横山充男と本
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本が身近でなかったこども時代
 わたしは児童文学作家です。などというと、いかにもこどもの頃からたくさんの本を読んできたように思われる。ところが実際は、まったくといっていいほど本を読まないこどもであった。というか、本を読む環境になかったのだ。
 こどもの頃のわたしは、「本」というものはしんきくさいもの、あるいはお高くとまった連中が読んでいるものという印象だった。だいいち当時の男の子で、童話やら物語なんぞを読んでいるのは、たいていは裕福な家庭のこどもであった。女の子とは、まったくつきあいがなかったので、そこのところがどうだったのかはわからない。
 わたしのまわりのおとなたちも、本などというものは読んでいなかった。たまに読んでいるとしても、なにやらあやしげな雑誌ぐらいであった。
 わたしがこどもの頃に住んでいたのは、町でもっとも最下層の人々が、寄り添うように暮らしていた場所であった。そこのおとなたちが従事している仕事は、一般の人々からは軽んじられたり、一段低く見られたりするものが多かった。そんなおとなたちが、自分たちの疲れやら鬱憤やらを晴らすのは、たいていは酒か博打か夫婦げんかとかいったものだった。理性的に、論理的に、自分たちの置かれている状況を分析したり、解決の方法を探ったりという余裕さえなかったのだろう。夜になると、こどもであったわたしに聞こえてくるのは、酔って歌うおとなたちの「ちゃんちきおけさ」や「お富さん」などである。
 学校ではどうであったか。たしかに図書室というものがあり、けっこう本はたくさんあった。週に一時間、図書の時間というのがあり、担任の先生がわたしたちを図書室につれていく。ところが何も指導はなかった。ようするに、生徒の野放し状態であった。もともと本なんてしんきくさいと思っていたわたしは、ほとんど読むことはなかった。図鑑などを見て、時間をすごすだけである。
 本は読まなかったが、まんがはだいすきだった。映画もだいすきだった。昭和三十年代の貸本屋には、劇画のはしりとなるまんがが大量にあった。その劇画のほとんどが、拳銃や刃物で殺し合うような殺伐としたストーリーであった。観る映画も、小林旭や和田浩二といったアクションスターたちが、拳銃ではでにドンパチやるようなものが多かった。わたしは、そうした暴力的なまんがや映画にひたりながら、いつかはそうした強い男になりたいと憧れていた。ようするに、そうしたまんがや映画でじゅうぶん満足していたのだ。じっさいおもしろかった。とにかく、本なんて、かしこくて成績のいいおぼっちゃん、おじょうちゃんたちが読むものだと決めつけていた。親や教師の言いなりで軟弱なくせに貧乏人をばかにするやつらの読むものが、本というものであったのだ。
 わたしが児童文学というものに出会うのは、ずっとあとの高校を卒業してからになる。大学に進学してからは児童文学研究会というサークルに参加し、児童文学の世界にますますのめり込んでいった。そのときに、わが国の名作といわれている創作児童文学の多くが、この昭和三十年代から四十年代にかけて生まれていることを知った。まったく愕然としたものだ。なぜ、小学生から中学生にかけてのわたしに、そうした名作が届いてこなかったのか。素朴な疑問とともに、怒りのようなものがこみあげてきたのを覚えている。
 ちなみにわたしが小学一年生だった昭和34(1959)年は、佐藤さとる『だれも知らない小さな国』、いぬいとみこ『木かげの家の小人たち』、昭和35年は松谷みよ子『龍の子太郎』、昭和36年は寺村輝夫『ぼくは王さま』、神沢利子『ちびっこカムの冒険』、昭和37年は中川李枝子『いやいやえん』、昭和38年は庄野英二『星の牧場』などなど、あげればきりがないほどの名作が生まれている。
 今から思えば、こどもの頃のわたしは、読書そのものを奪われていた気がする。それは、ひょっとすれば、いくらでも本がある現代のこどもたちとも、根っこのところでは同じではないかと思ったりするのだ。

「絵本フォーラム」32号・2004.01.10


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