飫肥 糺 連載117『ちいさい わたし』

育ちのとちゅうの少女とゆったりと見守る母親

飫肥 糺( 批評家・エッセイスト)

『ちいさい わたし』かさいまり=さく おかだちあき=え くもん出版

急伸する高度情報化やグローバル経済社会が国家間をはげしく軋ませている。環境危機や貧困問題も喫緊の待ったなしの大問題だ。国内でも同じ。権力の一元化が進み、ひとにぎりの資産家たちに富が集中する。生まれる不平等な格差社会。かつての企業社会を支えた終身雇用制は後退して2000万人を超える人びとがいまや非正規雇用である。実に37%を超える労働者が不安定な暮らしを強いられているのだ。少子化の一因がここにある。そして高齢化はますます進行し超高齢社会となった。

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 多くの若い親たちは呻吟する。子育て、暮らしの設計……、と呻吟を止めない。問題だらけの保育やIT情報環境に投げこまれる子どもたちも大変だ。
  たびたび起きる親による幼児や児童への虐待事件。いじめ、自殺。SNSなどに翻弄されてとんでもない被害にあう子どもたちもいる。
 子育てはつくづくむずかしいと思う。核家族があたりまえとなった現在、身近に子育て経験者である両親や祖父母のいないちいさな家庭が多い。まして、近所の大人たちが適宜なちょっかいを出してくれることなどもまるでない。で、若い母親・父親は無手勝流で子育てにのぞむ。

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 もともと、子どもの心身発達のようすを理解するのはむずかしい。個人差があり年齢だけではよく分からない。だから、おなじ年齢だからといって誰彼と自分を比べられたら子どもたちは迷惑だろう。
 ただ、早い遅いはともかくとして、子どもたちはみんな順序だった段階をふみながら成長する。ことばが分かり歩けるようになるまでの赤ちゃん期。思いのままに動きまわり物をいじくりはじめるなど遊ぶ楽しさを知る幼児の前期段階。後期に入り3、4歳をすぎるころになると自分の存在を知り自我を生む。何でもやってみたい意志を募らせる。好き・嫌いや恥ずかしさの感情も持ちはじめるのがこのころだろう。

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 こんな幼児期の少女をふんわりとやさしく描くのが絵本『ちいさいわたし』である。何でもやりたい主人公のわたしは何かとうまくできないことをよく知っている。利口な少女なのだ。うまくできないのは、わたしがちいさいから……、ということらしい。
 だから、いつも助け船はお母さん。愛犬との散歩には同行してもらい、恥ずかしさであいさつできないときはスカートの陰に隠れる。もちろん、真っ暗がこわい少女は寝つくまで本を読んでもらう。助け船のないときは大変である。わがままいっぱいで我を張り、ともだちとうまく遊べない。それもこれも、ちゃんとできるようになるとちゅうだからというではないか。

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 なるほど、作者のねらいはここにあったかと想うばかりである。幼児・学童期の発達段階のとちゅうをちゃんと認識しようというのだろうか。 わたしのとちゅうが終わり、少女は語る。
「いろんなこと できるようになったら ちいさい わたしじゃ なくなるの。そうしたら わたし どんなこに なるのかな」
と少女の言葉に”すてきな未来が待っているよ”と応えたくなるお話ではないか。

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幼児・児童のとちゅうという発達段階を、ぼくらはどれほど意識してきたか。早いとちゅう・遅いとちゅうもあるだろう。少女のとちゅうを、ゆったりと見守る母親の姿が舞台袖の光景のように描かれているのが、とてもいい。
(おび・ただす)

(『ちいさい わたし』かさいまり=さく おかだちあき=え くもん出版 )