子ども歳時記150 絵本と“こども哲学”/篠原 紀子(『おなみだぽいぽい』 ごとう みづき/作、ミシマ社)

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子ども歳時記『絵本と“こども哲学”』篠原 紀子

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この夏を、こどもたちはどのように過ごしたでしょう。夏休みが終わり、二学期が始まる時期、心が少しざわざわすることがあるかもしれません。

絵本講座の活動をしていて、「小学生になったので絵本は卒業」と言われたことが幾度もありました。でも絵本に卒業はない、ずっと友だちでいられると私は思います。不安な時、迷った時、絵本はいつもそばにいてくれます。

大きくなっても絵本に触れる機会を、という思いから“こども哲学”の活動に絵本を取り入れています。“こども哲学”とは、答えのない問いについて考えたことを、お互いに話し聞きあう場のことです。「自由とは?」「どうして学校に行くの?」「友だちは多い方がいい?」といった問いについてみんなで対話します。決して結論をどちらかに導くことはせず、大人もこどもと同じ目線で、普遍的な疑問について考え続けるのです。

昨年はじめた“こども哲学”の小さな会で『おなみだぽいぽい』(ミシマ社)を読みました。授業で先生の言うことがわからなかった「わたし」は誰もいない場所で泣いてしまいます。隠しておいた大好きなパンの耳も、今日はのどが詰まってうまく食べられません。涙のしみたパンの耳を天井の穴にむかって投げると、その塩気が好きな鳥がキャッチして、たくさん食べてくれるのでした。

この絵本を読んで湧いてきた問いを、こどもたちと話し合いました。「ぼくもこんな気持ちになることあるよ」「悲しいことがあった時どうする?」「泣いて気を紛らわそうとしたのかな」「何か問題が起こった時、解決しないといけないのかな」そんな会話のなかから「逃げるのは良いこと? 悪いこと?」という問いを見つけ、みんなで対話することになりました。

参加者の中学生は、小学校の時は学校がきらいでした。行きたくなかったけれど、学校を休む勇気はなかったと言います。学校に行くのは当たり前のことで、そこから自分が外れるのは不安だったからです。だから、学校に行かないと決めた子はとても勇気があって意志が強いと思ったそうです。

学校に行かないことは、一見すると逃げているように映るかもしれません。でも本当は自分自身と向き合い、立ち向かっているのかもしれないという意見があがりました。本当の気持ちを抑えて、みんなに合わせて学校に行くことの方が逃げているといえるかもしれない、そんな話でその日はおしまいとなりました。

絵本をきっかけに生まれた小さな問いから、さまざまな考えが萌芽します。答えのない世界へ、自らの力で分け入ろうとするこどもたちの眼差しに、私は希望の光を見ます。絵本はいつまでも、私たちにぴったりと寄り添っています。(しのはら・のりこ)

歳時記 篠原紀子
歳時記 篠原紀子

子ども歳時記149 ホームランを打ったことのない君に/舛谷 裕子(長谷川集平/作、理論社)

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子ども歳時記『ホームランを打ったことのない君に』舛谷 裕子

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今年の春、久しぶりに高校の同窓生と、第95回記念選抜高等学校野球大会観戦のために、阪神甲子園球場へ出かけました。母校は出場していなかったのですが、偶然にも出身県である香川県の2校の試合を観戦することができました。どちらも負けてしまいましたが、野球に詳しくない私でもわかるような「手に汗握る」好試合でした。その時、初めて知ったのですが、高松商業高等学校(通称は高商)には「志摩供養」と呼ばれる伝統儀式があるのだそうです。

1924年(大正13年)に開催された、第1回記念選抜高等学校野球大会で高松商業高等学校が優勝した年、三塁手であった志摩定一さんが選抜大会以前より患っていた肺の病気でその冬に亡くなられました。「自分は死んでも魂は残って、三塁を守る」と遺言を残され、その意志を継ぐために後輩たちが1930年代に始めたのが「志摩供養」だということです。以前は初回の守備につく前に、全員で三塁ベースを囲んで円陣を組み、主将が口に含んだ水を三塁ベースに吹きかけ黙祷していました。1978年に高野連から遅延行為及び、宗教的行為にあたるという理由で中止勧告を受け廃止されていましたが、数年前から試合前に三塁手がひとりでベース前にひざまずき、黙祷を捧げているのだそうです。その若者の真摯な姿を広い球場で目の当たりにした時、私にはそこが神聖な場所と思え、心がうたれました。

