横山充男と本
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逝った母の枕元に『婉という女』の本
 わたしの母は、大正7年に高知県で生まれている。尋常高等小学校を卒業後すぐに働いたという。やがて結婚をし、三人目の男の子(わたしである)が生まれて半年目に、夫が事故死した。その後、母は3人のこどもをつれて、働きづめに働いた。昼間は病院の賄い婦をやり、夜は料亭の皿洗いと、すべてを子育てのために注ぎこんだような人生であった。
 65才まで働き、ようやく年金生活に入ることができた。アパートを借りて、念願の悠悠自適の一人暮らしであった。退職後は、しばらくは憑かれたように国内旅行を楽しんでいたが、数年後に突如本を読み始めた。
 わたしがこどものころに、母が本を読んでいた記憶はない。わたしが高校の教師になったときに、「何を学校で教えちょるがぞ」と聞くので、「古典を教えてる」とこたえた。「古典とは何か」とさらに聞くので、「源氏物語やら枕草紙といった日本の古い文学を教えている」とこたえておいた。ところが何を勘違いしたのか、親戚筋に「うちの息子は、学校で歴史のようなものを教えちょる」と説明していたらしい。それほど読書とは遠いところで生きてきた人なのである。それが、70才近くになって、突然本を読み始めた。ときどきアパートをたずねていくわたしに、母は「円地文子の『源氏物語』はええねえ」とか、平岩弓枝や大原富枝といった作家の名前を口走るようになった。彼女のアパートの部屋には、行くたびに文庫本がふえていった。老人性の白内障であったが、文字の小さな文庫本しか買わない。安いから、軽いからというのが理由であった。70近くの老婆が、書店の文庫本の棚の前で、見えづらい目を細めながら本を選んでいる姿を思うと、息子として妙に胸が熱くなったのをおぼえている。
 70才を越えると、やはり体調がおもわしくなくなり、故郷の病院に入院した。いわゆる老人病院で、外出などもわりあい自由にできるのがよかった。大阪で暮らしているわたしは、年に何度かだが見舞いにいった。そのころの母は、大原富枝の『婉という女』という作品がいちばん好きであった。何度読み返したかわからないほどで、文庫本の角がすり減ってまるくなっていた。そして母が77の喜寿を過ぎたときに、故郷の従兄から訃報が飛び込んだ。母が入院先の病院で突然亡くなったという知らせであった。看護士さんも隣のベッドの方も、朝まで気づかないほど静かに息を引き取っていたというのだった。その枕元には、あの『婉という女』がやはり置かれていたという。
 わたしは青年期に文学と出会い、それ以降およそ30年以上も文学畑で生きてきた。それに対して、母はわずか10年ほどの読書歴ということになる。だが、その10年ちょっとの密度の濃さは、いわば文学の専門家であるわたしよりもはるかに濃く、また深い気がする。昔の尋常高等小学校を卒業してから65才で定年退職するまで、彼女は働きづめに働き、この世の地獄も極楽も見たうえで、文学と出会っているのである。そういうふうに思えば、彼女の文学との10年間には圧倒されるものがある。だが、もしも、彼女にもっと若いときから文学と出会うべき環境と余裕があったとしたら、とやはり考えてしまうのだ。貧しいがゆえに本と出会えなかったこどものころのわたしと、ひょっとしたら母も同じような理由で読書を奪われていたのではないか。母のやさしい声で絵本を読んでもらった記憶はわたしにはない。親と子の読み語りは、相互にとっての至福の時である。こどもの成長にとっていいだけのものではない。イギリスでは、シングル家庭に国から本を買うための助成金が出るという。だが残念ながら、福祉などということばは、あの頃の貧しかったわたしたち親子には聞こえてこなかった。

「絵本フォーラム」33号・2004.03.10


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