連載 遠い世界への窓 連載19 『さかさま』

遠い世界への窓 連載19 『さかさま』

東京大学教養学部
非常勤講師
絵本翻訳者

さかさま

 「さかさま絵本」というべきか、「双方向絵本」というべきか。絵本をいちど読んだあと、くるりとさかさまに――上下反対にすると、今度は、もうひとつのお話が読めます。ページの下半分にひとつのお話が描かれ、上半分にもうひとつのお話が「さかさま」に描かれているからです。

ふたつのお話は、互いに無関係ではありません。ページの下半分に描かれているのは、「あかいほし」に暮らす人々。その上には、空が広がっていて、さらにその上には、「あおいほし」の大地と人々が「さかさま」に、描かれています。

それぞれ別の暮らしを営んでいるけれど、二つの星は、空でつながっています。「きいろいほし」と呼ばれる、太陽のような月のような天体も、そこに映る「かみさま」も、同じ空に浮かんでいて、それぞれの方向から、仰ぎ見ています。

さて、「あかいほし」に住んでいるのは、とても活動的な人々。おとなも子どもも、一日中、元気いっぱいに体を動かして遊ぶのが大好きです。そして、みんなとっても働き者。「あかいほし」の人々が何より大切にしているのは「ひのたね(火の種)」です。赤々と燃える火を焚いて「ひのたね」を育て、農業にも、子どもたちが大きく育つのにも、そして、遊びにだって、火が重要な役割を果たします。燃えさかるエネルギーに溢れた「あかいほし」のすてきな人たち! ところが、彼らの幸せな暮らしに、ある時、暗雲がたちこめてきました。原因は、空の向こうに住んでいる、「あおいほし」の人々です。「あおいほし」から流れてくる水のにおい、そして、空の向こうから飛び散る、無数の水のしずく……何て、ひどいことをするのでしょう! 「あかいほし」の人たちは、元気がなくなって、子どもたちもやせ細ってきました。

なんだかややこしくて不穏な物語のように聞こえるかもしれませんね。でも、『さかさま』の原作者「TERUKO(てるこ)」さんの描く線とキャラクターは、ほっこりしていて、とってもユーモラス。生真面目に生きながら、自分にとって何が心地よいかを知っている、「あかいほし」の人たちは、愛すべき存在なのです。

さて、次は、絵本をくるりと「さかさま」にして、もうひとつのお話を読んでみましょう。実は、「あおいほし」の人々も、すっかり困り果てていました。「あかいほし」のパワフルな人々とは全くちがうスタイルで暮らす、「あおいほし」の人たちは、「あかいほし」の人々が四六時中、火を焚いて煙をまき散らし、夜も明るくして騒いでいることに、耐えられなくなっていました。それに、「きいろいほし」に映る神様だって、「ちしきのライオン」と呼んで大切にしてきたのに、その額に、あろうことか、「あかいほし」の人々は、たいまつを突き立てたのです。もう我慢できない。戦争するしかない!

太古の昔から、隣り合う二つの国や、隣り合って暮らす二つの民族は、みんな、「さかさま」だったのかもしれません。くるりと絵本を反対にして、もうひとつの物語を読むことができたなら、もうひとつの論理と気持ちに、「うんうん、そうだよね」とうなずくことができたのかもしれません。グローバル化が進んだがゆえに、瞬く間に世界に感染が拡がった新型コロナ・ウィルスも、侮蔑を込めて「武漢ウィルス」と呼ぶか呼ばないかで、目下、非難合戦が続いています。

ところで、この絵本のおすすめの読み方は、二人で向かい合って、両方向からいっしょに読むこと。ポイントは、同じタイミングでページをめくることです。なかなか息が合わなかったら、合図を決めるのも楽しいですよ。もちろん、読み終えたら、絵本をくるりと「さかさま」にしてください。もうひとつのお話が、きっと読みたくなるはずですから。
(まえだ・きみえ)

「さかさま」(TERUKO/さく・え、ディスカヴァー・トゥエンティワン)