ちょうどその頃、WORLD BASEBALL CLASSIC 2023(WBC2023)も開催されていました。当初、どれくらいすごい大会なのかもあまりわからず、高校野球のニュースが少ないと私は不満を抱いていました。日本の選手が「侍ジャパン」と呼ばれ、どんどん勝ち進み優勝しました。甲子園球場の電光掲示板には“WBC 日本代表 世界一 おめでとう!”と映し出されていました。そこで初めて実感できました。その後のニュースでも日本人選手や日本人ファンの言葉や、態度、マナーの良さや、品位などが連日報道され、この春はまさに野球漬けの日々でした。

さて、この絵本はいつかホームランを打つために努力を続け、夢を追う少年の姿が描かれています。高校球児やWBCの選手の活躍は、幼い頃から、暑い時も寒い時も毎日毎日練習をした結果なのだと思います。そして、毎日、同じように練習していても結果が出なかったり、怪我などで野球をやめてしまわなければいけない人も大勢います。野球だけではなく、最近は結果を求められる場面が多いと感じます。思い通りにならず悔しかったり、失望したり、心残りがあるまま次に進んでいかなければならない時もあると思います。結果はどうであれ、「やりぬいた!」、「がんばった!」体験を認めたいものです。夏に子どもは大きく成長するといわれています。そして、それは大人になってから役に立つのだと思います。何時も「きっと大丈夫!」と見守り続けていたいものです。(ますたに・ゆうこ)

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ますたに・ゆうこ

子ども歳時記148 想像から始まる『クジラにあいたいときは』/中村 史(ジュリー・フォリアーノ/文、エリン・E・ステッド/絵、金原瑞人/やく、講談社)

歳時記148

『クジラにあいたいときは』

想像から始まる『クジラにあいたいときは』  中村 史

歳時記148
歳時記148

空の色が変わり、緑があふれるこの季節、これから何かが始まりそうな予感に、顔も気持ちも上向きになる。顔を上げれば、視界が広がり、少し遠くのものが見えるようになる。子どもにとっては、大きな変化である。子どもは、読んでもらった絵本や、大人たちの会話、さまざまな場所で目にする映像など全ての情報から、今ここにないものの存在を知っていく。知って、子どもの心がどう動くか、どう足を踏み出すか、その環境に心を配ることが大切だ。

『クジラにあいたいときは』(講談社)は、クジラに会いたいと願う少年の物語である。やわらかな質感の表紙をめくると、静かな語りが始まる。クジラに会いたいときは、窓がいる。窓から見える海もいる。クジラは遠くにいるので、すぐには会えない。待って、眺めて、見つけたものがクジラかどうか考える時間もいる。やがて少年は、部屋から遠い海を眺めるのをやめて、桟橋に立つ。クジラじゃないものを数えながら、クジラじゃないものを見る時間が流れる。待って、待って、待った少年は、ついに小さなボートを得て海にこぎ出すのだ。読み終われば、生きることの美しさが胸に満ちてくる。

子どもが、クジラに会いたいと思うには、まず、クジラの存在を知ならければならない。知ることで心が動き、関心を持つと、そこから願いが生まれる。クジラに会いたいと願う気持ちや、会えるまで待つ時間は、想像することと深く関わっている。希う(こいねがう)という美しい日本語がある。想像することは、希うことではないか。

ジョーン・エイケンの『ナンタケットの夜鳥』(冨山房)には、少年時代に出会った「ピンクの鯨」を追いかけて世界中を航海する船長が出てくる。ピンクの鯨のほうも、昔の友だちである船長が大好きで、近くにきたときには、まるで子犬のようなはしゃぎようである。実は、この物語には、政治的な企みや、遠距離ミサイルを思わせるような新型の大砲が出てくるのだが、ピンクの鯨は、子どもたちの味方になって、島の大人とともに悪巧みをつぶす大役を果たすのである。

いつの時代にも、大切なものを奪われ、日常を脅かされる子どもたちがいる。どんな環境でも、子どもは想像することを知らずに育ってはいけない。ありたい姿を希い、まだ見ぬ人を希い、平和な日々を希う。未来は、いつも想像から始まる。遠くを見ることは、近くを見ること同様、大切なことである。今じゃないかもしれない。この場所じゃないかもしれない。でも、会いたいものには必ず出会えると、暴力と破壊を止める手を尽くすとともに子どもたちに伝えたい。

