子ども歳時記135 きみがおとなになるまえの自由律俳句(篠原 紀子)

『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』

 突然の一斉休校から一年が過ぎました。子どもたちに、一年よく踏ん張ったね、と声をかけたい気持ちでいっぱいです。私たち大人も含め、やり場なき想いに苛まれることもありました。一方で、自身の生き方や周りとの関わりについて、静かに考える好機でもあったのではないでしょうか。

 

 休校に入ってすぐ、図書館で予約していた絵本を借りてきました。そのうちの一冊が『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』でした。語り手の「ぼく」は詩が好きで、本に囲まれ一人で暮らす“いい年をしたおっさん”。そこに、近所に住む知り合いの小学生の男の子「きみ」が訪ねてきます。物語が進むなかで「ぼく」と「きみ」は一緒に、実在の詩人たちの詩20編を読み深めます。

 

 なかでも私が惹かれたのは、岡田幸生さんの自由律俳句でした。五七五の定型に縛られない俳句です。

《さっきからずっと三時だ》

《無伴奏にして満開の桜だ》

 

  まるで時間が止まったような休校の日々の、静まりかえった街の桜の、空白を埋めるように、岡田さんの句がぴたりとあてはまりました。平明で短い言葉から、驚くほど鮮やかな情景や切なる心が伝わります。また時間は一方向にだけ進んでいるのではなく、時空を超えてどこかで誰かと結びついている気がして励まされました。

 

句集『無伴奏』を岡田さんご本人から取り寄せ『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』と併せて自粛中たびたび開き、娘たちとも読んだことを思い出します。

 

長い休校が明け、6年生になった長女の担任の先生に『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』と『無伴奏』をご紹介したところ、授業でも読んでみたいとのこと。子どもたちは「きみ」のように句を味わい、クラスで句会も催されました。その様子や作った句を子どもたちは岡田さんに手紙で伝え、お返事が届き、交流がうまれました。子ども扱いせず一人ひとりに言葉をかけてくださる岡田さんと、「ぼく」の視線が重なります。

 

6年生にとっては殊更に、特別な年でした。みんなで大きなことを成し遂げる活動は制限されました。でも上辺の同調よりも、自己の深いところから発せられた表現をみんなでわかち合うことで共鳴し、真の一体感が得られたのかもしれません。

《じっさいにあったことや、げんじつにあったこととはべつに、ほんとうにあったこと、が、ある。》

「ほんとうのこと」って何だろう。詩は私たちに問いかけます。私たちは自らに問います。

 

これから孤独を知り、自分のなかに確かな何かを見つける旅に出る直前のきみたちへ、自由律俳句を届けられて良かった。ゆびをぱちんとならしたら、春にはもう中学生だね。

(しのはら・のりこ)