女房ゆかりさん(47)と結ばれ、長女あやのさん(11)にも恵まれた。福祉施設職員のゆかりさんの帰宅は夕刻。あやのさんは、保育園、小学校帰りには毎日、祖父母と父がいる牛舎に通い、ホルスタイン特有の黒の斑点模様から、「リボン」「ピク」など仔牛の名付け親にもなった。
「うちのミルクはおいしいんだよ。温めた牛乳を先に入れると、ココアもコーヒーも甘くてコクが出るんだよ」。産まれたばかりの牛に哺乳瓶でミルクを与え、牧草地で牛を追い、出産にも立ち会った。絵を描けば牛ばかりで、学校での出来事を話しかけると、「モー」と返事がかえる。そんなアルプスの少女ハイジのような生活に、あやのさんは物心ついたころから「牧場を継ぐ」ことが夢になった。愛娘の成長に寄り添いながら、「もう少し規模拡大して、(生産から加工、販売まで手がける)6次産業でアイスクリームの販売も」と考え始めた家族を、原発事故が引き裂いた。
昨年3月12日の第1原発水素爆発後、防災無線は「国道6号を南に逃げてください」とがなり立てた。蛭田さんは4日後、入院中の祖父を気遣いながら祖母と父母を伴って約10キロ南のいわき市四倉町の親類宅に避難した。
蛭田さんは牧場に通い続け、放射能汚染された買い手のない原乳を搾って廃棄した。そして昨年4月22日、政府による第1原発20キロ圏内の立ち入り禁止措置が決まった。何度も「離れ牛」にすることを考えたが、近所迷惑になるのは目に見えていた。「ごめんな、ごめんな」と背をなでながら〝最後のえさ〟をやる蛭田さんの姿は、多くのメディアに取り上げられた。「何で牛を放たないんだ」と、実情を理解しようとしない人々のネットバッシングにもあった。
実はその後も、移り住んだ同市の借り上げ住宅から3日に一度、「抜け道」を約2時間走って牧場に通い続けた。車の音を聞くと、牛たちは「モー、モー」と近づいてくる。残った牧草や水を与えたが、仔牛は次々と倒れていった。バイクなどで警戒区域に入った動物愛護団体メンバーが、柵を壊す事件も起きた。牛舎を出た牛は、堆肥舎などで足をとられて窒息死した。
猛暑の昨夏。糞(ふん)まみれになった牛舎で、衰弱死した牛の傷跡はきれいだった。野犬や猪に喉元などを咬まれた亡骸。残った牛が水分を求めてなめたのだろうか。12月。ついに蛭田さんは残った11頭を安楽死させる苦渋の決断をした。牛はやせ細り、明日のいのちさえ危ぶまれた。「殺されることがわかってるのに、オレに近づいてくるんだ。『なんでそんなに利口なんだべ。暴れてくれよ』と心の中で叫んだんだ」。獣医が薬剤を打つと、痛みから涙を浮かべた瞳に、蛭田さんの顔が映し出された。
亡骸を埋めるため裏山の穴に運んだトラクターの轍(わだち)、がらんとした牛舎——。蛭田さんは一つ一つの〝生きた証〟をビデオカメラに収めた。「延命させようと通い続けたが、原発事故と放射能汚染の現実を受け止め、『自らの手で処分する』けじめをつける歳月だったのかな」。以後、蛭田さんは自ら命を絶つ方法を考え続けた。そんな時、思いがけず大学時代の酪農仲間から電話やメールが相次いだ。「再開する時は、いつでも言ってくれ。すぐに牛おぐっから」。多くの出会いに支えられて生きていることに気づいた。「人は一人で生きているんじゃない。困った人にお返しをできる人間になりたい」
一方、昨年3月11日、勤務先から駆けつけた母ゆかりさんと通っていた楢葉南小学校で一夜を明かしたあやのさんは、翌日、叔母のいる東京都足立区に避難。春、町が役場出張所を置いた約150キロ西の同県会津美里町の新鶴小学校に通い始めた。かわいがっていた牛の数頭が亡くなったと聞いた昨夏、居てもたってもいられず菅直人首相(当時)に手紙を書いた。クラスメートが、便せんや封筒に牛の絵などを描いて応援してくれた。
「わたしの家族は137(人)です。お父さんとお母さんとじいじとばあばとじいちゃんとばあちゃんと130頭の牛たちです」
「わたしは牧場をつごうと思っていて、お仕事を手つだってきました。今、生きている牛をぜったいころさないでください。しょぶんはヤダ」
「牛をはこぶトラックをさがしてください。はこべなかったらえさをあげられるようにしてください。お手つだいできる事ならなんでもしますのでほんとうにお願いします」
願いは届かず、官邸からは返事もなかった。
10日朝、蛭田さんの案内で牧場に入った。家族で毎日、放牧、搾乳、出荷、糞かき、堆肥作り、えさやりなどを繰り返した牛舎には今、周囲の山々から放射能を含んだ風が吹き抜ける。
「危険! 水やらないで エサやらないで 管理しています」。トラック荷台に書き込まれた動物愛護団体向けのメッセージが、蛭田さんのこの1年半の苦闘を物語る。「ミルクのみ 子牛うれしく しっぽふる」。あやのさんが残した句と愛らしい仔牛の絵が、休憩所に残っていた。「宝物だね。あやのが次ここに来られるのはいつになるか、わがんねえけど」。あやのさんには、「すべての牛が犠牲になった」と打ち明けられないままだ。
あやのさんは昨夏、母ゆかりさんに聞いた。「人って変われるの」。「自分らしく生きていたら、人生は変えられるよ」。新しい環境での学校生活に、引っ込み思案のあやのさんはずいぶん思い悩んだが、スクールカウンセラーに相談するうちに自ら解決策を見い出し歩き始めた。昨秋から週3日、小学校バレー部でスパイク練習などに明け暮れる。
「避難生活は、善と悪が交互に訪れるんだね」と蛭田さん。自宅と牛舎を往復するだけの生活を離れ、夏休みは、横浜、沖縄、東京ディズニーランドなどへ、冬には大好きなスキー旅行へと出かけられるようになった。あやのさんの身長は10センチほど伸びた。卒業するまでは会津で暮らし、中学からいわきに帰ろうと自ら決めた。「一緒に、風呂に入ってくれなくなったんだ」。蛭田さんはさびしそうに、娘の成長をかみしめる。
蛭田さんは先月、酪農家仲間ら8人でふるさとの除染作業を始めた。国などが言う人が暮らすために安全とされる年間積算放射線量1ミリシーベルト以下にするために、誰かがやらなければならない途方もない作業だ。牧草を集めたトラクターは、集められた田畑の雑草を巻き込んでいく道具になった。
8月4日には、下小塙地区の長老や青年団と共に、いわき市の仮設住宅で夏祭りを催した。許可を得て警戒区域に入り、双葉郡最古の木造建築物・木戸八幡神社から部材を持ち出して櫓(やぐら)を組んだ。新盆の家々を巡る「笠踊り」や、櫓太鼓の下であった盆踊りの輪は、地区住民の倍近くの600人に広がった。あやのさんも会津から祭りにやって来て、県内外に散り散りになった親友たちと再会を喜び、踊りの輪に加わった。
その夜。「2、3人からでも『やっぺ』という気持ちさえあればできるもんだなあ」「いつもの夏だと、20軒も30軒も倒れるまで踊ったなあ」「(アンコールに引っ掛けった)アルコールやガンバレの声が懐かしかった」「櫓を(楢葉の仮設住宅がある)会津美里でも見たいとリクエストがあったんだ」。仲間と飲む打ち上げの酒は、ほろ苦く、甘く、復興に立ち上がる気力をわかせた。
除染が進んでも、あやのさんを楢葉に連れ帰るのはいつになるかわからない。終戦後、シベリアで4年間強制労働させられた祖父政章さんは、いわきでの避難生活を「極寒の抑留よりしんどい」と、古里の土を踏むことを切望する。今春、楢葉では水稲の試験栽培が始まった。蛭田さんは町に試験酪農を働きかけている。結果が出たら、どこで酪農を再開するか決断できそうだ。
家族で古里に戻れる日が来ることを信じている。
(以下はあやのさんが昨夏、官邸に郵送した手紙)