連載 遠い世界への窓 連載18 『ミライノイチニチ』

遠い世界への窓 連載18 『ミライノイチニチ』

東京大学教養学部
非常勤講師
絵本翻訳者

『ミライノイチニチ』

ミライノイチニチ

 おはなしの主人公は、遠い未来に住んでいる小学生の男の子。名まえは、「ミライ」です。家族は、お父さんと白いワンちゃん。お母さんはどうやらお泊りでお出かけ中です。

毎朝、ランドセル型のロボットがミライを起こしてくれます。最新式のような懐かしいようなちょっと不思議なベッドルームで目覚めます。何をするにも、ランドセル型ロボットは、ミライの相棒。忘れもの確認もしっかりしてくれて、学校へ向かうときには、背中にランドセルとして収まります。

※『ミライノイチニチ』(コマツ シンヤ/作、あかね書房)

お父さんは会社へ、そして、ミライは学校へ。「よりみちしないで かえってくるんだよ」「はーい、いってきまーす」今の私たちと変わらないやり取りに、何だかニッコリしてしまいます。未来の街は、とってもスタイリッシュ。家や道路が、上にも下にも広がっています。道をのんびり歩いている人もいれば、アイススケートのような靴で、スイスイすべっていく子どもたちも。空には、バイクや自転車や車みたいな乗り物が、フワフワと浮いています。

ミライと友だちが向かうのは、「キョウシツ」のりば。空を飛んで、ミライたちを学校まで運んでくれる移動教室です。空飛ぶ「キョウシツ」から眺める街の風景は、なんとも壮観。これが遠い未来の夢の街なのかなあ。

私たち大人には、ポジティブな未来を想像するのって、とても難しいですよね。この文章を書いている現在は、新型肺炎コロナウィルスが世界各地に感染を広げていて、日本でも10人近い感染者の方が確認されたところです。今年の夏も猛暑が予想され、東京オリンピックでも熱中症が続出しないか心配だし、秋にはまた猛威を増した台風がおそってきて……と、この先1年を考えても、不安材料ばかり。では、10年後の未来、30年後の未来はどう? 100年後、500年後の未来は……?

「未来のことを想像してみる」ワークショップをしばしば開くという、多文化共生や教育学の専門家の方に、先日お話を伺いました。未来の姿を想像してみてって言われると、最初はみんな戸惑うけれど、「では200年後の未来は?」と、少し遠くに時代を設定してみると、ひとつふたつと意見が出はじめ、やがていろんな未来像がとどまることなく湧き上がってくるそうです。

『ミライノイチニチ』の見返しには、「未来の図鑑」があって、絵本に描きこまれた、未来のハイテク装置が解説されています。「無重力体育館」は是非とも行ってみたいし、健康状態まで映し出してくれる「健康チェックミラー」も絶対欲しい。きれいな酸素をたくさん出してくれる「サンソノキ」や、頭で想像した料理が実際に調理される「イマジナリーフード」が本当にあったら、環境問題も食糧問題も解決されるかもしれません。

私たちが「未来」に託すのは、夢や願い、そして、今現在、立ちはだかっている難問の数々が、もしかしたら高度な科学技術の力を借りて解決しているのではないかという期待なのかもしれません。そのとき、人間の意思決定の力は、どんなふうに未来の舵を取るのでしょうね。

さて、学校へ行ったミライは、どうしているでしょう。「無重力遊泳」の授業から、おいしそうな「給食レストラン街」にいたるまで、ミライの1日はとにかく楽しそう。 放課後に寄り道した「宇宙空港」では、さまざまな民族や人種どころか、あらゆる生命体が行き交っているようです。そして、ミライはここで、「出張」から帰ってきたお母さんを出迎えます。

お母さんの「出張」先は、どこだったのでしょう。そして、ミライたちが住んでいる街は、どこにあるのでしょう。この絵本には、たくさんの夢や願いが詰まっているとともに、深くて重いメッセージも投げかけられています。

「遠い世界への窓」の連載も18回目。ちょっと遠くまで来すぎてしまったかもしれません。

(まえだ・きみえ)