中村 史
中村 史

子ども歳時記147 「タイパ」と『はなを くんくん』/池田加津子(ルース・クラウス/文、マーク・シーモント/絵、きじまはじめ/訳、福音館書店)

歳時記147

 「タイパ」と『はなを くんくん』 池田加津子

どこからともなく沈丁花の香りが漂い季節の移り変わりを感じます。

歳時記147
歳時記147

最近、「タイパ」という言葉が流行語になっているそうです。タイムパフォーマンスの略語です。情報収集の時間当たりの効率との意味です。録画した映画や、学生の場合は講義内容を倍速、3倍速で視聴するなど、若い世代を中心に広く行われていると報道されています。

情報があふれかえり、ともすれば過多ともいえる情報の海の中で押し流されそうになる現代社会。いかに効率的に情報を処理するかが重要課題のひとつになっていることの象徴かもしれません。

これと対極的なのが絵本の世界ではないでしょうか。たとえば、『はなを くんくん』(福音館書店)。雪に埋もれた林で、くま、のねずみ、かたつむりなど、さまざまな動物が眠っています。とつぜん、みんなは目をさまし、はなをくんくんさせながら駆けていきます。ページをめくるたびにどんどん増えていく動物の種類と数が子どもたちの期待を高めます。その先には雪のなかに咲き出した小さな花がひとつ。春の兆しでしょう。その花を囲んで、みんなは笑って踊り出します。その眼差しには嬉しさと喜びがあふれ輝いています。

カラフルな絵本が多いなかで、全編モノトーンで表現されていて、唯一小さな花だけが黄色に色づけされています。文字も本当に簡潔です。「くんくん」という楽しく優しいひびきの擬音語に導かれ、絵を通してあれこれと様々に想像することを読者にうながすようです。はなをくんくんさせながら、です。

眠っている動物たちがはなをくんくんさせて見つけたもの。それはモノトーンの世界に黄色く色づけされた小さな花。私は、この小さな花が本当に価値あるものを示唆しているように感じています。

長田弘さんの「におい」という詩に、こんな言葉があります。

《心のこもったものは、ちゃんとわかる。心のにおいがするから。うそじゃない。よい心は、よいにおいがするんだ。……何も思い出せなくても、匂いはずっと覚えているというのは本当だ。いい匂いをのこすんだ、いい思い出は。》

 現代社会は情報にあふれています。同時に、普段は意識しなくても、自分の中の無意識の世界には、生まれてから今までに見聞きしたこと、喜んだこと、悩んだこと、そして折り合いをつけてきたことなどなど、膨大な知識や感情が含まれています。いわば、自分だけの素晴らしい情報の世界ともいえましょう。

自分の外の社会の情報に対して「はなをくんくん」。それとともに、自分のなかの無意識の世界という膨大な情報に対しても「はなをくんくん」。

『はなを くんくん』の原題は『THE HAPPY DAY』。幸せな日です。あなたの黄色い花を、ゆっくりと見つけてみませんか。

(いけだ・かずこ)

池田加津子
池田加津子

子ども歳時記146 「言葉はだれからもらったか」/大長 咲子/松居直講演録『こども えほん おとな』(松居 直、「絵本で子育て」叢書)

歳時記146

歳時記146
歳時記146

「言葉はだれからもらったか」 大長 咲子

大長咲子
大長咲子

朝、玄関先の掃除をしていると、近所の保育所に登園する人たちの会話が耳に入ってきます。

競い合うようにお父さんに話しかける姉妹。おばあさんと一緒に歌を口ずさみながら歩く男の子。お母さんと手をつなぎながらちょっとしたお小言を聞かされる女の子。交わされる会話は様々ですが、なかでも一番多く聞こえるのは、子どもの「なに?」「なぜ?」に答える大人の言葉です。「あれは、うろこ雲っていうんだよ。お魚のうろこみたいでしょ。〇〇ちゃんはお魚のうろこ見たことあったっけ」「観光っていうのはね、よそに行って色々な物を見たり、珍しいもの食べたりすることだよ」

