連載 ジェリーの日本見聞録14 会ったことない友だち

会ったことない友だち
 今まで一度も会った事がないのに、大親友だと思っている人はいますか?

きつねやぶのまんけはん
『きつねやぶのまんけはん』『おやじとむすこ』

 今まで一度も会った事がないのに、大親友だと思っている人はいますか? 有名人やアイドルに夢中になる人たちは、有名人のことを大親友だと思っているかもしれません。ファンになるのはこういうことでしょうか?

  私も会ったことがないのに親友だと思っている人がいます。その人は児童文学作家の中川正文先生です。初めて会ったのは、2011年の秋でした。私が「絵本講師・養成講座」(NPO法人「絵本で子育て」センター主催)を受講したときに講義をしてくださいました。優しく小さな声でしたが、絵本の絵や言葉について、読み聞かせについての話がとても面白く「もっと聞きたいなぁ」と思いました。講義が終わり、とても複雑な気持ちになりました。なぜなら、それはもうできないからです。

  こう書くと何か変だと思われるでしょう?  中川先生の講義は、DVDだったのです。本当は先生が直接お話される予定でしたが、それは叶うことなく、一か月前に旅立たれました。今から思うととても不思議なことですが、そのときから先生との出会いが増えました。いろいろな人から先生の話を聞いたり、先生が書いた本を読んだりする機会が増え、一冊読むごとに先生と仲良くなっていくような気がしました。

 中川先生の『おやじとむすこ』(文芸春秋)を読んだ後は、一気に先生と仲良くなった気がします。何年か前、アメリカへ里帰りをするときにこの本を持って行きました。飛行機の中にいる時間はとても長かったのですが、先生が私の隣に座って一緒に本を読んでいる気がしました。優しい声で、家庭の話、奥さんの話、息子さんたちの話、職場の話を私に聞かせてくださっているようでした。私は温かい気持ちで本を読み続けました。あっという間に8時間が過ぎてしまい、カリフォルニアに着きました。

  アメリカ滞在中、何度も中川先生の本を読もうかと思いましたが、帰りの飛行機の11時間を思い出し、我慢してそのまま本を荷物の中にしまいました。2週間後、帰りの飛行機の中で先生は、私の隣席に先に座って待っていました。私はさっそく先生の本を読み始めました。長い帰り道の間に本を読み終え、先生をもっと知ることができ、親友になったような気がしました。

  羽田空港に到着して、スーツケースの受取りを待っていたときに「たしか、先生が書いた『きつねやぶのまんけはん』(NPO法人「絵本で子育て」センター)が家にあるな。帰ったらもう一度読もう」と思いました。

  帰宅して絵本を読もうとしたとき、その絵本に先生が書いてくださったメッセージを見つけました。この絵本を買ったときに、サインがあるのは知っていましたが、メッセージには気づいていませんでした。それを読むと私へのメッセージのように感じました。書道家のような字で「わたしの知らない国のひとびとたち、あんずの実を差し上げたい」と書いてありました。その寒い年明けの夜にあんずの味を思い出しながら、コタツの中で何回もその絵本を読み返しました。

  私は人間があの世に行ってしまうと、この世ではその人の物語が残ると思います。家族や友だちがその物語を語ったり、思い出したりすると、その人は永遠に生きることができます。

  作家はラッキーで、自分の物語と自分が書いた物語の2つの物語の両方とも残ります。時間がたっても、時代が変わってもその物語は生き続けます。

  私は中川先生に会ったことがありません。けれど先生が残した二つの物語を大事にします。私は先生が書いた物語を本棚に大切に置きます。他の大事な物語と一緒に。

  もう一つの物語は、記憶の中にある本棚に。あんずの味の記憶と一緒に……。

(ジェリー・マーティン)

連載 遠い世界への窓 連載14 『島――よくある物語』

遠い世界への窓 連載14 『島――よくある物語』

東京大学教養学部
非常勤講師
絵本翻訳者

『島――よくある物語』

島ーよくある物語 「これまでに、こんなに恐ろしい絵本を読んだことがない」と思った。どうして、そんなにも恐ろしいのか。それはきっと、この物語に出てくる人たちがみな、わたしに似ているからだろう。彼らの醜さ、愚かしさ、残酷さ、身勝手さ――そのどれもこれもに対して、「これは、わたしだ。彼らはわたしに違いない」と感じる。そして、その強迫観念が、ぬぐってもぬぐっても頭から消えないのだ。

*   *   *

物語の舞台は、絵本のタイトルの通り、「島」である。島は黒い。海も黒い。物語は、まるで木炭で描かれたかのようなモノクロである。絶海の孤島というほどでもないが、決して大きな島ではない。島全体がひとつの村といった感じだ。その島に、一人の男が流れ着く。男は小舟に乗って流されてきたせいか、服を着ておらず、何も持っていなかった。

島はすぐさま騒然となる。「男は、島民たちとは似ても似つかない姿をしていた」という一文は、いくつもの意味で滑稽だ。ちんまりと浜辺に立つ男は、小柄でなで肩の優しい顔立ちだ。一方、手に手に熊手や鍬を構えて男を追い立てようとする島の男たちは、みな腕っ節の強そうな大男で、男を恐れる理由などあるようには見えない。そして、もちろん、どちらもモンスターなどではない、同じ姿の人間である。

どこからやって来たとも知れない素っ裸の男に、何かを恵んでやる道理もないだろう。そいつはただ、海から流れ着いただけの輩なのだから、また、海に帰ればいいじゃないか。そうして村人たちは、男を波間に突き返そうとする。海の怖さを知る漁師の進言で、男が島にとどまることをしぶしぶ認めて「受けいれた」ものの、彼らがしたことと言ったら、使われていないヤギ小屋に男を押し込め、「小屋の扉という扉を釘付けにして」ふさいだことだけだった。

ほっと胸をなでおろしたのも束の間、実は、男は、とんでもなく恐ろしい男だったのだ! 扉をふさいだ小屋から出てきて、村をうろつき回る(食べるものがないから腹がへったのだ)。あろうことか、真夜中にさえ出没する(ただし、村人たちの夢の中に!)。手で肉を喰う(おそらくナイフやフォークをもらえなかったのだろう)。そして、肉の骨までしゃぶりつくす(食事が十分ではないのだろう)。「恐ろしいよそ者が島民の恐怖心をあおっている」ことは、やがて新聞でも報じられるようになる。

そうだ、島は今、「危険な状況だ、手遅れにならないうちになんとかせねばもう限界……」。そうして島民たちは、ふたたび手に手に農具をもって、ヤギ小屋に突進していく。

*   *   *

この絵本の原書は、ドイツで刊行された。小舟で『島』にたどり着く男は、ボートで地中海をわたって欧州にたどり着く、何百万人もの人々をありありと想い起こさせる。そして、それを迎える人々、受け入れるか否かで大きく揺れる人々の姿も。

期せずして、この絵本を多くの人たちと読む機会にめぐまれた。黒い画面の後ろに見え隠れする、告発的な黄色、病的な青、そして、炎の赤。この「島」を見た人たちはみな、語らずにはいられなくなるようだ。「まるまると太った島の人々。この島には食べ物が豊富にあるだろうに、なぜ男に分けてやることができないのか?」、「流れ着いた男には、自らを処していく意思はないのか?」、「この島の人々が守りたかったものは何だったのだろう?」

*   *   *

たくさんの人たちが自問自答する言葉に、私自身、深くうなずいた。この黒い「島」は、わたしたちの「島」でもあるのだろう。

(まえだ・きみえ)