連載 遠い世界への窓 連載17 『ゴミにすむ魚たち』

遠い世界への窓 連載17 『ゴミにすむ魚たち』

東京大学教養学部
非常勤講師
絵本翻訳者

『ゴミにすむ魚たち』

ゴミにすむ魚たち 私は山の中で育ったので、海には強い憧れと恐怖があります。小学校の修学旅行は海水浴でした。きっと昔は、海を見たことがない子がたくさんいたからでしょう。今でも海沿いの町や電車は、海に落ちてしまいそうな気がして、少し苦手です。

でも、『ゴミにすむ魚たち』の作者で写真家の大塚幸彦さんがあとがきに書いているように、地球の七割が海であるなら、私たちが世界中を飛び回ったとしても、それはまさに氷山の一角のようなもの。地球の本当の主役は、海にすむ生き物たちなのかもしれません。

大塚さんが主に伊豆の海で写した水中写真には、色鮮やかな魚たちがつぎからつぎへと登場します。絵本の表紙にもなっている黄金色のミジンベニハゼ、白と黒のストライプでスリムなミニうなぎみたいなニジギンポ、べっこう色と黒がつややかなカサゴや、「コワオモテ」のウツボ。そのどれもが、人間の住む陸から海に流れていった「ゴミ」を上手に利用して暮らしています。空き缶の中に身を隠してひょっこり頭を出したり、こちらをのぞいたりしている魚たちのなんと愛らしいこと! 水草や藻がからんで海底の一部になったような缶やビン、欠けた器は、魚たちが身を隠したり子育てしたりするための格好の隠れ家なのです。まるで「人間たち、ありがとうね」と言ってくれているみたいで、ちょっぴりうれしくなります。

でも、海の生き物たちにとっての「ゴミ」が、そんな都合の良いことばかりではないのは、今日私たちの誰もが良く知っている通りです。海のなかで大塚さんは、ゴミに囚われて死んでいく魚たちにも数多く遭遇しています。そんな魚たちの姿はこの写真絵本には、たった2枚しか収められていません。だからこそ、本を閉じたあともその姿が何度もよみがえり、深刻な事態を深く考えさせるのかもしれません。

昨年は、これまでと比べものにならないほどの猛暑や威力を増した台風が、日本にも襲いかかってきました。私たち人間が少しずつ、でも確実に引き起こしてきたことが、私たちの住む世界を間違いなく変えてしまっていることを突き付けられた気がします。海洋プラスチックの問題が、私たちの台所や日々の暮らしと直結していることや、日本の取り組みがヨーロッパやアジア、アフリカ諸国と比べて遅れていることを改めて知ったという人も多かったと思います(私もその一人でした)。

大塚さんは、「ぼくの写真は、広大な海のほんの一部を切り取ったものにすぎません」「写真を見てもらうことで、『眉間にしわを寄せて環境問題を話し合う前に、自分たちのまわりにある、身近な海の中をのぞいてみようよ』と、言いたいのです」とつづっています。海の底深くもぐる大塚さんの姿は、まるで不思議な海の生き物のよう。潜水服に身を包み、大きな酸素ボンベを背負って、両肩のうえには海中写真撮影の光源を確保するための大きなライトを装着しています。そうして海の底にしっかりと両足を踏ん張ってしゃがみこみ(よく分からないけど、浮かないようにするって大変なんじゃないかな?)、被写体にカメラを向ける様子はなんとも強烈です。

写真絵本にはめずらしく、10ページ以上にわたって作者のことばが続きますが、飽きることなく、すんなりと耳を傾けてしまうのは、大塚さんが自ら泳いで海にもぐり、実際に目にして肌で感じたことをていねいに言葉にしてくれているからでしょう。

人間の作り出したものが海に流れ込むと、「ずっとそこに残ってしまい」、「くさらない」ということ、それはすなわち、生き物の生死や、腐敗と生育といった「命の循環」に加わることができないばかりか、妨げにしかならないことを改めて考えさせられます。海に流れ出たゴミは、私たちの社会の姿そのものなのでしょう。
(まえだ・きみえ)