言葉を尽くして子どもの質問に答えようとする大人と、それを一所懸命に聞き取ろうとする子ども。その見知らぬ親子たちのやりとりは、箒で落ち葉をかき集めながら聞いている私の胸に朝のピンッと冷えた空気とあいまって清々しい風を吹き込んできてくれます。

こうして清められた私の胸にストンと収まってくるのは、昨年の11月に召天された松居直氏がおっしゃった「私は母親から言葉をもらいました」という言葉です。

松居氏は、かつて首相官邸で毎月一回開催されていた「子どもの世界と未来を考える懇談会」に出席されていました。河合隼雄氏が中心となり、学者や実業家、スポーツマンなどが色々なテーマについて話し合う中、ある月に文部次官から「今月は国語教育についての問題提議をしたいと思います」と提案されました。それを受けて松居氏は「国語はやめたらどうですか」と返されたそうです。次官に睨みつけられながら「どうして国語はいけませんか」と問われた松居氏は「私は国から言葉をもらった覚えはありません」と応えます。そして、松居氏は続けます。「私は母親から言葉をもらいました。だから私の日本語は国語ではなく母語です」と。(松居直講演録『こども えほん おとな』より)

また、「母から言葉をもらったということは、命は母からもらい、その器である身体をもらった。そして命を支える日本語というものを親や兄弟、大人の方からいただいたのだということに気がついた」とおっしゃっています。

人が生きていくうえで最も大切な「ことば」を教育ではなく、生活の営みから自然と獲得していくということの尊さを、松居氏は自らの生い立ちと3人のお子さんの子育てから感じ取り、私たちに伝えてくださいました。そして、子どもと過ごす時間がどれだけかけがえのないことかということも。

私に貴重な親子の会話を聞かせてくれた近所の子どもたちも、いつか空に浮かぶうろこ雲を見上げながら、はたまた、どこか遠くの町に旅をしながら、父母にもらった言葉に、そして命に想いをはせるのではないでしょうか。

(だいちょう・さきこ)

子ども歳時記138 『あのくも なあに?』(富安陽子/ぶん、山村浩二/え、福音館書店)熊懐賀代

あのくも なあに?

自然と親しんで 熊懐 賀代

あのくも  なあに?
『あのくも なあに?』(富安陽子/ぶん、山村浩二/え、福音館書店)

 

 皆さんはどんな夏を過ごされたでしょうか。ギラギラ照りつける太陽の光。大きな木陰に入ったとたんに「わあ、すずしい! 風のある日はいいなあ」と感じる気持ちよさ。これから少しずつ、太陽は位置を変え私たちはたやすく陰を見つけてほっとできるようになるでしょう。もくもく湧いていた入道雲も去って、空は高く澄んでいくでしょう。

 私の勤める保育園では、今年もプール遊びはせず、代わりに水や泡や氷、「ひんやり」など感触を存分に楽しめる工夫をたくさんして遊びました。子どもたちが食材に触れるクッキングをやめて、栄養士の先生が食材を目の前で切ったりホットプレートで焼くのを見て、その音を聴いたり、においをかいだりする「ルッキング」を取り入れました。ある日は子どもたちがプランターから収穫したピーマンを、先生が種をとり千切りにしてごま油でさっと炒め、お醤油とおかかを入れてひと混ぜしました。 皆さんに、音と匂いが伝わるでしょうか? 給食でも家庭の食事でもピーマンは残している子が、この時だけは「おかわり!」と嬉しそうに食べてしまうのが、本当に不思議です。そして『いっぱい やさいさん』(至光舎)や『おやおや、おやさい』(福音館書店)などの絵本を「読んで!」とリクエストがきます。

 涼しい日には、川沿いの大きな松の木陰の涼しい公園にお散歩に行きました。一歳や二歳のクラスでは、途中でねこじゃらし(エノコログサ)を見つけると、上手に抜き取れるようになってみんなが一本ずつ嬉しそうに持って歩いたり、歩道の花壇にダンゴムシを見つけると頭を寄せてのぞきこんだりします。誰かが「あ!ちょうちょ!」と言うと足を止めて見えなくなるまで目で追いながらのお散歩です。

保育士は、表情や声や態度で意思を伝える子や、一言二言おしゃべりを始めた子たちと、「風が気持ちいいねぇ」「お山に雲がかかってるよ」などの会話も交わしながら歩きます。

