子ども歳時記151 スキンシップのすすめ/中村 利奈(『あなたのことがだいすき』えがしら みちこ/文・絵、西原理恵子/原案、KADOKAWA)

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子ども歳時記『スキンシップのすすめ』中村 利奈

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秋から冬へとさしかかり、肌寒い日が増えてきましたね。そのせいか私がお手伝いに行っている子育て広場では、遊びに来てくれる親子の数が増えてきているように感じます。お子さんが遊んでいる側でお母さんとお話ししていると、いま悩んでいることや困っていることを相談してくれることがあります。お子さんの食事や睡眠、成長に関することなどが多いですが、お母さん自身の悩みでは、自由な時間を全く取れない生活がつらい、という方が多いように感じます。できるだけゆっくりお話しを聞き、たずねられれば私自身の経験をお伝えすることもありますが、「これが正解」ということをお伝えできることは、まずありません。

スタッフ間でもよく話題になるのが「子育てに正解はない」ということです。私自身も18歳になった息子の子育てを思い出しては、当時の対応が間違っていたように感じ、しても仕方のない反省をすることが多々あります。落ち込んでしまうこともありますが、最近は、愛情だけは頑張って注いだのだからよしとしよう、と思うようにしています。

私がそう考えるきっかけになった本があります。『あなたのことがだいすき』(えがしらみちこ/文・絵、西原理恵子/原案、KADOKAWA)という絵本です。やさしいタッチの絵と、子育て中の母親のやるせない気持ちを上手に表現している言葉に共感があふれます。子育て広場に来るお母さんたちにも、とても人気のある絵本です。≪「たいへんなのは いまだけよ」っていうけど 「いま」なんとかしてほしいの≫……本当に、何度思ったことでしょう。絵本は、≪だいすき≫とお母さんが子どもを抱きしめる絵で終わっていますが、子どもをぎゅっと抱きしめると、疲れた自分の心がふわっとほぐれていったことを思い出します。

親子のスキンシップには、様々な効用があるそうです。ストレスが和らぐ、情緒が安定する、親子の絆が深まる……良いことばかりですね。スキンシップ研究の第一人者、山口創先生によると、その効果は「ふれられる側」だけでなく「ふれる側」にも同じだけあるそうですから、子どもを抱きしめることで親も癒されるということです。スキンシップは正解のない子育てにおいて“一筋の光”なのかもしれません。そしてその効果は、親子だけでなく大人同士でも、また、手をつなぐ、肩に手をかけるなどの簡単なスキンシップでも同様にあるそうです。

寒さが深まっていくこの時期は、スキンシップに最適な季節ですね。親子で、家族で、はたまた友人と優しくふれあい、寒さや疲れで縮こまってしまった心をそっとほぐしてみませんか。(なかむら・りな)

中村 利奈
中村 利奈

子ども歳時記150 絵本と“こども哲学”/篠原 紀子(『おなみだぽいぽい』 ごとう みづき/作、ミシマ社)

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子ども歳時記『絵本と“こども哲学”』篠原 紀子

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この夏を、こどもたちはどのように過ごしたでしょう。夏休みが終わり、二学期が始まる時期、心が少しざわざわすることがあるかもしれません。

絵本講座の活動をしていて、「小学生になったので絵本は卒業」と言われたことが幾度もありました。でも絵本に卒業はない、ずっと友だちでいられると私は思います。不安な時、迷った時、絵本はいつもそばにいてくれます。

大きくなっても絵本に触れる機会を、という思いから“こども哲学”の活動に絵本を取り入れています。“こども哲学”とは、答えのない問いについて考えたことを、お互いに話し聞きあう場のことです。「自由とは?」「どうして学校に行くの?」「友だちは多い方がいい?」といった問いについてみんなで対話します。決して結論をどちらかに導くことはせず、大人もこどもと同じ目線で、普遍的な疑問について考え続けるのです。

昨年はじめた“こども哲学”の小さな会で『おなみだぽいぽい』(ミシマ社)を読みました。授業で先生の言うことがわからなかった「わたし」は誰もいない場所で泣いてしまいます。隠しておいた大好きなパンの耳も、今日はのどが詰まってうまく食べられません。涙のしみたパンの耳を天井の穴にむかって投げると、その塩気が好きな鳥がキャッチして、たくさん食べてくれるのでした。

