飫肥 糺 連載125  圧巻絵画ときれきれのことばがふたりの関係をにやりと語る『ふたり』(富山房)

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 広がる在宅ワークも拍車をかけたのだろうか。ペットを飼う人びとが増えている。なかでも、たいへんなネコブームだという。ネコは、犬より散歩やトリミングなどの手がかからなくて飼いやすいこともあるだろう。

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ところが、ネコはもともと単独でも生き抜く力を身につけた動物だ。だから、犬のようには人間になつかない。愛されるネコにとって居心地は悪くないはずだが、人間たちが思うほどなついてはくれない。飼い主とネコとのこんな関係、いくらかなりと人間親子の関係に似てないだろうか。

ぼくは犬派である。犬と永く暮らしてきたこともあるからだろうか。学童期に見た獰猛なネコのすがたをどうしても連想してしまうのである。1950年代の南九州。宮崎の田舎町で育ったぼくは鶏小屋のひよこを襲うネコを何度も見た。衛生インフラが全国的に未整備であった時代、どこにでもネズミがいた。ときおり、ネコとネズミが夜半の深い静寂を破る。天井空間をドタバタと追い逃げまわる両者の狂騒音声である。童心には不気味だった。

不仲のたとえを「犬猿の仲」という。ネコとネズミの関係は仲の悪さばかりではない。ネコは魚肉好きだがネズミも食う。肉食だから当然で不思議ではない。ネズミは猫にとって食べごろの大きさにちがいない。けれど、ふんだんに好餌を得られる現在の飼いネコたちはネズミを餌としないのかもしれないが、野良ネコはどうだろうか。本能を研ぎ澄まして小動物をおそうはずだ。環境は動物を変え、人を変えるのである。

十二支動物の由来伝承は面白い。正月の寺詣競争が動物たちの間にひずみを生じさせる話だが、もともとは、犬と猿も、ネコ(あるいはトラ)とネズミも、仲は良かった。昨今のテレビ動物番組には、犬の背に乗り愉快顔の猿やネコに抱かれるように眠るハムスター(ネズミの一種)なども登場する。まぁ、環境が整えば仲の悪さは仲の良さにも転じるということだろうか。

鬼才・瀬川康男はネコとネズミの絶妙なふたりの関係を圧巻の絵画ときれきれのことばで描ききっている。ネコがネズミを見つけてにやりとしパンチを食らわせておそう。だがしかし、ネズミだってそうはさせぬとひらりと逃げる。もちろん、疲れきったふたりは仲良く眠りこける結末。動物ふたりの鬼ごっこのような動きが、鮮烈に眼に飛び込んでくる物語である。

作者は自然のなかに生きる多くの生き物たちと息遣いを共にした。そのせいだろうか、作者が描くネコとネズミの活き活きとした表情がいい。ダイナミックでコミカル、そして洒脱な味わいは、子どもから大人の心まで掴んでしまうのではないかと、ぼくは思う。

独特の繊細で切れ味鋭い線と点の描出は原画をリトグラフにしたことでいっそう鮮明な表現に。とにかく、様式美に通じる左右の頁構成から文様や描き文字など細部まで徹底した作品づくりに、書籍編集を経験してきたぼくは、ただ唸ってしまうばかりなのである。

語られることばも強く生きている、きれきれですごい。にやり、で始まり、きらり・ばさり・にたり・ひらり・とぷり・どぶり・げろり・ばたり・ねたり・ふたり、そして、おわり、で閉じる。わずか12語だけで綴りきっている。助数詞のふたり、名詞のおわりを除けば副詞だけ。すべての単語が「り」の韻を踏む。なかに造語まで加えて、ひねりにひねり、物語る。秀逸な詩歌のリズムではないだろうか。稀な傑作のひとつだと思う。(おび・ただす)

『ふたり』

瀬川康男/さく

冨山房

連載 遠い世界への窓 連載14 『島――よくある物語』

遠い世界への窓 連載14 『島――よくある物語』

東京大学教養学部
非常勤講師
絵本翻訳者

『島――よくある物語』

島ーよくある物語 「これまでに、こんなに恐ろしい絵本を読んだことがない」と思った。どうして、そんなにも恐ろしいのか。それはきっと、この物語に出てくる人たちがみな、わたしに似ているからだろう。彼らの醜さ、愚かしさ、残酷さ、身勝手さ――そのどれもこれもに対して、「これは、わたしだ。彼らはわたしに違いない」と感じる。そして、その強迫観念が、ぬぐってもぬぐっても頭から消えないのだ。

*   *   *

物語の舞台は、絵本のタイトルの通り、「島」である。島は黒い。海も黒い。物語は、まるで木炭で描かれたかのようなモノクロである。絶海の孤島というほどでもないが、決して大きな島ではない。島全体がひとつの村といった感じだ。その島に、一人の男が流れ着く。男は小舟に乗って流されてきたせいか、服を着ておらず、何も持っていなかった。

島はすぐさま騒然となる。「男は、島民たちとは似ても似つかない姿をしていた」という一文は、いくつもの意味で滑稽だ。ちんまりと浜辺に立つ男は、小柄でなで肩の優しい顔立ちだ。一方、手に手に熊手や鍬を構えて男を追い立てようとする島の男たちは、みな腕っ節の強そうな大男で、男を恐れる理由などあるようには見えない。そして、もちろん、どちらもモンスターなどではない、同じ姿の人間である。

どこからやって来たとも知れない素っ裸の男に、何かを恵んでやる道理もないだろう。そいつはただ、海から流れ着いただけの輩なのだから、また、海に帰ればいいじゃないか。そうして村人たちは、男を波間に突き返そうとする。海の怖さを知る漁師の進言で、男が島にとどまることをしぶしぶ認めて「受けいれた」ものの、彼らがしたことと言ったら、使われていないヤギ小屋に男を押し込め、「小屋の扉という扉を釘付けにして」ふさいだことだけだった。

ほっと胸をなでおろしたのも束の間、実は、男は、とんでもなく恐ろしい男だったのだ! 扉をふさいだ小屋から出てきて、村をうろつき回る(食べるものがないから腹がへったのだ)。あろうことか、真夜中にさえ出没する(ただし、村人たちの夢の中に!)。手で肉を喰う(おそらくナイフやフォークをもらえなかったのだろう)。そして、肉の骨までしゃぶりつくす(食事が十分ではないのだろう)。「恐ろしいよそ者が島民の恐怖心をあおっている」ことは、やがて新聞でも報じられるようになる。

そうだ、島は今、「危険な状況だ、手遅れにならないうちになんとかせねばもう限界……」。そうして島民たちは、ふたたび手に手に農具をもって、ヤギ小屋に突進していく。

*   *   *

この絵本の原書は、ドイツで刊行された。小舟で『島』にたどり着く男は、ボートで地中海をわたって欧州にたどり着く、何百万人もの人々をありありと想い起こさせる。そして、それを迎える人々、受け入れるか否かで大きく揺れる人々の姿も。

期せずして、この絵本を多くの人たちと読む機会にめぐまれた。黒い画面の後ろに見え隠れする、告発的な黄色、病的な青、そして、炎の赤。この「島」を見た人たちはみな、語らずにはいられなくなるようだ。「まるまると太った島の人々。この島には食べ物が豊富にあるだろうに、なぜ男に分けてやることができないのか?」、「流れ着いた男には、自らを処していく意思はないのか?」、「この島の人々が守りたかったものは何だったのだろう?」

*   *   *

たくさんの人たちが自問自答する言葉に、私自身、深くうなずいた。この黒い「島」は、わたしたちの「島」でもあるのだろう。

(まえだ・きみえ)