横山充男と本
− 最終回 −
宮沢賢治との出会い・下
 児童文学作家といわれる人々の間で、密かに語り継がれている(?)ことがある。「宮沢賢治を研究しはじめると、物語が書けなくなる…」
 太宰治にのめり込むと、結局太宰風の文章しか書けなくなるのと似ているかもしれない。さほど賢治というのは、児童文学作家にとっては奥深くもまたやっかいな存在なのである。

 宮沢賢治の個々の作品は、賢治ファンには怒られるかもしれないが、童話としては完成度の低いものが多い気がする。それがまた曲者なのである。文章芸術として完成されていないがゆえにというか、その背後になにかとてつもなく大きなものが控えている気がするのである。ただし、そうした直感は、すべての読者に訪れるわけではない。賢治は読者を選ぶ。というか、読者が人生のどの段階で出会うかがそれを決めるらしい。
 わたしは小中高と国語の授業の中で宮沢賢治に出会ってきたが、しんきくさい、くそまじめ、どこかお金持ちのおぼっちゃん的なおせっかいさ、といったものを感じて好きではなかった。ところが、仕事に挫折し、失恋と大病というトリプルパンチを受けたときに、賢治がまったくちがった光芒を放って現れたのである。それは前回のコラムで書いたとおりである。

 いったい宮沢賢治(とくに童話)とは何か。
 一言でいえば、曼茶羅なのではないかと思っている。曼茶羅とは、仏の語りの世界や大宇宙の存在などを象徴的に絵にしたものであるが、賢治の数多くの童話は、その曼茶羅である気がする。多くの短篇が完成度として高くないのは、曼茶羅のひとつひとつの絵が、全体として見るときに完成されているのに似ている。
 しかし宮沢賢治は、ひとつの作品を、壮大な曼茶羅として完成させようとしたことがある。その必死の試みが『銀河鉄道の夜』である。多くの短篇がやや説教臭く完成度が低いのは、ちょうど小乗仏教的といえるかもしれない。『銀河鉄道の夜』が他作品から傑出しているのは、大乗仏教的な宇宙観を表現しようとしたからではないか。
 宮沢賢治が描こうとした大宇宙『銀河鉄道の夜』は、おそらく法華経如来壽量品第十六に描かれた無量無辺百千万億那由陀という途方もない彼方にある歓喜の世界であるだろう。この世界を、文学として描こうとした執念の作品である。

 ただし法華経で説かれているその世界は、いったいどんな世界であるかは描写されていない。ことばでは描けない世界なのである。しかしそれではわたしたち凡夫にはわからない。ただ、賢治にはありありとその世界が見えていた。それを童話という形式で描こうとしたのが『銀河鉄道の夜』なのではないか。
 成仏すればどんな世界に行けるのか。そこはどんな世界なのか。わたしたち凡夫には見えないし、また見たこともない世界である。それを見えるように描くには、何かに喩えるしかない。『銀河鉄道の夜』という作品に、驚異的ともいえる美しい比喩表現が多用されているのはそのせいではないか。

 ある機会に、わたしは『銀河鉄道の夜』に使われている比喩表現をすべて抜き出したことがある。それらをつなげた時に、賢治に見える法華経の世界観宇宙観が立ち現れてきた気がした。『銀河鉄道の夜』の比喩表現が、量的にも質的にも他作品を凌駕し、圧倒的な奥行と美しさを放っている。それは換言すれば、ほとんど祈りに近いような、終わりのない経を読み続けている姿ともいえる。
 しかしこの作品もまた未完のままである。それは宮沢賢治というひとが、詩人であり、教師であり、科学者であり、その他諸々の顔をもっていたことと通底している。宮沢賢治そのものが、大宇宙曼茶羅を構成する小曼茶羅であるからだろう。宮沢賢治に出会うということは、わたしにとってはそういうことであった。

「絵本フォーラム」37号・2004.11.10


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