この絵本を読んで湧いてきた問いを、こどもたちと話し合いました。「ぼくもこんな気持ちになることあるよ」「悲しいことがあった時どうする?」「泣いて気を紛らわそうとしたのかな」「何か問題が起こった時、解決しないといけないのかな」そんな会話のなかから「逃げるのは良いこと? 悪いこと?」という問いを見つけ、みんなで対話することになりました。

参加者の中学生は、小学校の時は学校がきらいでした。行きたくなかったけれど、学校を休む勇気はなかったと言います。学校に行くのは当たり前のことで、そこから自分が外れるのは不安だったからです。だから、学校に行かないと決めた子はとても勇気があって意志が強いと思ったそうです。

学校に行かないことは、一見すると逃げているように映るかもしれません。でも本当は自分自身と向き合い、立ち向かっているのかもしれないという意見があがりました。本当の気持ちを抑えて、みんなに合わせて学校に行くことの方が逃げているといえるかもしれない、そんな話でその日はおしまいとなりました。

絵本をきっかけに生まれた小さな問いから、さまざまな考えが萌芽します。答えのない世界へ、自らの力で分け入ろうとするこどもたちの眼差しに、私は希望の光を見ます。絵本はいつまでも、私たちにぴったりと寄り添っています。(しのはら・のりこ)

歳時記 篠原紀子
歳時記 篠原紀子

子ども歳時記149 ホームランを打ったことのない君に/舛谷 裕子(長谷川集平/作、理論社)

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子ども歳時記『ホームランを打ったことのない君に』舛谷 裕子

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今年の春、久しぶりに高校の同窓生と、第95回記念選抜高等学校野球大会観戦のために、阪神甲子園球場へ出かけました。母校は出場していなかったのですが、偶然にも出身県である香川県の2校の試合を観戦することができました。どちらも負けてしまいましたが、野球に詳しくない私でもわかるような「手に汗握る」好試合でした。その時、初めて知ったのですが、高松商業高等学校(通称は高商)には「志摩供養」と呼ばれる伝統儀式があるのだそうです。

1924年(大正13年)に開催された、第1回記念選抜高等学校野球大会で高松商業高等学校が優勝した年、三塁手であった志摩定一さんが選抜大会以前より患っていた肺の病気でその冬に亡くなられました。「自分は死んでも魂は残って、三塁を守る」と遺言を残され、その意志を継ぐために後輩たちが1930年代に始めたのが「志摩供養」だということです。以前は初回の守備につく前に、全員で三塁ベースを囲んで円陣を組み、主将が口に含んだ水を三塁ベースに吹きかけ黙祷していました。1978年に高野連から遅延行為及び、宗教的行為にあたるという理由で中止勧告を受け廃止されていましたが、数年前から試合前に三塁手がひとりでベース前にひざまずき、黙祷を捧げているのだそうです。その若者の真摯な姿を広い球場で目の当たりにした時、私にはそこが神聖な場所と思え、心がうたれました。

ちょうどその頃、WORLD BASEBALL CLASSIC 2023(WBC2023)も開催されていました。当初、どれくらいすごい大会なのかもあまりわからず、高校野球のニュースが少ないと私は不満を抱いていました。日本の選手が「侍ジャパン」と呼ばれ、どんどん勝ち進み優勝しました。甲子園球場の電光掲示板には“WBC 日本代表 世界一 おめでとう!”と映し出されていました。そこで初めて実感できました。その後のニュースでも日本人選手や日本人ファンの言葉や、態度、マナーの良さや、品位などが連日報道され、この春はまさに野球漬けの日々でした。

