飫肥糺 連載135 はたらき者アリが ペンのインクになった⁉ 『アリペン』(ふじたあお/文 のぶちかめばえ/絵 絵本塾出版)

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たましいをゆさぶる子どもの本の世界 135    飫肥 糺
はたらき者アリが
ペンのインクになった⁉
『アリペン 』

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新聞を切り抜き短いメモ取りをするのを日課としている。筆記具に最近は鉛筆を使うことが多い。歳を重ねるとともに握力が落ちて筆圧もぐんと下がった。走り書きのメモは芯の硬い鉛筆では薄書きとなり読み取りづらくやわらかい鉛筆を使うようになった。硬度HBからBとなり、今では2Bを使う。たまに最も気持ちよく書ける4Bを使うが芯の減りが速すぎるのでほどほどの使用に。

至近20年来の小学生の大半は、ぼくと異なる理由で2Bの鉛筆を使う。一昔前より”体格は良くなったが体力は一進一退”とされる現在の子どもたち。手指の力が昭和・平成の子どもたちに比べてうまく育たないらしい。パソコンやタブレットが一人一台配備される学校の現在。こんなデジタル時代の到来も影響しているはずだ。筆圧がうまく育たず、因って筆圧に適う書きやすい鉛筆が選択される。かつての子どもたちはHBを使ったが、現在は2Bの使用が薦められるようになった。

ぼくの小学校入学は昭和26 (1951) 年、72年前の遠い昔だ。あの敗戦から数年後の物不足のころ、米穀配給手帖が家庭に存在した時代だ。当時は鉛筆一本だって貴重品。一本一本に名前を記して大切に使った。筆入れに常備したのはせいぜい2,3本。子ども自身が肥後守だったか小型ナイフで削り使った。2センチ程度に短くなってもキャップをかけて使いつづけた。使っていたのはHB、なかにHを使う級友もいて、なぜだか羨ましかった思いがある。鉛筆削りが苦手でナイフをすべらせ血をだすこともあったぼくは削る機会が少なくなる硬い鉛筆が欲しかったのだろう。

技術革新で多様多彩な文具が登場して選択する楽しみも増えた令和の現在、子どもたちと文具の関わりはどうか。文具に関心や興味を持つのは悪くないだろう。きっとそのそばには本がある。本に親しむ子どもたちであればすばらしいことではないか。

『アリペン』は文具への想いが絵本となった面白い作品だ。働き者の代名詞のようなアリがインクとなり線や文字を書けるペンになるというのだから人を食ったおはなしである。絵本には副題「とりあつかい せつめいしょ」が付く。この副題が絵本にはユニークでなかなかいい。「あいさつ」あり「もくじ」ありの構成で、少年たろうくんが案内役をつとめる。たろうくんは商品アリペンを、その特長から手入れ法、便利な使い方などを説明し、お客さまのよろこびの声まで語り伝えていく。

たろうくんによると、アリペンの内部はあたたかい適温で保たれ、歩いてよし休んでよし寝てよしの三方よしの住み心地。トイレだって清潔で気持ちよしとくる。このすぐれた環境は一朝一夕でできあがったものでなく長い研究の成果を得て実現したらしい。だからこそアリたちはぞろぞろと列をなしペンに入りたくなると、たろうくんは力説する。ペン内部に満足したアリたちはつぎに外に飛びだしたくなって出口に向かいアリペンとなる。紙がなくても書けるし、地面にも塀にも空にだって線を描き文字が書けるというアリペン。まぁウソも方便、おはなしの世界だ。だまされて読んでみるのも気分爽快となり悪くない。

ペンの使用に注意を告げてニヤリとさせたり、使用中に甘いおやつが届いたらどうなるかと驚かせたりするくだりも愉快である。

おやと思うのは、働き者のアリたちが、「夜は働かないぞ」、「無理させるとストライキを起こすぞ」と抗議する場面、ユーモア交えて発する作者の確かなメッセージだ。見のがさずに諒としたいと思う。

伴走するイラストも個性的でいい。活き活きとしてテキストとよく共鳴する。明瞭でやわらかな線描とあかるい彩色の仕上げは親しみやすく面白いし、白地背景を活かして題材を大胆に描いた画面展開もおはなしとしっかりコラボしていると思う。

(おび・ただす)

『アリペン とりあつかい せつめいしょ』
ふじたあお/文
のぶちかめばえ/絵
絵本塾出版

子ども歳時記135 きみがおとなになるまえの自由律俳句(篠原 紀子)

『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』

 突然の一斉休校から一年が過ぎました。子どもたちに、一年よく踏ん張ったね、と声をかけたい気持ちでいっぱいです。私たち大人も含め、やり場なき想いに苛まれることもありました。一方で、自身の生き方や周りとの関わりについて、静かに考える好機でもあったのではないでしょうか。

 

 休校に入ってすぐ、図書館で予約していた絵本を借りてきました。そのうちの一冊が『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』でした。語り手の「ぼく」は詩が好きで、本に囲まれ一人で暮らす“いい年をしたおっさん”。そこに、近所に住む知り合いの小学生の男の子「きみ」が訪ねてきます。物語が進むなかで「ぼく」と「きみ」は一緒に、実在の詩人たちの詩20編を読み深めます。

 

 なかでも私が惹かれたのは、岡田幸生さんの自由律俳句でした。五七五の定型に縛られない俳句です。

《さっきからずっと三時だ》

《無伴奏にして満開の桜だ》

 

  まるで時間が止まったような休校の日々の、静まりかえった街の桜の、空白を埋めるように、岡田さんの句がぴたりとあてはまりました。平明で短い言葉から、驚くほど鮮やかな情景や切なる心が伝わります。また時間は一方向にだけ進んでいるのではなく、時空を超えてどこかで誰かと結びついている気がして励まされました。

 

句集『無伴奏』を岡田さんご本人から取り寄せ『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』と併せて自粛中たびたび開き、娘たちとも読んだことを思い出します。

 

長い休校が明け、6年生になった長女の担任の先生に『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』と『無伴奏』をご紹介したところ、授業でも読んでみたいとのこと。子どもたちは「きみ」のように句を味わい、クラスで句会も催されました。その様子や作った句を子どもたちは岡田さんに手紙で伝え、お返事が届き、交流がうまれました。子ども扱いせず一人ひとりに言葉をかけてくださる岡田さんと、「ぼく」の視線が重なります。

 

6年生にとっては殊更に、特別な年でした。みんなで大きなことを成し遂げる活動は制限されました。でも上辺の同調よりも、自己の深いところから発せられた表現をみんなでわかち合うことで共鳴し、真の一体感が得られたのかもしれません。

《じっさいにあったことや、げんじつにあったこととはべつに、ほんとうにあったこと、が、ある。》

「ほんとうのこと」って何だろう。詩は私たちに問いかけます。私たちは自らに問います。

 

これから孤独を知り、自分のなかに確かな何かを見つける旅に出る直前のきみたちへ、自由律俳句を届けられて良かった。ゆびをぱちんとならしたら、春にはもう中学生だね。

(しのはら・のりこ)