わたしの家は(福島県)楢葉町で牧場をやっています。蛭田牧場といいます。
今は、あたりまえのようにやっていったえさも牛にやることができなくなりました。牛も人と同じです。今もとてもつらい思いをしていると思います。だから自分ばっかりひなんしてはダメって思っています。牛もひなんさせてください。
わたしの家族は137(人)です。お父さんとお母さんとじいじとばあばとじいちゃんとばあちゃんと130頭の牛たちです。
このまえお父さんが(新聞やテレビに出て)牛もがんばって生きていることをつたえようとしていたので、わたしも何かできることがないかとお母さんと相談して、この手紙を書きました。家もどうなるか心配です。
牛が17頭も死んでいると知ってなみだが出てきました。でも、ずっと子牛のころからせわをしていたリボンがテレビにうつっていてとてもうれしかったです。リボンと同じようにかわいがっていたピクが元気か心配です。
わたしは牧場をつごうと思っていて、お仕事を手つだってきました。今、生きている牛をぜったいころさないでください。しょぶんはヤダ。どこの牧場もいっしょだと思います。今、がんばって生きているんです。多く助けてください。
牛をはこぶトラックをさがしてください。はこべなかったらえさをあげられるようにしてください。死んでしまいます。お手つだいできる事ならなんでもしますのでほんとうにお願いします。 蛭田あやのより
古里・神戸で阪神大震災に遭遇して17年余り。北海道有珠、東京三宅島の噴火や新潟中越・中越沖、能登半島沖地震、インド洋大津波の被災地などでも取材を重ねてきました。福島いわき着任から4カ月余り。第1、第2原発などが林立し「警戒区域」「計画的避難区域」になった双葉郡8町村では、政府や地元市町村の判断で「避難指示解除準備区域」(年間被ばく線量20ミリシーベルト以下)「居住制限区域」(年間20ミリシーベルト超50ミリシーベルト以下)「帰還困難区域」(年間50ミリシーベルト超)への再編が進められようとしています。
原発爆発直後、着の身、着のまま古里を追われて避難先を転々とし、一時帰宅で朽ち果てたわが家や、雑草が生い茂る古里を目の当たりにした避難者の方々にとっては、帰還に向けて、ライフラインの復旧、防犯対策、役場、学校、病院などの公共施設の復旧、自宅周辺だけでなく農地山林などを含めた除染、そして東電に対する賠償交渉などなど、多くのハードルが待ち構えています。
神戸のニュータウンや埋立地に林立した仮設住宅では、先行きが見えなかった2、3年後の夏の猛暑が一番辛い時期だったことを思い出します。翻って「古里再生」のスタートラインにも立てない福島。16万人にのぼる県内外の避難者の中には望郷の念を持つ人、仕事や学校の関係で古里を離れる決断をした家族もいます。すべての選択が権利として認められる前に、避難した人、残らざるを得ない人、賠償をもらえた人、もらえない地域の人の間で「分断」が始まっています。
「人体実験だ。政府も東電も終息宣言、警戒区域の解除ばかりを優先している」「通学、通院、買い物、進まない除染、健康問題などを抱えたまま古里に戻れというのか」「せめて1週間、仮設住宅で、福島で暮らしてみろといいたい」。いわき市に暮らす33万人のうち、約2万人の方が放射能汚染を逃れて被災地を離れ、同じく約2万人の方々が双葉郡から移り住み仮設住宅、借り上げ住宅などに暮らしています。
ふるさととして福島に生きてきた人にしか、本当の辛さは理解できないのでしょう。阪神大震災をきっかけに誕生し、国内外の被災地にボランティア活動に駆けつける兵庫県立舞子高校環境防災科(神戸市)の生徒が話してくれた言葉を胸に刻んでいます。「過去の災害に学び事前に備えることで被害は減らすことができる」「防災とは家族、友達、地域の人、好きな人を増やすこと」。どうやって痛みを共有するのか? 沖縄で「ヤマトンチュウに、ウチナンチュウの思いは分からない」と言われ、「かわいそう」という上から目線ではないことば「チムグリサ(悲しみを共有する)」を教えてもらったことも反すうしています。
昨年3月11日以来、何度も頭を駆け巡る詩を紹介します。
絶望の隣に誰かがそっと腰かけた。
絶望は隣の人に聞いた。
「あなたはいったい誰ですか」
隣の人はほほえんだ。
「私の名は希望です」
「あなたにあえて良かった。初めて心の底から笑うことができた」
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
広島、長崎、沖縄、水俣、神戸・・・。筆舌に尽くせない痛みを持ち、分かち合ってきたから、「寄り添う」「絆」といった安易な同情は語らない。神戸出身の記者が広島を経て縁あって福島に来ました。4人の子供を持つ父親として、希望の種を、子どもたちに残す未来を、福島で考えながら、お便りを綴っていきます。どうぞよろしくお願いします。
高村光太郎の「智恵子抄」に編まれた安達太良山の紅葉に映える黄金色の稲穂が、厳しい全袋検査を待つ、東日本大震災と福島第1原発事故から二度目の秋。9月から10月、前任地の広島や古里の神戸から、多くの知人が福島を訪ねて来てくださいました。
奈落の苦しみから自力で起きあがることは不可能でした。人は誰かの役に立っていることを確認できて、初めて生きる喜びを見いだせるのです」。阪神淡路大震災で、神戸大2年生だった一人息子、貴光さん(当時21歳)を亡くした加藤りつこさん(64)=広島市=は、福島県立いわき海星高、いわき市立湯本第二中の生徒たちに語りかけられました。
貴光さんは湾岸戦争(91年1月17日)を機に、国連職員を志して神戸大法学部に進学。95年1月17日、西宮市の倒壊したマンションでかえらぬ人となりました。大学入学式前の93年4月、「子離れ」のため一緒に下宿を探し、新大阪駅での別れ際、貴光さんがコートに忍ばせた手紙「親愛なる母上様」(別稿)が遺されました。
東日本大震災に心を痛めた加藤さんは今夏、「広島と福島を結ぶ会」を立ち上げました。爆心4・8キロで被爆した語り部の内藤達郎さん(70)=同=、親愛なる母上様に曲をつけたミュージシャン、奥野勝利さん(38)=北広島町=らが加わり、コンサートや講演会の収益金などを、福島の子どもたちの成長に託すことにしました。
加藤さんの体験談にいわき海星高専攻科2年、戸田優作さん(19)は涙が止まりませんでした。海岸線にあった自宅は津波にのまれ、お父さんと笛や太鼓を奏でた春、夏の祭りなどの思い出と共に集落は壊滅しました。震災後、お母さんはがんを発症。「どうして自分だけ、という思いがずっと頭の中にあった。子を思う母の愛に、これまでとこれからを見つめ直すことができた」と話は尽きませんでした。
戸田さんらが結成したチームじゃんがらは、近所のお年寄りを避難誘導していて津波の犠牲になった同級生を追悼するため、いわき市の伝統芸能「じゃんがら念仏踊り」を継承しています。震災後入学した2年、高橋純香さん(16)は「辛い体験をした人が伝えることで、福島の現状を知ってもらうことができる。じゃんがらはその力を持っている」。加藤さんらは、チームを広島に招くことが目標になりました。
交流会で、放射能汚染で全域避難を強いられた川俣町山木屋出身の大内秀一さん(63)は「東京電力がいくら賠償金を積んでも、長年築いた農的暮らしは取り戻せない」と語りました。冬場スケートリンクを作るなど、主宰する自然塾で500人の子どもたちに古里の誇りを培ってきました。新天地での営農を模索しましたが、家族が寝静まった夜半、「ふるさと」を口ずさむ母次子さん(86)の姿に思いとどまったといいます。
