8年前の2013年、ぼくは「絵本フォーラム」第91号で『ともだち』(玉川大学出版部刊)を取りあげている。谷川俊太郎が「ともだち」の語釈を詩文で語り、和田誠がその語釈を特異な誰にも親しいイラストで表現した。
絵本は、「ともだちって…、ともだちなら…、どんなきもち…」などと美しいことばと絵で語りかける作者ふたりの人間や平和に対する思いが彷彿する名作だ。ぼくのような高齢者にも示唆を与えてくれた。
ぼくはこの一文のなかで数人の友人について触れた。かれらは、永い交友のなかで友となった「そばにいなくても いまどうしているかとおもいだす」幼なじみや「かあさんにもとうさんにもいえないことをそうだんできる」学友や、談論風発呑み交わし師弟関係にも似た「としはちがってもともだちはともだちである」小説家だった。いずれも共通するのは利害関係いっさいなし。友人というより親友・畏友でだ。友人だと思っても半数は自分を友人と思っていないという調査結果もある。友人親友をひとくくりにはできない。
ところで、友人は作ろうと思ってつくれるのか、いつのまにか友人になっていたという関わりだろうか。
同じタイトルの幼児絵本『ともだち?』(リーブル刊) がその一例を物語っている。
森の学校に転校してきたばかりのオオカミのロウロウが主人公。敵役は狡猾なキツネのツネだ。そして、ロウロウのかあちゃんが渋い役回りを担う。この三人(匹)の動物たちが主なキャストでおはなしは展開する。
イラストも力感あふれるいい展開だ。赤緑茶黄白を濃密に彩色し塗り込んで動植物に大胆にシャープに描出して魅力をひきだしている。この色彩・造形がおはなしに適う力強いリズムを生み出したのではないかと思う。
ロウロウはともだちが欲しくてたまらない。けれど、おしゃべり苦手でうまく声をかけられない。そればかりか、怖がられてしまうのだ。だから、ロウロウの学校での立ち位置は、”たのしそうに遊ぶみんな、ひとりぼっちのロウロウ”の構図となる。
で、ロウロウはかあちゃんに「ともだちはどうすればできるか」とたずねるのだが「いつか きっとできるよ」とそっけない。なんだか悠然としている。それより「とおぼえのけいこをしてごらん。こころがおおきくなるよ」と促すのだ。ロウロウはかあちゃんのいうように遠吠えの練習にはげむ。ロウロウは素直な少年なのだ。
物語はマラソン大会で盛り上がる。優勝宣言をしたのはキツネのツネだ。走ることなら負けないとロウロウも自信を秘める。勝てばともだちができるかもしれないと希望もふくらむ。
ツネがスタートからすごいスピードで走り出す。ロウロウはゆっくり走り出し後から追い上げる戦法をとった。しだいにロウロウはみんなを抜き去り残るはツネだけに。ところが、だ。ツネは腹痛で走れないとうずくまっていた。そこでロウロウは、なんとツネを背中に乗せて走り出したのだった。
ゴールに近づくと腹痛が治ったというツネを降ろす。降ろすや否やツネは全速で走り出したではないか。ツネはそのままゴールインして優勝。走り去るツネを呆然と見送るだけだった。ロウロウは何も言わずに立ち去った。……ツネの腹痛は狡猾でひきょうな作戦だった。
まんまとはめられたロウロウだが、その夜もロウロウは遠吠えの練習にはげんでいた。驚いたことに、そこにツネがやってきたのである。ツネは「おいらのこころはちっちゃい。きたない」と反省のことばを吐き、本当の優勝はロウロウだと懸命に謝るではないか。ずるをして得た優勝はツネの心を喜びからすっかり苦痛に変えていたのである。かくして損得の感情を捨て去ったふたりが「いっしょにとおぼえをしよう」と吠え合ったのは語るまでもない。いつのまにか二人は「おれたち、もう、ともだちだよね」とたがいを認めていた。
損得・利害でつながらない。ロウロウのような真情を持つことができれば、あせることはない。自然に友だちはできるのだ。
(おび・ただす)
『ともだち?』うえの よし/作 さとう のぶこ/絵 リーブル