子どもたちがお部屋で絵本を開く様子を見ていると、自分がよく知っている生き物や花、自分もしたことのあるテーマは親しみ深く、実際の経験と絵本の世界を行き来して経験を深め、生き生きと世界を広げていっていることを感じます。だんだん語彙が増えて友だちとのやり取りも楽しくなってくると、『あのくも なあに?』(福音館書店)から、ことばのリズムや、雲のようすをみたててイメージを広げることも楽しめるのがよくわかります。歩きながら「あのくもなあに、なんだろね」と言って待つと、「アイスみたい」とか「わらってるんじゃない?」と思い思いのことばが飛びだして、ぐんとにぎやかになります。暑さや虫などが苦手という子ももちろんいますが、イヤという気持ちも受け止めながら、自然の姿もまたありのままを「こわくないよ、あぶなくないよ」と伝えながら、ともに親しんでいきたいと思います。
(くまだき・かよ)

熊懐賀代
熊懐賀代

 

子ども歳時記137 『わたり鳥』(鈴木まもる/作・絵、童心社)岡部 雅子

絵本から広がる未来

 岡部 雅子

 

渡り鳥
渡り鳥

日の出が早い夏場は、夜明け前から鳴き交わす鳥たちの声が目覚ましになっています。まだまだ寝ていたいのに、いつものさえずりに交じった聞きなれない鳴き声に耳を傾けているうちに目が覚めてきます。

思い返せば、子どもに絵本を読むなかで鳥に関心を持つようになったのかもしれません。恥ずかしながらそれまでは、スズメ、ハト、カラス、「それ以外」の区別しかなかったのです。絵本の中のムクドリの「むくすけ」が、公園で地面をつついている一群の鳥だと気づいたのが、「それ以外」の鳥との初めての出会いでした。オナガ、ヒヨドリ、シジュウカラ、ツグミにヒタキなど、ここ東京でも季節ごとに様々な鳥を見ることができるのです。鳥たちの中には、遠い南の国や北の国からやってくるものがいます。そのような旅する鳥たちを描いた絵本が『わたり鳥』です。鳥たちは新しい命をつなぐため数万キロも飛んでくるのです。

あとがきによると、「わたり鳥がウイルスを運んで、養鶏場の鶏(とり)たちが鳥インフルエンザに感染し、処分された」という報道に違和感を持ったことが、執筆のきっかけのようです。感染源として悪者にされる渡り鳥たちも、人間が地球に現れるよりずっと前から空を渡ってきているのです。過密な飼育環境にも感染を広げる要因があり、渡り鳥だけが悪いのではないでしょう。

新型コロナ感染症の流行が拡大し、これまでのような活動ができなくなって一年以上がたちます。このウイルスは、私たち人間のグローバルな活動に便乗して、あっという間にパンデミックを引き起こしました。世界中で感染拡大防止と経済活動を両立することの難しさが報道され、人間社会に深刻な影響が続いています。一方で、経済活動縮小によりインドや中国の大気汚染の改善やベネチアの海の水質改善など、環境への良い影響もありました。

このコロナ禍で注目したいのが、「One Health」という言葉です。人の健康は、動物の健康および人と動物をとりまく環境に大きく依存しており、これらすべての健康を地球規模で持続的に守らなければならないという考え方です。経済活動に伴う森林伐採などにより動植物の環境が急激に変化し、絶妙なバランスで保たれているウイルスとの均衡が崩れれば、また新たな人獣共通の感染症が生まれます。人間とウイルスとの共生は続くでしょう。感染症は広がってから対処するより、野生生物の生息地を保護し人や家畜との接触を防ぐ方が経済的とも言われています。動物や環境を守ることは、人の命を守ることに繋がっているのです。

絵本を開けば、自由に空を渡る鳥たちの力強い姿から、遠い国やそこに住む人々や生き物、そこで起きている事へと思いを馳せることができます。子どもたちには、様々な絵本の中で想像と現実とを紡いで、すてきな未来を実現してほしいと願っています。

(おかべ・まさこ)

岡部 雅子
岡部 雅子

子ども歳時記136 『番ねずみのヤカちゃん』(中村 利奈)

歳時記136

心を込めて読んだ物語は……  中村 利奈

 