「被爆を乗り越えた知恵は」。大内さんの問いかけに、父親と筑豊炭田(福岡県)に移り住むなど辛苦の青春時代を過ごした内藤さんは「広島に戻ったのは終戦3年後に亡くなった母への追慕から。67年たった今も被爆者認定を受けられない『黒い雨』問題がある。子どもたちの健康管理には気をつけてほしい」。宮城県女川町などで炊き出しやコンサートを続ける奥野さんは「大切なことは目に見えない。川俣のみなさんに心の声(音楽)を届けに来たい」と誓いました。
* * *
別の日。阪神淡路大震災の避難所、仮設住宅、災害復興公営住宅と17年間、一貫して被災されたお年寄りや障がい者を見守る活動を続けられている「よろず相談室」の牧秀一さん(63)がいわき市を訪ねられました。双葉郡の自宅と実家を原発事故と津波に奪われた小中高校生の子どもを持つお母さん(42)は一時帰宅の帰途、牧さんに訴えました。「現実と夢の境目が分からなくなり、心が折れそうになる」
今春退職されるまで、定時制高校で中学校まで不登校だったり、障がいを持つ子どもたち、戦後の混乱期に学習の機会を奪われた在日外国籍の生徒たちに寄り添われた牧さんは「ぼちぼちやっていきましょう。今まで頑張りすぎるほど、頑張ってこられたんやから」。そして、神戸の復興住宅や宮城県気仙沼市の仮設住宅で続ける、西日本の高校、大学生からの文通プロジェクト「忘れていないよ」を、福島でも始めることを提案されました。
私たちの税金が原資の東日本大震災の復興予算が、被災地とは直接関係のない沖縄、東京、北海道に支出されるなど、政治、官僚の劣化は目を覆うばかり。風化が進む一方で、被災地では家族や仕事、古里などの「生きがい」を奪われた人々が、将来への不安などが重なり精神的な痛みを募らせています。お母さんは仮設住宅を訪れた大臣にも「経済的に余裕がある人はみな、県外に避難した。残っているのは東京電力社員の家族や、年金生活者ばかり。子どもたちが安心して暮らせる環境を取り戻すにはどうすればいいの」と、問いかけられます。東電の賠償金をもらえる人、もらえない人、そして、福島から避難した人、残る決断をした人との間で「分断」が進む被災地では、外に向かって訴えることはむずかしいのです。
「信頼関係を築きながら一人ひとりの声に耳を傾け、生きる希望を見いだすまで寄り添うことが『心のケア』につながる」。再会を約束して広島、神戸に帰った加藤さんと牧さんは、異口同音に語られました。ジャーナリスト、柳田邦男さんが指摘される「何万人の復興」ではない、「一人称の視点」。人は辛い思いをじっくり聴いてもらい、自分が生かされた意味に気づき、立ち直るきっかけをつかむ。そんな居場所は被災地に限らず、街のあちこちにあるのが理想です。ご家庭で、地域で、学校で、読み語りを実践されるみなさんも今、生きにくさを抱える誰かに寄り添う一人だと思うのです。(なかお・たくひで)
「親愛なる母上様」 作詞 加藤貴光 作曲 奥野勝利
あなたが私に生命を与えてくださってから、早いものでもう二十年になります。
これまでに、ほんのひとときとして、
あなたの優しく温かく大きく、
そして強い愛を感じなかったことはありませんでした。
私はあなたから多くの羽根をいただいてきました。
人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること……。
この二十年で、私の翼には立派な羽根がそろってゆきました。
そして今、私はこの翼で大空へ翔(と)び立とうとしています。
誰よりも高く、強く自在に飛べるこの翼で。
( これからの私は、行き先も明確でなく、
とても苦しい〝旅〟をすることになるでしょう。
疲れて休むこともあり、間違った方向へ行くことも
多々あることと思います。しかし、)
私は精一杯やってみるつもりです。
あなたの、そしてみんなの希望と期待を無にしないためにも、
力の続く限り翔び続けます。
こんな私ですが、これからもしっかり見守っていてください。
(住むところは、遠く離れていても、心は互いのもとにあるのです。
決してあなたはひとりではないのですから……。
それでは、くれぐれもおからだに気をつけて)
また逢える日を心待ちにしております。
最後に、あなたを母にしてくださった神様に感謝の意をこめて。
翼のはえた〝うし〟より
加藤りつこさんのブログ(http://ameblo.jp/nobleheart/)
親愛なる母上様(http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=nRIE9gZIbIw)
よろず相談室のHP(http://npo-yorozu.com/index.html)
冬将軍が束の間の紅葉をけ散らした街で灯油の列に並びながら、放射線を恐れガソリンや生活必需品の供給はおろか報道関係者も消えたあの日を思う師走の浜通り。余韻に浸る間もなく「原発即時廃炉」「卒原発」などの大音量が通り抜ける。選挙の時だけ現れ、非難の応酬と離合集散を繰り返す永田町の人々。原稿が刷り上がった時、私たちはどんな未来を選択しているのだろう。「大切なことを決めるときは、7世代先の子どもたちのことを考えよう」というネイティブ・アメリカンの言葉を改めて胸に刻む。
衆院選が公示された4日、民主、自民、未来、社会の党首(総裁)が福島で第一声を上げた。「パフォーマンス。被災地が利用された気分」。野田佳彦首相の「福島の再生なくして、日本の再生なし」のリフレインをJRいわき駅前で聞いた佐藤夕祐子(さとうゆうこ)さん(42)は吐き捨てた。
福島第2原発のお膝元・富岡町の自宅を追われ、県内外の親戚宅を転々とし昨夏、いわき市の仮設住宅に入った。夫は三交代勤務で収束作業に当たり、仮設住宅のまわりの草刈りや防犯パトロールにも汗を流す東電社員。高校生から小学生まで3人の子どもを育て、佐藤さんも町臨時職員としてお年寄りらの相談に乗る。
4度の一時帰宅で、セイタカアワダチソウに覆われ線量の高い自宅に戻ることはあきらめた。演説後、佐藤さんは小走りに野田首相に駆け寄り握手した。「もっと被災地や仮設住宅の現状を見てください」。「分かりました…」。続く言葉は冷たい雨の音にかき消された。
* * *
震災から1年9カ月。いわき市から県内外に避難した母子は約8000人。被災地全体では32万人が避難生活を余儀なくされ、浜通りに残った人々も住まい、仕事、ダブル・トリプルローンなど課題が山積だ。佐藤さんのように「生きがいを取り戻そう」という人も徐々に増えているが、離婚やDV、虐待も潜在化する。
古里を襲った阪神淡路大震災。ニュータウンや人工島の仮設住宅では、国に見捨てられ、時間と空間、復興感の格差が広がり、先が見通せなかった2、3年目の夏が一番辛かったことを思い出す。ローンを積んだ住まい、人生が刻まれた場所、仕事、何より愛する人を奪われた友人や家族の中には、18年になろうとする今も、立ち上がれない方々がいる。古里を奪われた福島では、どれだけの時間がかかるのか。
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全町避難が続く浪江町が今夏まとめた復興計画に、「ふるさとなみえ科」で学ぶ小学6年生の作文が掲載されている。「大好きなふるさとが放射線がなく安心して住めるようになってほしいです」「漁業などが盛んな町。仕事をなくした人の役に立ちたいし、生まれ育った町で働きたい」「機械に乗って町をきれいにしたい。浪江で米をいっぱい作ってみんなにたべてもらいたい」