連載 遠い世界への窓 連載16 『レッドーあかくて青いクレヨンのはなし』

遠い世界への窓 連載16 『レッドーあかくて青いクレヨンのはなし』

東京大学教養学部
非常勤講師
絵本翻訳者

『レッドーあかくて青いクレヨンのはなし』

 「レッド」は、赤いクレヨンです。でも、赤くぬるのが、得意ではありません。消防車も、イチゴも、レッドが描くと、みんな青いろになってしまうのです。どうしてレッドは、じようずに描けないんだろう? どうして、ちやんと赤いろにぬれないんだろう?オリーブいろのクレヨン「オリーブかあさん」 にも、スカーレットいろのクレヨン「スカーレットせんせい』にも、その理由がわかりませんでした。

ここだけの話ですが、絵本を見ている私たちには、どうしてレッドがうまくいかないのか、一目でわかります。 レッドは、赤いクレヨンではありません。「レッド 」と書かれた赤い紙が巻かれている、青いクレヨンなんですもの!

でも、おかあさんも、せんせいも、おじいちやん、おばあちやんも、だれも、レッドが本当は赤ではないことに気づいてくれません。 それどころか、きっと、練習が足りないから赤いいろにぬれないんだとか、寒がりだから青いろになってしまうんだとか考えて、お手本を示してあげたり、ショールを作ってあげたりしました。 レッドを心配する友だちもみんな、「なまけているんじゃないか?」、「どりょくしなくちやね」、「もっとがんぱれ!」と口々にいいます。 レッドの 「ほんとうのいろ」 が見えている私たちには、その言葉がどれも切なく胸につきささります。

何を描いても、青いろにしか描けないレッド。それって、レッドが「なまけているから」なの? 「れんしゅうがたりないから」なの?

「私は〇〇でないとダメなんだ」 とか、「△△ができないといけないんだ」と、自分で思い込んでいたり、知らないうちに人から価値観を押し付けられていたりしたことってありませんか?もしも私がチーターだったら、何より重要なのは、きっと速く走ること。ナマケモノだったら、どれだけじっとしていられるか、のろのろ動いてエネルギーを温存できるかが勝負です。 そして、キリンだったら、やっぱり首が長いことが重要ですよね。 だからといって、一日の大半を笹の葉を食べて過ごすパンダが、「ボクって、なんでこ
んなに足が遅いんだろう?どうして、じっとしていられないんだろう?なんで首が短いんだろう!」と言って、たぷん嘆いたりしない。 でも人問は、自分の姿を見失ったり、ほかの人の姿を見ていなかったりして、ときに勝手にラべルを貼ってしまうのですよね。

この絵本は、2016年に「レインボーリスト」 という、LGBTQ(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、クェスチョニング/クィアの頭文字) を知るための児童書リストに選ぱれました。 でも、LGBTQと向き合う人たちだけでなく、無意識のうちに強いられた価値観やラべリングと、自分の本当の姿との違いに悩んだり疑問を感じたりする全ての人にとって、「自分自身の物語」 (原作者の言葉より) となるのでしよう。そして、私はレッドであると同時に、レッドに苦しい思いをさせてレッドの姿に気づいてあげられなかった、まわりの人たちでもあるのです。

ところで、赤いろを描けないレッドは、どうなったのでしよう。友だちの 「 パープル」に誘われて、おそるおそる、画用紙いっぱいの絵を描いてみたレッド。レッドにも、のぴのぴと描けるいろが、そのままの自分で描けるいろがあったのです。「レ ッドがかがやきだしたわ!」、「よくかんがえてみれぱ、わかったはずだよ」、「かっこいいよね」と、口々に叫ぶ、友だちのクレヨンたち。レッドがいちぱんつらかったときに、私たちもこんな言葉をかけてあげられたらよかったのに。

絵本のカバー見返し部分に書かれた作者のことぱを信じて、ぜひ絵本をひらいてみてください。 …… 《これからするのは、あかくてあおいクレヨンのはなしです。 あなたのためにかきました。》

(まえだ・きみえ)

※『レッド あかくてあおいクレヨンのはなし』
(マイケル・ホール/さく、上田勢子/訳、子どもの未来社)