さて、この絵本はいつかホームランを打つために努力を続け、夢を追う少年の姿が描かれています。高校球児やWBCの選手の活躍は、幼い頃から、暑い時も寒い時も毎日毎日練習をした結果なのだと思います。そして、毎日、同じように練習していても結果が出なかったり、怪我などで野球をやめてしまわなければいけない人も大勢います。野球だけではなく、最近は結果を求められる場面が多いと感じます。思い通りにならず悔しかったり、失望したり、心残りがあるまま次に進んでいかなければならない時もあると思います。結果はどうであれ、「やりぬいた!」、「がんばった!」体験を認めたいものです。夏に子どもは大きく成長するといわれています。そして、それは大人になってから役に立つのだと思います。何時も「きっと大丈夫!」と見守り続けていたいものです。(ますたに・ゆうこ)

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ますたに・ゆうこ

子ども歳時記148 想像から始まる『クジラにあいたいときは』/中村 史(ジュリー・フォリアーノ/文、エリン・E・ステッド/絵、金原瑞人/やく、講談社)

歳時記148

『クジラにあいたいときは』

想像から始まる『クジラにあいたいときは』  中村 史

歳時記148
歳時記148

空の色が変わり、緑があふれるこの季節、これから何かが始まりそうな予感に、顔も気持ちも上向きになる。顔を上げれば、視界が広がり、少し遠くのものが見えるようになる。子どもにとっては、大きな変化である。子どもは、読んでもらった絵本や、大人たちの会話、さまざまな場所で目にする映像など全ての情報から、今ここにないものの存在を知っていく。知って、子どもの心がどう動くか、どう足を踏み出すか、その環境に心を配ることが大切だ。

『クジラにあいたいときは』(講談社)は、クジラに会いたいと願う少年の物語である。やわらかな質感の表紙をめくると、静かな語りが始まる。クジラに会いたいときは、窓がいる。窓から見える海もいる。クジラは遠くにいるので、すぐには会えない。待って、眺めて、見つけたものがクジラかどうか考える時間もいる。やがて少年は、部屋から遠い海を眺めるのをやめて、桟橋に立つ。クジラじゃないものを数えながら、クジラじゃないものを見る時間が流れる。待って、待って、待った少年は、ついに小さなボートを得て海にこぎ出すのだ。読み終われば、生きることの美しさが胸に満ちてくる。

子どもが、クジラに会いたいと思うには、まず、クジラの存在を知ならければならない。知ることで心が動き、関心を持つと、そこから願いが生まれる。クジラに会いたいと願う気持ちや、会えるまで待つ時間は、想像することと深く関わっている。希う(こいねがう)という美しい日本語がある。想像することは、希うことではないか。

ジョーン・エイケンの『ナンタケットの夜鳥』(冨山房)には、少年時代に出会った「ピンクの鯨」を追いかけて世界中を航海する船長が出てくる。ピンクの鯨のほうも、昔の友だちである船長が大好きで、近くにきたときには、まるで子犬のようなはしゃぎようである。実は、この物語には、政治的な企みや、遠距離ミサイルを思わせるような新型の大砲が出てくるのだが、ピンクの鯨は、子どもたちの味方になって、島の大人とともに悪巧みをつぶす大役を果たすのである。

いつの時代にも、大切なものを奪われ、日常を脅かされる子どもたちがいる。どんな環境でも、子どもは想像することを知らずに育ってはいけない。ありたい姿を希い、まだ見ぬ人を希い、平和な日々を希う。未来は、いつも想像から始まる。遠くを見ることは、近くを見ること同様、大切なことである。今じゃないかもしれない。この場所じゃないかもしれない。でも、会いたいものには必ず出会えると、暴力と破壊を止める手を尽くすとともに子どもたちに伝えたい。

中村 史
中村 史

子ども歳時記147 「タイパ」と『はなを くんくん』/池田加津子(ルース・クラウス/文、マーク・シーモント/絵、きじまはじめ/訳、福音館書店)

歳時記147

 「タイパ」と『はなを くんくん』 池田加津子

どこからともなく沈丁花の香りが漂い季節の移り変わりを感じます。

歳時記147
歳時記147

最近、「タイパ」という言葉が流行語になっているそうです。タイムパフォーマンスの略語です。情報収集の時間当たりの効率との意味です。録画した映画や、学生の場合は講義内容を倍速、3倍速で視聴するなど、若い世代を中心に広く行われていると報道されています。