子どもたちの願いに応えるのが、政(まつりごと)ではないのか。東北では「国を治める者にとって、地方は政策遂行のための客体」だと周縁が語られてきた。国策に翻弄され、石炭に変わり電力供給の任を押しつけられた福島には、公共事業と働き口、不満を覆い隠すための補助金が次々につぎ込まれ、人々に矛盾と分断を強いてきた。
原発事故後、除染などで出た高線量の災害がれきを長期間保存する「中間貯蔵施設」を、「道路や補助金がおります。世界から見学者がやって来ます」と甘言を弄し、立地を迫る。今夏、一時帰宅が始まった楢葉町の松本幸英町長は、帰還を妨げる「最大の迷惑施設」と吐き捨てたが、いつまで突っぱね続けられるのか。基地問題に悩む沖縄、公害問題に悩む水俣、エネルギー政策に翻弄された筑豊。人のこころはお金では買えない、と信じたい。
そんな7日夕、三陸沿岸は震度5弱の強い余震に見舞われた。「命を守るため急いで逃げてください」「東日本大震災を思い出してください」。テレビやラジオの叫び声は明らかにこれまでとは異なった。沿岸部では、防災行政無線などに導かれ高台の体育館に駆け込んだ中学生がいた。除染と原発収束作業の前線基地で、今年3月末の避難指示解除後に約600人が帰町した(全町民約5500人のうち1割強にとどまっている)広野町でも、お年寄りらが公民館に自主避難した。「強い揺れを感じたら、てんでんこ(てんでばらばら)に避難する」。大震災の教訓は守られたようだ。
あの日の教訓をまちづくりに生かそうと、立ち上がった高校生がいる。いわき市の県立磐城高2年、新家杏奈(しんかあんな)さん。昨春から、週末や長期休みを使って60日間、天文地質部の約20人と同市久之浜から勿来まで約60キロの海岸線を歩いた。延べ600人に被災状況を聴き取って、浸水範囲や津波高を地図に記し、津波の痕跡も調査した。
きっかけは「なぜ、同じ市内、地域の中で、津波や家屋の被害に差が出たの」という疑問だった。幼い頃からよく遊んだ同市平神谷(かべや)の新舞子浜が壊滅。教員の両親は、教え子を亡くしたことを悔いた。余震が繰り返し、放射線量も高かったが、遺族に話を聴き海岸線に供えられた花を見るたび、「津波が恋人?」という友人のひやかしや家族の反対も気にならなくなった。
* * *
分かったことは、津波が用水路をさかのぼり浸水範囲を広げた(四倉北部)、防潮堤が流され標高の低い港町が壊滅(平薄磯、豊間)、土盛りのない古い民家に浸水被害が多い(小名浜)。逆に、防潮林と海に平行し迂回した横川が浸水範囲を狭めた(四倉南部)、防災訓練を繰り返し人的被害がほとんどなかった(江名)——など。
緻密な調査には、同部OBらの「いわき自然史研究会」が同行。福島海上保安部は海底地形図を提供した。東北大大学院工学研究科の今村文彦教授らは津波の伝播速度や進行方向などメカニズムを解説してくれた。その教えから新家さんらは今、手作りの津波発生装置で実験を繰り返す。どのような地形が被害を拡大させるのか。そのことを解明し、防潮堤の高さや河川、防潮林など土地利用計画も盛り込んだハザードマップを作り、いわき市や地元住民への提言を目指している。
直接死者のうち9割以上が住宅倒壊による圧死・窒息死だったことから「住宅・公共施設の耐震化などで『備える』」。そして、家屋の下敷きになった3万人近くの8割の人々が、消防や自衛隊ではなく、近隣住民の手で救い出されたことから「地域の、家族・コミュニティーの絆を深める」。阪神淡路の教訓を被災した人々自身が語り始めたのは、発災5年以上がたってからだったと思う。
新家さんらは1月13日、神戸市中央区の兵庫県公館でこれまでの取り組みを発表する。神戸に遺してきた、全国の子どもたちの地域防災の取り組みを顕彰する「ぼうさい甲子園」で、応募100超の中から優秀賞に選ばれたのだ! うれしいニュースは、震災前3年連続でぼうさい甲子園に参加してくれた岩手県・釜石東中学校の子どもたちが、高台からさらに高台へ、そしてもう一度高台へと自分たちの判断で率先避難し、全員の「いのち」が守られたことを知ったあの日以来かもしれない。
「二度と、同じ悲劇を繰り返したくない」。行政や地域を巻き込んで災害に強いまちづくりを進める高校生は、福島の財産だ。お時間のある方は、会場で、全国の子どもたちの声に耳を傾けていただければ幸いです。
18年前のあの日を思い起こさせる、淡路島を震源とする激しい揺れ。皆さまが平安でいらっしゃることを、心からお祈りいたします。
旧聞になりますが、まだ肌寒い3月。福島浜通りは、以前このたよりでも紹介した「いわき海星高校」センバツ出場にわいた。初戦惜敗だったが、ひたむきに、全力でプレーしたナインにスタンドは温かかった。「また、帰ってこいよ」。主将の坂本啓真くん(3年)は、「桜」が大好きだと言う。「お花見って、桜を見てみんな笑顔になるでしょう。応援してくれる人に希望や勇気を届けられたら」。
入学から2年、津波で壊滅し砂に埋まったグラウンドで、ボランティアや県外の高校生とがれきを拾い、見ず知らずの人が贈ってくれたバットやグラブを使って練習し昨秋、県大会で16強入り。「甲子園に立つ自分たちの姿が、恩返しになれば」。学校近くの旧小名浜測候所の標準木は今月、東北に春の訪れを告げるように満開のピンクの花を咲かせた。
3月1日にあった高校卒業式。校舎の大半が全半壊した磐城農業高校では、154人が巣立った。2011年4月11日午後5時16分の内陸型大規模余震で、いわき市田人町石住の自宅裏山が土砂崩れに見舞われ、帰らぬ人となった高橋愛さん(当時16歳)は、父久雄さん(58)、母イミさん(47)が、本人に代わって卒業証書を受け取った。
小中学校合わせて20人足らずの石住地区。運動会には、70世帯150人のほぼ全員が参加する、地域が家族のような山里。愛さんは帰宅後、祖父貞夫さん(73)に連れられ、妹希(のぞみ)さん(16)と畑仕事や山菜、キノコ採りが日課だった。週末には、母と自宅周辺を花いっぱいにし、「花屋さんになりたい」と同高に進んだ。
震災で休校中だったあの日、家族4人食卓についた時、激震とともに裏山が崩れた。スーパー勤めの父は、山道を何度も迂回して日付が変わったころ病院に到着したが、既に愛さんの息はなかった。母は奇跡的に軽傷で、祖父と妹は尾てい骨骨折などの重傷を負った。「妹を毎日風呂に入れてくれた優しい娘。中学の英語弁論大会で入賞するなど、将来が楽しみだった」。母は学校送迎に通った県道を、今も走ることができない。時間は止まったままだ。式後、久雄さんは涙ながらに語った。「一緒に卒業でき感謝しています。今がスタートライン。愛の分も成長してください」
「愛はいつまでも心の中に生き続ける」。園芸科クラスメートで、お弁当も放課後も一緒だった宗像沙奈さん(18)と片桐美紗さん(同)は、愛さんがつづった15通の手紙のコピーを両親に手渡した。公園で恋バナに花を咲かせ、週末はカラオケでフランプールを熱唱した。郡山のデパートで買ったおそろいのネックレスは宝物。入試休みだった3月11日は、レストランで激震に襲われ一緒にテーブルの下に隠れた。愛さんと会った最後になった。「前世から一緒だったんだねって。進学後、東京で一緒に住もうと言ってたのに」
