飫肥 糺 連載123 『葉っぱのフレディ—―いのちの旅――』 

「絵本フォーラム」第134号・2021.01.10

生きること・死ぬことをみんなで考える 示唆に富む絵本  『葉っぱのフレディ—―いのちの旅――』(童話屋)

飫肥 糺( 批評家・エッセイスト)

葉っぱのフレディ
葉っぱのフレディ

 数量では測れない重さがある。喜怒哀楽の感情などがそうで、最も尊重されなければならないのが「いのち」の重さだろう。コロナ禍の一年、そんな人命の重さが軽く扱われていないか。死者や感染者数の多少で他国や他地域と較べて優劣を語る風潮はどうにも不遜に思えて気分が滅入る。

 師走も半ば。新型コロナ感染の波は止まらない。連日のように過去最多という各都道府県の感染状況が報道される。「これからの3週間が勝負だ」と担当相が拳をふりあげる。首相は「いのちと暮らしをしっかりと守る」とボソッとつぶやく。つまりは自主的行動変容を求める精神論……。一方で自ら仕掛けた旅行・飲食を煽るGO TOキャンペーンは続行というのだから矛盾だらけだ。続行を固執する背景は奈辺にあるやだ。かくして感染拡大はつづく。医療従事者は極度に疲弊し医療体制は逼迫、崩壊の瀬戸際にある自治体も出てきた。

 ようやく政府が重い腰を上げたのは12月も14日。年末年始の15日間GO TOトラベル停止を決定した。世論に押された渋々の決断だったと思う。

 コロナ禍と関わるのかは不明だが深刻な問題も進行する。自ら命を絶つ人びとの増加である。

 旅行や外食など恩恵を受けるのはゆとりのある一握りの人々にすぎない。コロナ禍は拡大する格差社会を顕在化した。一人親家庭、非正規就業者、高齢療養者、失職者、将来を憂う若者たち……。先行きの不安を抱え込む人びとは少数ではない。自殺者のなかに現況に因果を持つ人が存在してはいないかと胸が痛む。

 ぼくは学校教育の場で「生きるとは?/死ぬとはどんなことか?」と、問い・考える学習を受けたことがない。日本が「自殺大国」と不名誉な呼ばれ方をするのは、児童生徒期の学習課程で哲学や心理學など人間の生死について学ぶことが少ないことに多少は関係していないかと勝手に推し量っている。

 絵本『葉っぱのフレディ』にこんな場面がある。紅葉時期を経て寒さや強い風が楓の葉をおそいはじめる。葉っぱはこらえきれずに枝から吹きとばされてゆく。主人公フレディの親友ダニエルは、おびえる葉っぱたちに「みんな引っ越しするときがきたんだよ」と諭す場面だ。さて、引っ越しって何だろう。

 考えることが好きで物知りなダニエルは、いつもフレディのよき相談相手である。「引っ越しって死ぬことでしょ。ぼくこわいよ」とフレディは不安げだ。ダニエルは「春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。変化するって自然なことなんだ。死ぬというのも変わることのひとつ。怖くはないさ」と諭して、さらにつづける。「いつかは死ぬさ。でも、いのちは永遠に生きているのだよ」と……。

 作者バスカーリアは、ダニエルに何を語らせようとしたのだろうか。<死とは自然の摂理で自然なこと><死んでもいのちは生きている>とは示唆に富む考えではないだろうか。

 米国の高名な教育学者である作者は児童生徒の教育現場で行ってきた豊富な「いのちについて学ぶ」教育実践で広く知られる。『葉っぱのフレディ』はこの作品を材料に、「死ぬこと」、「生きること」について、みんなで考えて欲しいということではないかと思う。

 いっしょに生まれた葉っぱたちが春・夏・秋を季節に準じて楽しく生きるようすがえがかれる物語は共生する人間たちに涼しさを与えたり、鮮やかな紅葉を見せたりして冬に至る四季の変化を謳いあげる。冬の描き方も傑出で、葉っぱが散ったのちに”いのち”が土や根の目に見えぬところで新しい葉っぱを生み出す準備にかかるとする。

 本書は「精一杯生きることが死ぬことだ」と語っているのではないだろうか。かぎりある尊いいのちだ。自然が許すかぎり、ぼくらは生きぬかなければならない。(おび・ただす)

『葉っぱのフレディ—―いのちの旅――』

レオ・バスカーリア/作
みらい なな/訳
童話屋