飫肥糺 連載140 のびのび・せつなく・たくましい。 豊かな純粋表現がうったえる学童詩54篇(『一年一組 せんせい あのね』 鹿島和夫/選 ヨシタケシンスケ/絵 理論社)

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たましいをゆさぶる子どもの本の世界 140    飫肥 糺

のびのび・せつなく・たくましい。 豊かな純粋表現がうったえる学童詩54

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せんせい

にんげんは なんのためにいきているんですか

ぼくは

たっぷりあそんで たのしむためだと おもいます

せんせいはどうおもいますか   (「にんげん」:えぐさたくや)

 

発話の主は小学一年生の少年。いいなあ。この、自由でのび゛びした言葉のつらなり。そうだよな。子どもの学びは遊ぶことからはじまるのだ。老年となって子ども時代をときおり回想するぼくは、しみじみとそう思う。

こんなふうに語りかけられた現在の先生は、どう応えるのだろう。活き活きした言葉に押されて、「そうだよねえ」とでも応えるのだろうか。それとも、「遊んでばかりじゃだめだ……」とか、子らの自由を制限するような言葉を放つのだろうか。幼児や学童の吐くひとことやつぶやきは、虚飾のまったくない純粋表現である。定型をもたない珠玉の詩ではないかと、ぼくは思う。

選者は子どもの表現活動にすぐれた教育実践をかさねた名高い元・小学校教師。一年生を担当することが多かったという選者は、永く、子どもたちの発することばの数々を「あのね帳」に記録しつづけて14巻もの児童詩選集を完成させている。つぎのような心にしみるつぶやきもある。

 

おかあさんがしごとにいっているから

学校からかえって「ただいま」といっても だれもこたえてくれない

でもわたしのこころの中に おかあさんがいるから

へんじをしてくれる   (「ただいま」:よしはらきよみ)

 

少女は学校から帰るといつも玄関で「ただいま」と声をだす。けれど家には誰もいない。心の中に母親の声を聴くという。まだ一年生という少女の心情、せつない思い。けれどそれにたえるたくましさをにじませる少女の言葉に胸を打たれる思いとなる。共働き家庭が一般的となった令和の現在、多くの家庭で親不在の留守番役を学童たちが担う。

学童らの声は言葉となり詩を奏でる。『一年一組 せんせい あのね』 の詩は54篇。多くの読者にすっかり馴染みとなったヨシタケシンスケの親しみやすいイラストを瀟洒なデザインで配している。

どの詩にふれても、「あのね」のつぶやきは素朴で鋭い言葉となって読み手の心に突き刺さる。かれらの思いや世を観察する目や耳のするどさに目を見張るばかりなのだ。

一方で、子どもたちの貧困や児童虐待の状況は深刻だ。行政も迷走をつづける。埼玉県の自民党県議団提出の虐待禁止条例改正案は悪例の極みだった。あたりまえのことだが、健康・保護・生活水準などについて子どもたちには基本的人権が存在する。遊ぶこと・学ぶことが子どもに欠かせない権利であることも自明の権利だ。子どもだけの登下校や留守番、幼児を置いてちょいとゴミ置き場にゆくことも放置にになり虐待だとする無茶苦茶な思考がどこから出てきたのか理解不能ではないか。こんなことが条例制定されてなるものかと県民たちが各所から反対ののろし……。さすがに条例案取り下げとなった。親と子どもを追い込むこんな無茶な行政施策を許すわけにはいかない。

だからだろう。純粋でしたたかな学童たちは、希望をこめて、大人たちをしっかりと諭す。

 

こどもはいつかおとなになるのでしょう

おとなはむかしこどもだったんでしょう

みんな そのときのきもちを 

たいせつにしてもらいたいなあ   (「こども」:いわはまえりこ)

 

それでも、天性で、跳ね、あそび、まなぶ子どもたちのことだ。素朴な感性を発揮して純粋に自然を愛でている。

 

きがかぜにのっていました。

はっぱがいっぱいありました。

だから おんがくになるのです。   (「き」:やまとなおみ)