片桐さんは放射能汚染を逃れて1カ月間、新潟県の親類宅に避難した。「みんなが苦しんでいるのに自分は避難していてもいいの? 被ばくするのも恐いし」。愛さんからメールに返信があった。「大丈夫。生きて学校で再会できるから」。約束は果たせないままだ。手紙は思いやりがあふれる。「まだまだ寒いから(誕生日プレゼントは)あたたかい靴下にしてみたよ」。共通の趣味だった宗像さんのカメラには、100枚以上のほほ笑む愛さんがいる。
愛さんは、2人に夢を語っていた。「人の話を聞くのが得意だから、カウンセラーのような仕事に就きたいな」。デザイナーを目指して写真専門学校に進む宗像さんは「会える日まで、これからもずっと、愛と一緒に人生を歩みたい」。果樹栽培に没頭し命に向き合った片桐さんは、難関を突破し看護専門学校へ。「その日、その時を大切に生きていきたい。それが愛への恩返し」。人々の心から忘れ去られた時、人は二度目の死を迎えるという。彼女の愛らしい笑顔を、心の優しさ、将来の夢を、忘れないでいたい。
福島第1原発5・5キロ(大熊町)の母校を追われ、双葉翔陽高校の卒業式はサテライト校をおくいわき市であった。吹奏楽部で一緒に夢を追いかけた樫村瑠菜さん(当時16歳)を失った双葉町出身の伊藤遥さん(18)と浪江実央さん(18)は、卒業アルバムの瑠菜さんの姿に、涙があふれた。「笑顔をくれた瑠菜の分も、一生懸命生きていくよ」
2年前の3月11日、浪江さん宅にいた2人は、着の身着のまま近くの双葉中に避難した。「かしむらるなさん。探しています」。町職員の呼びかけに胸騒ぎがしたが、翌日、1号機爆発の兆しに親類などを頼って町外に避難。携帯電話が通じると一斉にメールがはじき出された。「瑠菜が死んじゃったよー」。祖母を避難させようと外出先から海辺近くの自宅に戻り、津波に巻き込まれたと告げていた。
双葉中で初めてクラリネットを手にした遥さん。幼い頃からピアノを習った実央さん。練習中に鬼ごっこを始めた瑠菜さんと衝突したこともあったが、文化祭のバンドで陽気にドラムをたたき、打ち上げのファミレスでお茶をし、夏には、海水浴場で花火大会や肝試しに戯れた。高1の初日の出では、パティシエになりたいと語った。クッキーは甘くておいしかった…。
遥さんはSPEEDIのデータで線量が高いことを知らされないまま、浪江町津島を経て、母(38)の実家の飯舘村長泥、そして郡山市の高校体育館へ。スクリーニングを受けてからでないと避難所に入れないと言われた屈辱を忘れない。一方、親類を頼って岩手県花巻市へと避難した実央さんは「友達は、学校は、どうなっちゃうのと考えると、涙が止まらなくなった」。連絡を取り合った2人の両親は「このままでは、心まで壊れてしまう」と判断。3月末、郡山市の避難所(学校)で合流した。
4月、学校再開のためさらに猪苗代町のホテルに。2人は片道2時間かかる会津坂下高(サテライト)に通った。「(大熊から)先生が持ち出してくれ楽器で、相双連合で出場した野球部を応援できた」。2学期には、いわき市の仮設住宅、借り上げ住宅に家族で移り昨春、同市内の大学敷地内に統合された〝母校〟で他の仲間と抱き合った。だが、転校した同級生も多く5クラスは進学・就職の2組(65人)になった。
同じ大学敷地内に統合した県立双葉、富岡高生と20人で吹奏楽部を再結成。カリキュラムが異なり合同練習は10日間だけだったが夏、組曲「たなばた」で地区予選を突破し、県大会に進んだ。生徒手作りの文化祭で、仲間から拍手喝采されたことも忘れられない。
帰還困難、居住制限区域(年間被ばく線量20~50㍉シーベルト超)への再編が濃厚で、ふるさとは確実に失われていく。震災後も第1、第2原発で働いた遥さんの父(40)は過労と心労が重なりドクターストップ。今春、幼稚園と小学校に進学した弟妹を含む4人きょうだいの長女の遥さんは「原発事故収束も、役場の帰還も、大人は私たちのことなんて何も考えてないんだ」。小学生の妹がいる実央さんと「健康管理手帳を発行しても、双葉町だけ埼玉に避難したまま学校がなかったら、子どもがいなくなるじゃん」とあきれる。
行き場のない悲しみや苦しみ、怒りは、家族と仲間と一緒に乗り越えてきた。いつも心には瑠菜さんの笑顔がある。いわき市内の大学へ進んだ伊藤さんは「英語で海外で通用する子どもをはぐくみ、吹奏楽部では生徒と一緒にステージに立てる先生に」。同じく短大に進学した浪江さんは「ピアノで一緒に歌って、絵本を読み聞かせて、保護者とも信頼関係で結ばれる保育士に」。夢に向かって進む。
◇ ◆ ◇
人間は何と「忘れやすい」動物なのだろう。戦争、災害、公害、老い、障がい、虐待…。自らも経験した、あるいはするであろう「悲嘆」や生きがいの「喪失」にふたをして、私たちは戦後を歩いてきた。だからこそ、生きられるのかもしれない。だが、そこから「共感」は生まれない。想像力を働かせたい。家族から、地域から、職場から、学校から。3月11日、三回忌を終えたその日も、それから1カ月がたったきょうも、浜通りは地震と津波、原発事故とその風評被害にさいなまれている。にもかかわらず、この国は、再びバブルに浮かれ、あれだけの過酷事故を起こし、今も収束するどころか放射能をはき出し続ける原発再稼働に、突き進んでいる。
入梅と震災月命日の6月11日。童謡「とんぼのめがね」発祥の福島県広野町では、阿武隈山系に源を発する清流が作付解禁された田んぼを潤す。だが、太平洋から遡上したアユからは放射性セシウムが検出され釣り糸を垂れる人はない。浅見川上流の里山公園では、以前は子どもたちが収穫したサクランボ佐藤錦の完熟した実が根元に散る。東京電力福島第1原発20キロ圏の町に戻った人は、震災前の五分の一の1000人にとどまる。
それぞれの場所で様々なこと考えそれでも歩いてく
原発事故の後始末も置き去りに、再稼働、輸出に突き進むこの国の大人たち。子どもたちの思いを聞こうと、福島県いわき市立平三小から広島市立船越小(当時6年)に転校した三浦友菜(ゆうな)さん(12)と家族を訪ねた。父芳一郎さん(43)は震災直後、悩み抜いた末、長女莉衣菜(りいな)さん(14)と次女友菜さん、三女愛奈(あいな)さん(6)を、妻綾さん(40)の実家がある広島市に避難させた。
「私の家族は五人います。でも今、広島にいるのは四人だけです。東日本大震災が起きてしまったからです。お父さんは仕事をしなくてはならないので、広島に住むことができません。福島には、自分の家でくらしたくてもくらせない人がたくさんいるし、福島第1原発からはなれたくても、仕事でそこに入らなければならない人もいます」。
友菜さんがつづった作文「幸せな世界」は昨年8月6日、広島平和記念式典で「平和への誓い」の一部に採り入れられ世界に発信された。胎内被ばくした祖母がいる広島に避難し平和記念資料館(原爆資料館)を訪ねショックを受けた。それにとどまらず、戦争で一人ぼっちになった、世界の子どもたちの窮状にも思いを広げた。
「平和とは、世界にいるすべての人間が幸せになることだと思います。戦争をしていなくても、放射能のことを心配してくらさなければならない今の日本は、決して平和とは言えないと思います。私は、世界から戦争と放射能の心配が消えて、一日でも早く、福島で家族五人が安心して楽しくくらせる、あたり前の日が来てほしいと思っています」。
「友菜から毎週メールがくんだ。『パパ、大好き』『パパがいないとさびしいよ』ってね。たまらなくなる」。そう語る芳一郎さんはいわきに残り、父秀一さん(75)から継いだ社員26人のオフィス機器販売会社を切り盛りする。会社の清算も考えたが、原発のある双葉郡の取引先から「福島を再生させたい」と聞かされた。「会社を育ててくれた人たちが困っている時に逃げられない」。青年会議所(JC)理事長を務めた時の仲間が、富岡町から家族で千葉に避難し仕事を探していると聞くと、介護施設を運営する地元の元JC理事長を紹介した。いわきでホテルを再開したいと相談された時には、付き合いのある建設会社につないだ。
