飫肥 糺 連載120 『とうさん まいご』 

「絵本フォーラム」第131号・2020.07.10

フラップ絵本で楽しむ、
ゆかいな遊戯ににた
「まいごさがし」物語。

(偕成社)

飫肥 糺( 批評家・エッセイスト)

『とうさん まいご』
五味太郎/さく
偕成社

『大辞泉』によれば、迷子(まいご)はまよいごの音が変化した言葉だという。もともとどこにいるのかわからなくなったり、連れにはぐれてしまったりした状態の子どものことを意味したのだろう。

 昭和初期から中期、とくに地方では、迷子は、百貨店や動物園で店内・園内放送や係員の世話で発見されるという、ほほえみ交じりに語られる出来事(当事者の子どもにとっては、それはそれで心の痛みとなった)とはちがう。家庭に電話すらない時代、迷子で行方知らずとなれば地域あげての大騒動にもなったのだ。

 痛い記憶は、ぼくにもある。昭和27年小学二年、春の遠足で迷子になる。転校したばかりであったぼくは町をほとんど知らなかった。知っていたのは自宅周辺と通学路だけだ。で、遠足当日、学校に朝八時集合した二年総員360人は2列縦隊で徒歩で出発した。途中の小休止をはさみほぼ3時間、目的地の清冽な水を湛える河原に着いた。母の弁当に舌鼓を打ち一心に遊ぶ。転校してはじめて何人かの友だちも生まれた。

 行きはよいよいだった。しかし、帰りはこわかった。往路の小休止場所で点呼をとり全員解散となったのだ。この土地で生まれ育った学童たちは家路を知っていただろう。まるで不案内のぼくにとっては、おいおいどうしてくれるんだ、ではないか。案の定、級友たちと歩きはじめて一人去り、二人、三人去るうちにひとりになってしまった。

 歩き進むが、家路はどの方向へいけばよいかさっぱりわからない。夕暮れは近づき、路上で立ちすくんでしまう。ぼくは迷子になったのだ。泣きべそをかいたのではなかったか。困り果てたぼくに通りすがりのおじさんが気づいてくれなかったら、どうなっていたかと今でも痛い憶いが走る。そのときのぼくは心細さに不安がつのり、形容しがたい怖れにおそわれる。そんな心情だったと記憶する。

 『大辞泉』は、迷子になるのは子どもだけでなく、おなじ状態になる人も迷子だとする。つまり、だれだって迷子になる。で、現在の迷子の一例を五味太郎が『とうさん まいご』で愉快に描く。”迷子になるのも悪くないぞ”といった趣きの快作だ。

 舞台はデパートで、おもちゃ選びに夢中になるぼくをしばし放って、とうさんが動く。ぼくがふりかえると、とうさんがいない。そこで、ぼくはとうさんさがしにデパート中をめぐるという物語。絵本は、奇数頁が部分断裁されたフラップしかけで作者の独創作品。とうさんらしい特徴の一片をぼくは偶数頁で発見するが、奇数頁をめくると、あれっ、とうさんじゃないぞ、という見開き4頁が一幕となる。絵本は八幕のくりかえしで展開する。このめくりのくりかえしが楽しい。たとえば、柱の端に発見したとうさんらしい背広姿は、奇数頁をめくると、まったくの別人であったり、紳士服売場で見えたとうさんのらしい帽子は、マネキンのものであったり、ピアノの下に見えたとうさんのらしいくつは、青年のくつだった……、という具合。何度か読むうちに、とうさんが迷子なのか、ぼくが迷子なのか、どちらでもよくなる。かくれんぼ遊びに見えてくる愉快さなのである。登場キャラもよく立っている。とうさんより立派な紳士、おしゃれマネキン、女性と手をつなぐ青年、金髪レディ?、トイレに立つ男ふたりと、吹き出したくなるキャスティングではないか。 とうさんを見失ったぼく、ぼくの存在を気にもかけてないように動くとうさん、ふたりは不安な想いのかけらさえ感じさせない。心通じる父子の心寄せる関係は、だいじょうぶだぁとでも言っているようである。

 見逃せないのは、エスカレーターでデパートへ入る表紙から、ぼくととうさんが仲良く退場する裏表紙まで気持ち良くつながる構成の見事さ、隙のなさだろう。快作である。

(おび・ただす)

『とうさん まいご』
五味太郎/さく
偕成社