横山充男と本
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宮沢賢治との出会い・上
 わたしが宮沢賢治と出会ったのは、十九のときであった。七十年安保の翌年に高校を卒業し、京都の呉服問屋に就職した。会社の先輩とつまらぬことで喧嘩となり、そこは一週間でやめた。京都の町をほっつきあるきながら、新しい就職先をさがした。そしてなんとか次の会社にもぐりこむことができた。こんどは婦人服の卸し会社である。高度経済成長期のまっただなかで、商品はいくらでも売れた。だが、その商売の仕方は、吐き気がするほどひどいものであった。とにかく売り上げがすべて、金がすべてであった。こんな人生をこれからずっと続けていくのかと思うと、十八のわたしは暗澹たる気持ちであった。

 幸か不幸か、そんなときに病気になった。十九であった。病名は肺結核である。大阪の高槻市にある療養所に入院した。小高い丘の上にある療養所は、自然林にかこまれた別天地であった。ときどき見舞いにきてくれる会社の同僚や、高校時代のともだちは、みんなおしゃれな服を着てやってきた。給料がどんどんあがっていった時代である。仕事をすればするほどお金が入ってきた時代であった。
 そんな時代に、わたしは長期入院を強いられる病気となり、完全に時代の流れからはとり残された。だが、心の奥底では、しょうじきいってほっとしていた。じぶんの人生を、金儲けのための熾烈な戦いで費やすのはいやだったのだ。それに、ちょうどそのころ失恋もし、何もかもがいやになっていた。

 けれども、ではいったいじぶんは何をしたいのかと自問してみるが、答えはちっともわからなかった。それにしてもひまであった。病状はけっして軽いものではなかったが、よほどの重症でないかぎり、肺結核はどこかが痛いとか苦しいとかいうものではない。日がなベッドによこたわり、安静にしているだけである。すこし病状が回復してくると、むしろたいくつさえしてくる。そのせいか、療養所には、さまざまなクラブがあった。園芸クラブは、季節の花はもちろんトマトやらきゅうりやらもつくる。囲碁クラブや将棋同好会もある。美術クラブもあった。療養所のそばにある池では、患者さんたちが釣りを楽しんでもいた。
 わたしはけっきょくどこのクラブにも入らなかったが、あまりにひまなので、本を読むことにした。図書室というのがあり、週に一度貸し出しがあるのである。高校時代には、マルクスやエンゲルスといった政治的な本は読んだが、それ以外はほとんど読んだことがなかった。今から思えば、まったく堅物の青年だったのだ。高校三年生のときに、同級生の女の子から「すばらしい本があるから、読んでみて」とサンテグジュペリの『星の王子さま』を手渡された。読んでみたが、甘ったるくて「ゲッ」であった。そんなわたしに、べつの女の子からは「きみにはこの歌がわからんやろね」とばかにした目でわたされた短歌があった。与謝野晶子の「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」であった。たしかにわからなかった。愛の絶対性を男に強要する女の傲慢さ、勝ってさが鼻についた。国語の授業で、宮沢賢治の詩「永訣の朝」をやった。参考資料として、教師は「雨ニモマケズ」なども紹介してくれた。そのときの印象は、宮沢賢治という男はなんとしんきくさいやつ、ねくらなやつ、金持ちのぼんぼんのひまつぶし、とさんざんな印象であった。

 療養所の図書室では、何を読んでいいかもわからずに、とりあえずかたっぱしから読んでいった。四柱推命による姓名判断の本、ハイデッガーの哲学書、般若心経の解説書、花火の作り方から手品の本、宇宙論から歴史書まで、てあたりしだいであった。そんな乱読のなかで、あれほど毛嫌いしていた文学に出会っていった。とくにのめり込んでいった作家・詩人としては、太宰治、山村暮鳥、立原道造、そして宮沢賢治である。あれほどしんきくさく、金持ちのぼんぼんのひまつぶしと思っていた賢治の詩や童話が、わたしの心に大きな感動をともなって染み入ってきたのであった。
 これはいったいなんだ。これはいったいどういうことなんだ。同じ作者の作品を、どうしてこれほどちがって感じるのだろう。
 そんなふうに、十九のわたしは、まるで魔法にかけられたみたいに宮沢賢治の世界に浸っていくのであった。さてその話は、このエッセイの最終回となる次回にということで。

「絵本フォーラム」36号・2004.09.10


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