連載 遠い世界への窓 連載15 『しんぞうとひげ』

遠い世界への窓 連載15 『しんぞうとひげ』

東京大学教養学部
非常勤講師
絵本翻訳者

『しんぞうとひげ』

アフリカ大陸の東、タンザニアの島ザンジバルの昔話絵本です。まず目を引くのしんぞうとひげが、とびきりにぎやかな表紙。オレンジの水玉のキリンに、ピンクの象、シマウマ。そして、ビビッドカラーの動物たちに交じって、力強く走る姿が描かれているのが、つやつやピングの「しんぞう(心臓)」と、真っ黒な「ひげ」!

スワヒリ語の昔話は、「パウカー(はじめるよー)」「パカワー(はーい)」というかけ合いで始まります。でも、それに続くお話の始まりには、何とも度肝を抜かれます。「むかし、むかし、あるところに、しんぞうとひげがおりました。」――え? 何のこと? いや、待てよ。そうか、あるところに、「しんぞう」がいたのか。そして、「ひげ」もいたんだ。それで、それで、どうしたの?

つやつやピンクの「しんぞう」は、びんぼうで、いつもはらを空かせていました。「しんぞう」の腹ペコぶりが、何ともリアルです。「ああ、おなかが すいたなあ。どこかに きのこでも はえていないかなあ」 空を飛ぶ鳥を見上げて、「ああ、とりにくが たべたい!」でも、鳥をつかまえられるわけもなく、「しんぞう」は水だけのんで、ねむります。そして、それは次の日もいっしょ。「おなかがへった、はらへった。おなかがへった、はらへった。きのうも はらぺこ。きょうも はらぺこ。たべたい、たべたい……。」なんと、「しんぞう」は、21日ものあいだ、おなかをすかせていました。ちょうど同じころ、同じように、「ひげ」も、モーレツにおなかをすかせていました。そんな「しんぞう」と「ひげ」が、ばったり出会ったら、いったい何が起こるでしょう?

このお話に何度も出てくる、「おなかがすいた」、「いやあ、はらいっぱいで何も食べられないよ」という言葉は、滑稽なだけでなく生命力そのものです。

食べるものがない、しじゅうお腹を空かせている、って人類が登場して以来、ずっとつきまとってきた事柄ですよね。私は、昭和初期生まれの両親から、「戦争中は食べるものがなくてねえ……。子どもたちはみんな、いつもお腹を空かせていたのよ」と繰り返し聞かされました。今だって、戦争や災害が起きたりすれば、人間はあっという間に空腹や飢餓にさらされます。、「びんぼう」や「ひもじさ」は、世界中の昔話に登場しますが、それが、「しんぞう」と「ひげ」の食うか食われるかの追いかけっこになるなんて!

この絵本の再話者である、しまおかゆみこさんは、「しんぞうとひげ」をはじめとするたくさんの民話を、タンザニア本土とザンジバルで収集しています。そして、絵を描いたモハメッド・チャリンダさんは、「ティンガティンガ・アート」のベテラン画家のお一人。「ティンガティンガ・アート」は、「6色のエナメルペンキで、タンザニアの豊かな自然や動物、人々の生活などを、色鮮やかにのびのびと描く、タンザニアの現代アート」(訳者あとがきより)。『しんぞうとひげ』には、チャリンダさんが、日本の読者のために、タンザニアの風土や自然をもりだくさんに描き込んでくれたのだそうです。

私は残念ながらアフリカ大陸へは行ったことはないのですが、これまでに二人だけ、アフリカの友だちがいました。そのうちのひとりが、『しんぞうとひげ』の故郷であるタンザニアから客員教授として来日していたT先生です。春にやってきた先生は、日本の花々をとても気に入って、「二月に家族がくるんだ。妻や子どもたちにも日本の花をぜひ見せたい」と言うので、「二月は寒いから花は枯れちゃいますよ」と話したら、「え、そうなの? なんで? 」と心底がっかりされるので、私は大笑い。タンザニアは、赤道直下の常夏の国。季節の移ろいとともに葉が落ち、花が枯れてしまう日本の冬は、とっさに想像できなかったのかもしれません。