中学校の制服も持ち出せないまま広島に避難した莉衣菜さんは広島での生活が2カ月になった2011年5月、転校先の広島市立船越中で授業中、涙がぽろぽろこぼれた。「寂しさ、悲しさ、無力感。ごちゃ混ぜ」。綾さんと校長が相談し、吹奏楽が盛んな隣の矢野中を見学した。「これだ」。小学校時代、盆と正月以外没頭し、全国大会の常連だったサックス。「もう泣かないから」。離ればなれになったいわきの友だちとは、電話やメールで近況を報告しあう。塾にも通い始めた。「父はお仕事を頑張っている。母は自分たちのことを考えてくれる」。広島の高校に進学し、大学に入って獣医になりたいと目標を定めている。
友菜さんは「広島の方が安心して暮らせる。いわきでは、食べ物に気を遣うし外遊びも自由にできない」。いわきには一緒にマーチング(ガード)で頑張った仲良しの友人がいる。今春、綾さんに話した。「帰るなら、今かな」。ただ、莉衣菜さんが再度転校するのはかわいそうだし、お姉ちゃんだけ広島に残るのもさびしい。綾さんに「自分で決めなさい」と言われ、「もう少し、ここで頑張ろうと」。今春から莉衣菜さんと矢野中に通い吹奏楽に没頭する。「ちっちゃい子と遊ぶのが好きだから、将来の夢は幼稚園か小学校の先生に」
今春、友菜さんと愛奈さんの小中学校入学式に出席した後、夫妻は改めて話し合った。「莉衣菜が高校に進学する来年には、帰ってきたら」。「私が帰りたいときにさんざん帰ってくるな、って言ったのに。自分が寂しいからって、(それは)なくない」。子どもたちはどんどん成長し、広島の生活に慣れていく。出した結論は、「子どもの健康を守る。第二に夢と目標を応援する」ことだ。広島との二重生活は当分続きそうだ。
故郷が安らぎの場所に戻ることを心から願う
いわき市は東日本大震災(3・11と4・11大規模余震)で犠牲者計441人を数え、全半壊家屋9万棟と仙台市に次ぐ被害を受けた。人口33万人の中核工業都市には、広野町をはじめ福島第1、第2原発のある双葉郡などから2万4000人が住民票を移さないまま避難。除染、原発収束作業員数千人も集住する。三浦さん家族のように、母子を中心に3500世帯、約7600人余りが県内外に避難したままだ。賠償を「もらえる・もらえない」、県産の食材を「食べる・食べない」など、分断は時と共に広がる。いわきを舞台に先月執筆した特集記事「共生遮る誤解の連鎖」には、全国から多くの反響が寄せられた。
(http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20130524ddm010040016000c.html)
綾さんは言う。「生き辛さを感じた時、誰もが、語り合える居場所、寄り添う人が必要だ」。4年前から、自宅を解放し託児や料理教室などを開いてきた。今春から、双葉郡から避難してきた女性も参加する。「原発を認めてきた私たちは、子や孫に申し開きのできない事故を起こした加害者」。「じっじ、ばっぱと離れて、子どもの面倒を見てくれる人がいないから働きたくても働けない」。さりげなく聞き役に徹する仲間のスタッフが誇らしい。結婚17年。父親の仕事で全国を転々とした綾さんにとってもいわきは故郷なのだ。
芳一郎さんと筆者は、互いに広島に妻と子どもがいる「単身赴任」生活。焼き鳥をつまみながら、問わず語りに教えてくれる。賠償の多寡やゴミ出しのマナーなどを巡り、避難者や市民同士のあつれき。一方で、家も墓も故郷のすべてを奪われた塗炭の苦しみの中、再起を図ろうとする仲間。「みんな初めてのことだから、どうしていいか分からない。あと1年もすれば落ち着くよ」。生まれ育った故郷が安らぎの場所に戻ることを、心から願う。
8月3日の遅い梅雨明けに合わせるかのように、青森ねぶたや秋田竿灯など伝統の祭りが東北の短い夏を巡る。福島県いわき市では、仙台にならった七夕祭が月遅れで開かれた。東京電力福島第1原発事故で古里を追われた、双葉郡などの避難者約2万4000人の人々が暮らす同市の仮設住宅集会所などで手作りされた巨大な笹飾りが、駅前通りを彩った。多くの人の「終のすまい」になるであろう災害公営住宅(仮の町、町外コミュニティー)の建設に向け、地元いわきの人々とのあつれきを越えた共生への模索が続く。
いわき市中央台のいわき明星大学の校舎で学ぶ県立双葉高校(刈屋俊樹校長)では8月初め、自主映画制作がクランクアップした。在校生65人のほとんどが浪江、双葉、大熊、富岡、楢葉町など双葉郡出身。3年生の夏休みはクラブ活動最後の大会や進路を決める三者懇談、補習授業、帰省など多忙を極め、「本当に映画を作れるの」「受験勉強が忙しい」などの不安もあった。だが、当初はぎこちなかった監督やカメラ、音声も堂に入り、完成が待ち遠しい作品に仕上がってきた。
3年1組の「椿の季(とき)」は、記憶が24時間しかもたないが「3・11」だけは心にとどめる少女結友(ゆう)が、級友との交わりの中で夢に歩み出すストーリー。一方、3年2組の「縁」は高校受験で顔を合わせた別の中学出身の男女4人が2年後、「あなただったの!」と気づく実体験に基づくファンタジーだ。春、「今まで生きた中で最も心に残ったこと」をテーマに全員が書いた作文が、クラスごとの脚本の基になった。
震災があった11年春に入学した3年生。一度も母校の門をくぐることなく福島、会津、郡山、いわきと、自治体が避難した県内4つのサテライト校などに散り散りになった。昨春、いわきに集約された学校に戻ったのは定員の5分の1に満たない34人。脚本を担当した山本綾子さん、夏目日向子(ひなこ)さんは、大熊町を追われ各地を転々とした後、同市の仮設住宅や、親元を離れた寮で生活する。「避難所生活など負の面もたくさんあったけれど、家族や友人との絆が深まった。仲間に囲まれ成長する登場人物は、『今』が反映されていると思う」
完成した映画の上映会は、創立90周年記念行事の一貫で10月11日にある。同高OBで指導にあたった映画監督、佐藤武光さん(64)は、震災後、ドキュメンタリー「立入禁止区域・双葉~されど我が故郷」もとった。「個性や価値観をぶつけあいながら、共同制作を通じて大きなものをつかんだ」。震災後、繰り返し襲う喪失と悲嘆の中、生徒に寄り添ってきた3年担任でやはり同高OBの太田英成教諭(59)は「子どもたちはこれ以上頑張れないほど、頑張ってきた。夢に向かって走る一人ひとりをありのまま受け入れ、導いていくのが、私たち大人の務め」と語る。
あなたのせいじゃない
双葉高校をはじめ仮校舎でサテライト授業を続ける県立高5校は今、存続の危機を迎えている。同郡8町村の教育長らでつくる協議会が7月末、2015年度の開校を目指して中高一貫校の新設を決めたからだ。郡内の小中学生は震災前の7943人から1142人(今年4月)に激減。既に古里への帰還が始まった広野町、川内村ではそれぞれの小中学校を開設したが子育て世代の帰還が進まない。放射線量が下がらないことへの不安や、子どもたちが避難先の学校に慣れ、保護者を含めた暮らしの再建も本格化している。