 この春6年生になった娘は、学校で起きた出来事をよく話してくれる。5年生の半ば頃からだろうか、話に友達関係の難しさを嘆くものが多くなってきた。だれとだれが「絶交」した、「無視」しようと言った……など、ドキッとさせられるような言葉が続くと、思春期に差し掛かっていることを改めて実感する日々である。

歳時記136
『番ねずみのヤカちゃん』
(リチャード・ウィルバー/作、大社玲子/絵、松岡享子/訳、福音館書店)

娘はまだ人間関係の学習中なのだから、どんな話が出てきても、騒ぎすぎないようにしようと気をつけている。それでも、「みんなで無視しようと言われた」などと聞いたときは、どう答えたのか、実際にしたのか、などと矢継ぎ早に聞いてしまい、自分の意見を伝えてもみた。後日談を聞くと、まだまだ5年生、もめるのも早いが仲直りも早いようで、翌日には一緒に遊んだとのこと。ホッと胸をなでおろした。失敗をしながらでも、自ら経験して学ぶことが一番いいとは思うが、やはり人として大切なことはぶれずに持っていて欲しい。子育てというものは、常に悩みが尽きないものだと感じつつ、ねずみの子育てが功を奏す絵本を思い出した。『番ねずみのヤカちゃん』(福音館書店)である。

人間のドドさん宅にひっそり暮らす、ねずみのお母さんと4匹の子ねずみたち。お母さんは子ねずみたちに独り立ちを促し、その際に大事なことを歌にのせて教える。4番目の子ねずみ、ヤカちゃんはとてつもなく声が大きくて心配の種。でもその声の大きさが功を奏して、ある事件からドドさん一家を救う結果となり、最後はドドさん一家に大切にされるねずみになるという、とても痛快なお話だ。素敵なのは、ねずみのお母さんがヤカちゃんの個性をおおらかに受け止めているところ。自分を否定されずに伸び伸び育ったヤカちゃんだからこそ、ドドさん一家を結果的に助けることができたのだと思う。実はこのヤカちゃん、危ない場面でお母さんの歌声が頭によみがえり、2度も助けられていたのだ。大事なことをお母さんの生の声で伝える、このことがヤカちゃんを助けたのである。この場面でいつも思い出すのが、「母と子の20分間読書」運動を推進した椋鳩十さんの著書『お母さんの声は金の鈴』(あすなろ書房)だ。

「母が心を込めて読んだ物語は、ほんとうに懐かしい思い出とともに、子どもの心にしっかりと焼き付く。この懐かしい母の声は、金の鈴の音をたてて、子どもの心の中で鳴り続け、必要な時には道しるべにもなるのである。」というもの。ヤカちゃんのお母さんはこれを実践していたのだ。

まだまだ娘も成長期。心をこめて、たくさんの本を一緒に読もうと思う。娘が迷ったときに、いつか役に立つよう願いを込めて。まず今夜は『番ねずみのヤカちゃん』を共に楽しもうか。(なかむら・りな)

中村 利奈中村 利奈

子ども歳時記135 きみがおとなになるまえの自由律俳句(篠原 紀子)

『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』

 突然の一斉休校から一年が過ぎました。子どもたちに、一年よく踏ん張ったね、と声をかけたい気持ちでいっぱいです。私たち大人も含め、やり場なき想いに苛まれることもありました。一方で、自身の生き方や周りとの関わりについて、静かに考える好機でもあったのではないでしょうか。

 

 休校に入ってすぐ、図書館で予約していた絵本を借りてきました。そのうちの一冊が『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』でした。語り手の「ぼく」は詩が好きで、本に囲まれ一人で暮らす“いい年をしたおっさん”。そこに、近所に住む知り合いの小学生の男の子「きみ」が訪ねてきます。物語が進むなかで「ぼく」と「きみ」は一緒に、実在の詩人たちの詩20編を読み深めます。

 

 なかでも私が惹かれたのは、岡田幸生さんの自由律俳句でした。五七五の定型に縛られない俳句です。

《さっきからずっと三時だ》

《無伴奏にして満開の桜だ》

 

  まるで時間が止まったような休校の日々の、静まりかえった街の桜の、空白を埋めるように、岡田さんの句がぴたりとあてはまりました。平明で短い言葉から、驚くほど鮮やかな情景や切なる心が伝わります。また時間は一方向にだけ進んでいるのではなく、時空を超えてどこかで誰かと結びついている気がして励まされました。