ところで、「しんぞう」は、どうして人間の左胸でどきどきしているか、知っていますか? それは、この絵本を読めば、分かりますよ。

(まえだ・きみえ)

連載 遠い世界への窓 連載14 『島――よくある物語』

遠い世界への窓 連載14 『島――よくある物語』

東京大学教養学部
非常勤講師
絵本翻訳者

『島――よくある物語』

島ーよくある物語 「これまでに、こんなに恐ろしい絵本を読んだことがない」と思った。どうして、そんなにも恐ろしいのか。それはきっと、この物語に出てくる人たちがみな、わたしに似ているからだろう。彼らの醜さ、愚かしさ、残酷さ、身勝手さ――そのどれもこれもに対して、「これは、わたしだ。彼らはわたしに違いない」と感じる。そして、その強迫観念が、ぬぐってもぬぐっても頭から消えないのだ。

*   *   *

物語の舞台は、絵本のタイトルの通り、「島」である。島は黒い。海も黒い。物語は、まるで木炭で描かれたかのようなモノクロである。絶海の孤島というほどでもないが、決して大きな島ではない。島全体がひとつの村といった感じだ。その島に、一人の男が流れ着く。男は小舟に乗って流されてきたせいか、服を着ておらず、何も持っていなかった。

島はすぐさま騒然となる。「男は、島民たちとは似ても似つかない姿をしていた」という一文は、いくつもの意味で滑稽だ。ちんまりと浜辺に立つ男は、小柄でなで肩の優しい顔立ちだ。一方、手に手に熊手や鍬を構えて男を追い立てようとする島の男たちは、みな腕っ節の強そうな大男で、男を恐れる理由などあるようには見えない。そして、もちろん、どちらもモンスターなどではない、同じ姿の人間である。

どこからやって来たとも知れない素っ裸の男に、何かを恵んでやる道理もないだろう。そいつはただ、海から流れ着いただけの輩なのだから、また、海に帰ればいいじゃないか。そうして村人たちは、男を波間に突き返そうとする。海の怖さを知る漁師の進言で、男が島にとどまることをしぶしぶ認めて「受けいれた」ものの、彼らがしたことと言ったら、使われていないヤギ小屋に男を押し込め、「小屋の扉という扉を釘付けにして」ふさいだことだけだった。

ほっと胸をなでおろしたのも束の間、実は、男は、とんでもなく恐ろしい男だったのだ! 扉をふさいだ小屋から出てきて、村をうろつき回る(食べるものがないから腹がへったのだ)。あろうことか、真夜中にさえ出没する(ただし、村人たちの夢の中に!)。手で肉を喰う(おそらくナイフやフォークをもらえなかったのだろう)。そして、肉の骨までしゃぶりつくす(食事が十分ではないのだろう)。「恐ろしいよそ者が島民の恐怖心をあおっている」ことは、やがて新聞でも報じられるようになる。

そうだ、島は今、「危険な状況だ、手遅れにならないうちになんとかせねばもう限界……」。そうして島民たちは、ふたたび手に手に農具をもって、ヤギ小屋に突進していく。

*   *   *

この絵本の原書は、ドイツで刊行された。小舟で『島』にたどり着く男は、ボートで地中海をわたって欧州にたどり着く、何百万人もの人々をありありと想い起こさせる。そして、それを迎える人々、受け入れるか否かで大きく揺れる人々の姿も。

期せずして、この絵本を多くの人たちと読む機会にめぐまれた。黒い画面の後ろに見え隠れする、告発的な黄色、病的な青、そして、炎の赤。この「島」を見た人たちはみな、語らずにはいられなくなるようだ。「まるまると太った島の人々。この島には食べ物が豊富にあるだろうに、なぜ男に分けてやることができないのか?」、「流れ着いた男には、自らを処していく意思はないのか?」、「この島の人々が守りたかったものは何だったのだろう?」

*   *   *

たくさんの人たちが自問自答する言葉に、私自身、深くうなずいた。この黒い「島」は、わたしたちの「島」でもあるのだろう。

(まえだ・きみえ)