横山充男と本
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光の世界の温かさを知ってのぞける闇の中
 わたしの息子たちは成人式もすでに終えて、幼い頃のかわいらしさはもうない。ふたりともわたしに似たのか、背の高い男になった。そんな息子たちも、幼児の頃はぷくぷくとしてかわいらしかった。
 その息子たちが喜んだのが、就寝前の絵本の読み聞かせであった。母親のやさしくとろけるような声もよかったみたいだが、父親であるわたしのやや演技過剰ぎみの読み聞かせもたのしかったようだ。
 幼児であった頃の息子たちが、繰り返しわたしにせがんだのは、絵本『いない いない ばあ』(松谷みよ子/文、瀬川康男/絵、童心社)である。何度も読んで、しまいには絵本のかどが擦り切れてしまったほどであった。
 内容の構成は、クマやねずみやキツネなどが、「いないいない」と顔をかくして、つぎのページをめくると「ばあ」と顔をあらわすという単純なものである。しかし息子たちは、「ばあ」のところでかならずきゃっきゃと声をあげて笑った。乳児でさえも、この絵本には反応を示すという。いったいなにが、これほどこどもたちを引き付けるのだろうか。

 わたしは児童文学作家として、その答えは「闇と光」にあるのではないだろうかと考えている。
 前回のこのコラムで、砂糖をまぶしたようなかわいらしい童話が、いかにつまらないかを述べた。やたら明るいだけの物語である。しかし現実の人の世は、明るいだけではない。世界中では、底知れぬ矛盾のなかで苦しみもがいている人々もたくさんいる。だが、その闇からぬけだそうと、懸命に生きていこうとするのも人である。それは、こどもにだってわかっている。この世は、明るい幸せだけでできているのではないということを。
 文学とは、畢竟、人間を描くことである。人間が幸せになるにはどうしたらいいかを、物語という形で考えぬく。それはこどもを主な読者対象とする児童文学でも同じである。
 「いないいない」というときに、幼いこどもたちはこの世の闇と向かい合っているのではないだろうか。しかし、慈愛に満ちた声でおとなが読み聞かせをしてくれていることに、こどもたちの感性は次にくる光を予感し、期待し、そして確信にかわる。「ばあ」と輝く世界が現れるのである。闇をくぐりぬけ、父母のぬくもりとともに、幼な子はこの世に光を見いだす。そのことの喜びに、全身で歓声をあげる。
 児童文学は、しっかりと闇を描きこみ、しかしそこから光が生まれるという確信と安心を描くものなのではないか。光がかならず訪れることを知っているからこそ、乳幼児も闇を見ることができる。そして訪れた光の世界から、幼いひとたちは、人間のやさしさや温かみを汲み取っていく。それは読み聞かせをしている当の親自身もそうである。

 文学とは、宝探しでもあるとわたしは思っている。『いない いない ばあ』がすぐれているところは、親子で宝探しをし、しかもきちんと宝を捜し当てられる幸福感にあるのではないだろうか。闇ばかりを描こうとする成人文学があるが、それは光ばかりを描こうとする児童文学とおなじように、わたしには物足りない。真に感動的で豊かな文学とは、闇と光の間で揺れ動く人間の姿と、しかし光の方向にむかって歩き続けるひたむきさを描ききったときに生まれるのではないだろうか。その希有な成功例が、絵本『いない いない ばあ』である気がする。
 こうした絵本を通しての体験が、幼い頃にあるかどうかは、そのひとの人間観や世界観の形成において非常な影響力をもつことは容易に想像できる。しかしたとえそうした体験がないとしても、わたしのように青年期に児童文学というものに出会えることで救われていった者もいる。成人して、あるいは子育ての最中に、さらに老人と呼ばれる年代になって出会うことだってある。それがまた、絵本や児童文学というものの魅力であり、また普遍性ではないかと思う。

「絵本フォーラム」35号・2004.07.10


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