創立90年の双葉高校には、親も同高OBという在校生が数多い。「大人の都合で何度も転校させられ、やっと落ち着いてきたのに」「もっと早く仮設校舎を設けて維持できなかったのか」。親子の思いを受け止めるように2、3年生15人は6月、ボランティア部を立ち上げた。「双高魂」「90th」が染め抜かれたTシャツでいわき駅前などの清掃や、津波被害を受けた同市海岸部で植樹活動などを行う。富岡町出身の部長、滝沢千夏さん(3年)は郡山といわきにいる家族とバラバラに暮らす。「お世話になっているいわきの人に恩返しができたら。双葉高校をアピールし存続を目指したい」
「私たちが福島で生きていることを忘れないで」。楢葉町出身の同高3年、矢代悠(はるか)さん(17)は7月、バスツアーで訪れた首都圏の老若男女41人に、涙ながらに語った。昨夏、NPO活動が盛んな米サンフランシスコを訪ね、地域経済や雇用、路上生活者の居住支援など社会貢献策を学んだ。その成果を風評被害に苦しむ古里に還元しようと、旅行会社にツアーを提案。トモダチトラベルの頭文字をとって「TOMOTRA(トモトラ)」が実現した。(https://www.facebook.com/tomotravel)
ツアーには、映画の舞台になったスパリゾートハワイアンズ現役フラガール指導のフラ体験教室、特産品のかまぼこや手すき和紙のハガキ作りなど10代後半の古里の誇りが随所に盛り込まれる。「添乗員」の悠さんも道中、参加者に語りかけた。一時帰宅した町は除染廃棄物を詰めたフレコンバックで山積みになっていたこと、除染後も自宅周辺の放射線量が十分下がらないこと、収束作業のため原発構内に通う東電社員の父(51)ともども将来が見通せないこと…。別れ際、母(49)手作りのつるし雛を手渡した。「原発事故が起きたのはあなたのせいじゃないって受け入れてくれたいわきの友達がいたから、今の私があるんです」
伝統は息づいている
双葉高校との出会いは2008年1月、神戸で全国の小中高大学生の防災の取り組みを顕彰する「ぼうさい甲子園」(毎日新聞社など主催)でグランプリに輝いた同高生を取材したことにさかのぼる。「安心カード」(04年10月の新潟県中越地震をきっかけに登下校時、生徒たちが地域のお年寄りの安否確認と交流)▽「ゆりかごベルト」(床ずれ防止のベルト)▽「リラックスベルト」(入浴介護の補助用具)など、特許取得もした生徒の独創性あふれる取り組みは、高い評価を受けた。
「いのちを共有し共に生きることはすべての教育の根底。学力向上も大事だけれど、思いやりが人間としての土台を築く」。当時の顧問、荒由利子先生の言葉は今も胸に残る。今回、映画制作の取材などで知り合った子どもたちも、塗炭の苦しみを経験し「カウンセラーを目指して推薦入試に挑みます」(悠さん)「原発事故にあった子どもやお年寄りの健康管理のため保健師や放射線技師になりたい」(綾子さん、日向子さん)「保育士や幼稚園の先生があっているかな」(千夏さん)と教えてくれた。伝統は息づいている。彼女たちの行く末に、本物との出会い、笑顔と幸多かれと、祈る。
節気は寒露、会津から中通り、浜通りへ紅葉が舞い降りる。震災から1000日になろうとする木々を彩る紅はこの秋、ひときわ悲しい輝きを放つ。「完全にコントロールされている」「健康に影響はない」の号令下、国こぞって突き進む東京五輪、経済成長再来ムーブメント。忘却と反比例するように、フクシマでは悲嘆、喪失、絶望が進行している。
大量の忌まわしい放射能をまき散らした東京電力福島第1原発は、参院選自民大勝にわいた7月22日に端を発した汚染水漏れなどのトラブルが、発表されただけでも40回相次いだ。連日収束作業にあたる下請け、孫請けの東電関連会社員約3000人は、双葉郡などの除染作業と比較しても、危険手当や被ばく線量が格段に違い、割に合わないと、士気の低下が深刻だ。
また、被災地で切望される防潮堤や災害公営住宅、区画整理・防災集団移転などの復旧復興現場では、「(基礎工事の)鉄筋工が集まらない」「建設資材高騰が深刻」と、起工後も野ざらしにされたままだ。五輪招致スピーチと現実の余りの違いに肝を冷やしたのか9月19日、タイベックスーツと赤いヘルメットに身を包んで安倍首相が福1に入った。
この日、3年ぶりの試験操業再開に向けて協議したいわき市漁協の矢吹正一組合長(76)は「繰り返し汚染水と風評被害対策を求めてきたが、何も示されない。『ブロックされている』なら我々漁業者にも直接説明すべきだ」。江川章副組合長(66)は「漁を始めないと、後継者も子や孫も、だれも漁業の町に戻ってこない。『コントロールされている』と大見えを切ったのだから、福島の魚を家族で食べて風評被害払拭に努めてほしい」。
230世帯が避難生活を送るいわき市南台の双葉町民向け仮設住宅では毎朝、住民20人余りが集会所前で健康維持のためのラジオ体操をする。既に10世帯が、いわき市内や隣接する北茨城市などの中古住宅に移った。古里は除染で出た高濃度廃棄物を最長30年間保管する中間貯蔵施設の候補地。原発立地町が受け入れるしかない、と覚悟を決める町民が増えつつある。
「戻りたいけれど戻れない。2年以上が過ぎた仮設住宅も玄関の底板が抜けるなどほころびが見え、台風のたびに飛ばされるんじゃないかと脅えている」。独居高齢者の見守りを行う生活相談員の黒木貴美子さん(55)は母(82)と2人暮らし。原発直下の自宅に一時帰宅するたびネズミの糞や雑草に覆い尽くされ、帰還はあきらめた。安倍首相に言いたいことは? 「五輪やリニアモーターカーの前に、まず、仮設住宅の環境整備と、災害公営住宅の建設。このままではみんな先に進めない」。当然だろう。
双葉町の北にある、やはり全町避難が続く浪江町。「不眠や体重増、高血圧など持病悪化や、要介護認定度が高くなるなどのケースが増えている」。日本赤十字看護大の保健師、相原綾子さんは語る。2年7カ月に及ぶ避難生活のストレス、コミュニティー形成の困難さ、生活不活発症状…。町では震災後、約1万4500人の町民が県外(6500人)のほか二本松、南相馬市などにバラバラに避難した。仮設住宅がないいわき市にも借り上げ住宅に2200人が暮らし、同大学は昨秋から健康調査を実施してきた。
相原さんが最も気がかりなのは、子どもたちの二次被害だ。「賠償金の有無によるあつれき、家や車へのいたずら、生活環境の変化。元々農作業に出ていても自宅にひきこもるお年寄りが多く、家族も介護で付きっきり。若年・中年層では就職先をパワハラで辞めるケースも多い。そんな家族のストレスが、不登校や虐待など子どもたちに反映され始めた」。
帰還できる・できない、賠償金をもらえる・もらえない中、さまざまな問題が、輻輳し渦巻き、人々の心の「分断」が内と外で進む。阪神・淡路、有珠山・三宅島噴火、新潟中越、インド洋大津波など、国内外の災害でも経験したことのない事態。足尾銅山鉱毒事件や水俣病などの公害問題、広島・長崎原爆被爆、ハンセン病元患者の隔離政策、旧満州や南米などの開拓移民政策などからの、人々の心の再生に学ぶことが多いのかもしれない。今、必要なのは、財物賠償などお金に替えられない「喪失」を一人一人が認識し、「絶望」に至る前に、回復に必要な制度、法律を考えることだ。時間は限られている。
最後に、いわき市で内部・外部被曝リスクから子どもたちを守ろうと、学校給食や校庭の土の線量測定などに奔走されている「いわき母笑みネットワーク」の千葉由美さんが五輪招致決定の日につづった文章を紹介したい。権威、権力、既成概念に寄りかからず、子どもを守る、母の決意だ。
「あなたの喜びは、私たちの悲しみです」