 

句集『無伴奏』を岡田さんご本人から取り寄せ『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』と併せて自粛中たびたび開き、娘たちとも読んだことを思い出します。

 

長い休校が明け、6年生になった長女の担任の先生に『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』と『無伴奏』をご紹介したところ、授業でも読んでみたいとのこと。子どもたちは「きみ」のように句を味わい、クラスで句会も催されました。その様子や作った句を子どもたちは岡田さんに手紙で伝え、お返事が届き、交流がうまれました。子ども扱いせず一人ひとりに言葉をかけてくださる岡田さんと、「ぼく」の視線が重なります。

 

6年生にとっては殊更に、特別な年でした。みんなで大きなことを成し遂げる活動は制限されました。でも上辺の同調よりも、自己の深いところから発せられた表現をみんなでわかち合うことで共鳴し、真の一体感が得られたのかもしれません。

《じっさいにあったことや、げんじつにあったこととはべつに、ほんとうにあったこと、が、ある。》

「ほんとうのこと」って何だろう。詩は私たちに問いかけます。私たちは自らに問います。

 

これから孤独を知り、自分のなかに確かな何かを見つける旅に出る直前のきみたちへ、自由律俳句を届けられて良かった。ゆびをぱちんとならしたら、春にはもう中学生だね。

(しのはら・のりこ)

子ども歳時記134 新しい年に向けて(舛谷 裕子)

桝谷 裕子
桝谷 裕子

 新しい年になりました。昨年は、新型コロナウイルス感染拡大防止のために長期にわたり自粛生活を強いられ、“新しい生活様式”の中で生きていかなければならなくなりました。戦後生まれの私はとても不自由に感じましたが、戦争体験者、疎開を経験されている方とお話をすると、暗い防空壕の中でもなく、食べるものもあり、自由に会話もできるので当時ほどではないと言われており、思いがけず戦争の恐ろしさを改めて思い知らされました。“新しい生活様式”の中でも、新年らしい清々しい気分を味わいたいものです。

  新しい年を迎える時によく読んでいた本が『みるなのくら』でした。親になり子育て中に買い求めた絵本でしたが、子どもの頃に読んでもらっていたお話と少し違っていました。子どもの頃に読んでもらっていた本は、座敷が十三あり十三番目の座敷を見てはいけないというものでした。他に四番目の倉を開けてはいけないという本もありました。どちらも、なぜかとても好きなお話でしたが印象が違いました。幼い頃、母に「十三番目と四番目のお話はどう違うのか」と聞いたことがありました。どちらのお話も結末は、『みるなのくら』と同じでした。母は「最後も同じなので、どちらも同じお話」と答えましたが、幼い私はとても不思議な気持ちになりました。

みるなのくら
みるなのくら

 今になれば、全体を貫く基本的な概念は同じなので、座敷や倉の数の違いは大きな問題ではないと思えます。しかし、四つの倉だとすぐに終わってしまうので、私は十三番目まであるお話の方が好きでした。次はどんなお座敷だろうとわくわくしたことを今でも覚えています。初めて読んでもらった時に十三番目の襖を開けた場面で、とても驚いたことも覚えています。無邪気に十三番目の座敷に期待していたので、時が止まってしまい茫然自失、虚無感にとらわれました。結末がわかった後でも何度も読んでもらいました。何度も読んでもらっていると、この若者はなぜ見てはいけないと言われているものを見てしまったのだろうと思うようになりました。そして、最後の襖を開けなければ、何度でも他の座敷を見て楽しめていたのにと思いました。年齢を重ねると、この若者を愚かだと感じたり、責めたりする感情も芽生えました。さらに成長すると、今度はこんな人って身近にもいると思うようになりました。大人になり子どもに読んだ時は、久しぶりでとても懐かしく思ったと同時に、この若者に対して同情するような気持ちになり、側にいたら慰めたくなるようなそんな感情にもなりました。

 絵本はとても不思議です。読む時の年齢や感情によって同じ本でも感じ方が違います。そして社会状況の変化によっても感じ方が違います。さて、10年後に読んだ時、どう感じるのか。自粛生活は大変だったけど、今は幸せだよねといえる世の中であってほしいと願います。
(ますたに・ゆうこ)

『みるなのくら』(おざわとしお/再話、赤羽末吉/画、福音館書店)