 

すばらしい感性ではないか。ぼくも、子どもが諭すように童心をいくらかなりと取り戻して、自由な風趣を感じとれることばをつぶやきたいと思う。(おび・ただす)

 

『一年一組 せんせい あのね』

鹿島和夫/選

ヨシタケシンスケ/絵

理論社

 

子ども歳時記149 ホームランを打ったことのない君に/舛谷 裕子(長谷川集平/作、理論社)

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子ども歳時記『ホームランを打ったことのない君に』舛谷 裕子

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今年の春、久しぶりに高校の同窓生と、第95回記念選抜高等学校野球大会観戦のために、阪神甲子園球場へ出かけました。母校は出場していなかったのですが、偶然にも出身県である香川県の2校の試合を観戦することができました。どちらも負けてしまいましたが、野球に詳しくない私でもわかるような「手に汗握る」好試合でした。その時、初めて知ったのですが、高松商業高等学校(通称は高商)には「志摩供養」と呼ばれる伝統儀式があるのだそうです。

1924年(大正13年)に開催された、第1回記念選抜高等学校野球大会で高松商業高等学校が優勝した年、三塁手であった志摩定一さんが選抜大会以前より患っていた肺の病気でその冬に亡くなられました。「自分は死んでも魂は残って、三塁を守る」と遺言を残され、その意志を継ぐために後輩たちが1930年代に始めたのが「志摩供養」だということです。以前は初回の守備につく前に、全員で三塁ベースを囲んで円陣を組み、主将が口に含んだ水を三塁ベースに吹きかけ黙祷していました。1978年に高野連から遅延行為及び、宗教的行為にあたるという理由で中止勧告を受け廃止されていましたが、数年前から試合前に三塁手がひとりでベース前にひざまずき、黙祷を捧げているのだそうです。その若者の真摯な姿を広い球場で目の当たりにした時、私にはそこが神聖な場所と思え、心がうたれました。

ちょうどその頃、WORLD BASEBALL CLASSIC 2023(WBC2023)も開催されていました。当初、どれくらいすごい大会なのかもあまりわからず、高校野球のニュースが少ないと私は不満を抱いていました。日本の選手が「侍ジャパン」と呼ばれ、どんどん勝ち進み優勝しました。甲子園球場の電光掲示板には“WBC 日本代表 世界一 おめでとう!”と映し出されていました。そこで初めて実感できました。その後のニュースでも日本人選手や日本人ファンの言葉や、態度、マナーの良さや、品位などが連日報道され、この春はまさに野球漬けの日々でした。

さて、この絵本はいつかホームランを打つために努力を続け、夢を追う少年の姿が描かれています。高校球児やWBCの選手の活躍は、幼い頃から、暑い時も寒い時も毎日毎日練習をした結果なのだと思います。そして、毎日、同じように練習していても結果が出なかったり、怪我などで野球をやめてしまわなければいけない人も大勢います。野球だけではなく、最近は結果を求められる場面が多いと感じます。思い通りにならず悔しかったり、失望したり、心残りがあるまま次に進んでいかなければならない時もあると思います。結果はどうであれ、「やりぬいた!」、「がんばった!」体験を認めたいものです。夏に子どもは大きく成長するといわれています。そして、それは大人になってから役に立つのだと思います。何時も「きっと大丈夫!」と見守り続けていたいものです。(ますたに・ゆうこ)

a-masutani
ますたに・ゆうこ

新連載「わたしの心のなかにある絵本たち」#64 かえでの葉っぱ

#64 かえでの葉っぱ

 『かえでの葉っぱ』

(D.ムラースコヴァー/文、

出久根育/絵、関沢明子/訳、理論社)

チェコの画家であり作家であるムラースコヴァーさんがチェコの森でとりこにされた旅をする美しいかえでの葉っぱについて書いたお話です。絵はチェコ在住の出久根さんに託し、文と絵がシンフォニーのように響き合い、人生の四季についても考えさせられる味わい深い絵本です。

(笹川直子/芦屋11期)