東京オリンピック開催決定。このクレイジーな事態が私たちに与えるショックの大きさは、言葉にできるものではありません。世界の同情を引くために、原発事故の被害を受けてしまった福島の子どもたちを利用した、安倍首相の最悪のプレゼンは、忘れられない内容です。
福島の子どもたちが青空のもとで元気にサッカーをしている。
福島の子どもたちに夢を…
原発事故の真実を知ってか知らずしてか、東京での開催を求めたみなさんの声が、福島の子どもたちの未来を更に奪うことに繋がったという罪深さを、私たちは重大なものと受け止めています。あなたたちの喜びは、私たちの悲しみです。
あなたたちの犯した罪の重さを、私たちは問い続けます。福島の問題を封じ込めようとする動きに、あなたが加担していることを自覚して下さい。私たちの子どもは未だに救済されないまま、あなた方の幸せの犠牲になっているという事実に向き合って下さい。
たとえどんなに声が小さくても、私たちは福島から叫び続けます。原発事故の被害を受けた子どもたちの未来を、真剣に考えて下さい。社会全体として、救済する流れを早急に作ることに力を貸して下さい。過ちを正しましょうと、一緒に叫んで下さい。誰かの犠牲のもとに成り立つ幸せは、幻です。その栄光もまた、幻にすぎません。人生の中の輝かしいはずの栄光が、誰かの犠牲のもとにある、罪深いものであるということに気付いて下さい。なにかを極めるということは、ほかのことなどどうでもいいということではないはずです。
せっかくの積み上げてきた努力の舞台が、原発事故を闇に葬るための、国上げての大芝居の舞台であったということに気付いた時、アスリートのみなさんの喜びは、罪悪感に変わることでしょう。人生をかけて努力を積み重ねてきたアスリートのみなさんの栄光を、そのようなものにしてしまうこともまた、とても残酷なことだと感じます。7年後に東京で開催されるオリンピックは、私たちの問題を揉み消すための、最悪のオリンピックだということを、十分に理解して頂きたいと思います。
震災から1000日を過ぎた今も約14万人が県内外で避難生活を送る福島。来年度予算編成を控えた年末、帰還や原発事故収束について矢継ぎ早に方針転換が示された。自公が打ち出した帰還困難な住民の「移住」支援。除染に伴う放射性廃棄物を最長30年間保管する中間貯蔵施設建設計画に伴う原発周辺の国有化(買い取り)構想。そして、住民帰還の基準となる被ばく線量の、空間線量推定値から個人線量実測値に変更する提言案。頭ごなしの議論に、福島の人々は首長選で相次ぐ現職落選という形で「NO」を突きつけた。
福島第1原発の汚染水問題に揺れる海では、震災から2年7カ月ぶりに試験操業が再開した。秋から冬、北海道・根室沖から千葉県・房総沖に太平洋を南下するサンマ。潮目の海とよばれる福島県常磐沖から揚がったばかりの魚を、「浜のかあちゃん」が自宅で調理してくれた。皮をはいで豪快に刻み、ネギやトウガラシを合わせてフライパンで焼き上げる「ポーポー焼き」。三枚に下ろしてぶつ切りにし、みそとショウガ汁で味を調えた「つみれ汁」。温かいご飯と一緒にいただくと、潮風が香る海の幸が五臓六腑に染みわたった。
作り手は、いわき市平沼ノ内の久保木幸子さん(68)。福島県有数の港町・いわき市久之浜で底曳き船主の家に育った。7人きょうだいの6番目。小学3年で母を、4年で父を亡くし、長兄と長姉が親代わりだった。「いっぱい魚がとれた時代。(水揚げ)番付でいつもトップだった」のが自慢だ。長兄の船で修業をしていた夫正一さん(68)に見初められ1967年、漁師町・沼ノ内に嫁いだ。
漁家の女性は働き者だ。午前2時に出漁する男たちを港から送り出し、自宅に帰って子どもたちの朝食を作る。男たちのご飯のおかずや氷などを買いそろえ翌朝、再び港へ。幸子さんは結婚直後、当時女性では珍しかった運転免許をとり、義父と正一さんが水揚げする「常磐物」を、小名浜の市場に運んだ。
「ゆきちゃんとこの魚は最高だっぺ」。仲買人や漁協関係者は久保木さんが仕分けしたトロ箱に目を細めた。極意を聞くと「選別を1人でやる。例えばイカなら、耳を丸めて、足を底に入れて、サイズごとに箱に並べておく。そうすっと、値段が全然違う」。
2003年にいわき市漁協女性部長に、09年には県漁協女性部連絡協議会長に推された。県内の漁家の女性約550人を束ね、海岸清掃や地域の高齢者の見守りなどと並んで、年20回程度の料理講習会で魚食普及を図ってきた。「ガソリン代も出ない。毎回、会合に同じものを着ていけないから洋服代にもお金がかかる。じいちゃん(夫正一さん)の理解と、仲間の後押しがあったからやってこれた」。
古里の海を守るために……
孫の瑠佑(りゅう)さん(18)の中学卒業式で休漁した2011年3月11日、東日本大震災に見舞われた。家族5人、津波から命からがら内陸部の親類宅に避難。隣接する同市平薄磯地区や豊間地区は高さ9㍍を超える津波に襲われ壊滅的な被害を受けたが、沼ノ内は南側の富神碕(岬)が防波堤の役割を果たし、自宅は床下浸水(半壊)だった。
翌朝、正一さんは沖合200メートル付近で愛船「昭政丸」(12トン)を見つけた。ブリッジは砂まみれで舵もエンジンも回らなくなったが「涙が出た。海の神さまが守ってくれたんだ」。東京電力福島第1原発事故で放射能に汚された海で、長男克洋さん(45)とともにモニタリング調査用の魚や、がれきを黙々とり続けた。
震災では、幸子さんが生まれ育った久之浜や同県北部の浪江町や相馬市、新地町などで、多くの知り合いが津波にのまれた。自宅や料理宿を流され、遠く中通りの仮設住宅に移った仲間もいる。ちりぢりになった漁家の女性の交流の場をと新たに、魚料理指導者講習会を企画。全国各地を飛び回り福島の窮状を訴える合間に、トレーニングジムにも通う。「足腰が衰えたら仕事になんないから」。
10月18日、いわき市沖で初めての試験操業が行われ、常磐物が市場に並んだ。「ヤナギダコはゆでると最高。冬はキアンコウの鍋や、子持ちのヤナギガレイの干したの。家族みんなが笑顔になる」。
県沿岸部では震災前の2010年、いわき地区で約44億円、相双地区約65億円の水揚げ高があったが福島第1原発事故で操業自粛を余儀なくされた。県は発生から昨年9月までに、久保木さんら漁業者がモニタリング漁でとった魚1万4770検体を検査。15・5%で国基準(1キロ当たり100ベクレル)を超えたが、事故直後は半数を超えた基準値超えの魚は、昨年7~9月には2・2%まで下がった。海底近くに生息するカレイやヒラメ、岩礁に生息するメバル、小魚を食べ体内に放射能物質が蓄積されやすいスズキなどを除いて、ほとんどが検出限界値未満だ。
北半分を管轄する相馬双葉漁協では12年6月、南半分のいわき市漁協などは13年10月に、販売を伴う試験操業をスタート。検査結果などを基に毎月、国や専門家や市場関係者らでつくる協議会にはかり、対象魚種を当初の3から27に徐々に増やしてきた。1キロ当たり50ベクレル以下のみを出荷する独自基準も設定。主に県内で流通させているが今春からは、東京・築地市場などへの本格出荷も検討する。
後を継ごうと県内唯一の海洋科がある県立いわき海星高に進んだ瑠佑さんは来春、東京の専門学校に進学が決まった。前途に不安は尽きないが、幸子さんは言う。「試験操業の先にしか本操業再開はない。子や孫に、常磐のおいしい魚を食べさせる。それが浜の母ちゃんの誇り」。これからも県内外で会議やPRイベントをはしごし、浜と市場を駆け回る。古里の海を守るために。
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