情報があふれかえり、ともすれば過多ともいえる情報の海の中で押し流されそうになる現代社会。いかに効率的に情報を処理するかが重要課題のひとつになっていることの象徴かもしれません。

これと対極的なのが絵本の世界ではないでしょうか。たとえば、『はなを くんくん』(福音館書店)。雪に埋もれた林で、くま、のねずみ、かたつむりなど、さまざまな動物が眠っています。とつぜん、みんなは目をさまし、はなをくんくんさせながら駆けていきます。ページをめくるたびにどんどん増えていく動物の種類と数が子どもたちの期待を高めます。その先には雪のなかに咲き出した小さな花がひとつ。春の兆しでしょう。その花を囲んで、みんなは笑って踊り出します。その眼差しには嬉しさと喜びがあふれ輝いています。

カラフルな絵本が多いなかで、全編モノトーンで表現されていて、唯一小さな花だけが黄色に色づけされています。文字も本当に簡潔です。「くんくん」という楽しく優しいひびきの擬音語に導かれ、絵を通してあれこれと様々に想像することを読者にうながすようです。はなをくんくんさせながら、です。

眠っている動物たちがはなをくんくんさせて見つけたもの。それはモノトーンの世界に黄色く色づけされた小さな花。私は、この小さな花が本当に価値あるものを示唆しているように感じています。

長田弘さんの「におい」という詩に、こんな言葉があります。

《心のこもったものは、ちゃんとわかる。心のにおいがするから。うそじゃない。よい心は、よいにおいがするんだ。……何も思い出せなくても、匂いはずっと覚えているというのは本当だ。いい匂いをのこすんだ、いい思い出は。》

 現代社会は情報にあふれています。同時に、普段は意識しなくても、自分の中の無意識の世界には、生まれてから今までに見聞きしたこと、喜んだこと、悩んだこと、そして折り合いをつけてきたことなどなど、膨大な知識や感情が含まれています。いわば、自分だけの素晴らしい情報の世界ともいえましょう。

自分の外の社会の情報に対して「はなをくんくん」。それとともに、自分のなかの無意識の世界という膨大な情報に対しても「はなをくんくん」。

『はなを くんくん』の原題は『THE HAPPY DAY』。幸せな日です。あなたの黄色い花を、ゆっくりと見つけてみませんか。

(いけだ・かずこ)

池田加津子
池田加津子

子ども歳時記146 「言葉はだれからもらったか」/大長 咲子/松居直講演録『こども えほん おとな』(松居 直、「絵本で子育て」叢書)

歳時記146

歳時記146
歳時記146

「言葉はだれからもらったか」 大長 咲子

大長咲子
大長咲子

朝、玄関先の掃除をしていると、近所の保育所に登園する人たちの会話が耳に入ってきます。

競い合うようにお父さんに話しかける姉妹。おばあさんと一緒に歌を口ずさみながら歩く男の子。お母さんと手をつなぎながらちょっとしたお小言を聞かされる女の子。交わされる会話は様々ですが、なかでも一番多く聞こえるのは、子どもの「なに?」「なぜ?」に答える大人の言葉です。「あれは、うろこ雲っていうんだよ。お魚のうろこみたいでしょ。〇〇ちゃんはお魚のうろこ見たことあったっけ」「観光っていうのはね、よそに行って色々な物を見たり、珍しいもの食べたりすることだよ」

言葉を尽くして子どもの質問に答えようとする大人と、それを一所懸命に聞き取ろうとする子ども。その見知らぬ親子たちのやりとりは、箒で落ち葉をかき集めながら聞いている私の胸に朝のピンッと冷えた空気とあいまって清々しい風を吹き込んできてくれます。

こうして清められた私の胸にストンと収まってくるのは、昨年の11月に召天された松居直氏がおっしゃった「私は母親から言葉をもらいました」という言葉です。

松居氏は、かつて首相官邸で毎月一回開催されていた「子どもの世界と未来を考える懇談会」に出席されていました。河合隼雄氏が中心となり、学者や実業家、スポーツマンなどが色々なテーマについて話し合う中、ある月に文部次官から「今月は国語教育についての問題提議をしたいと思います」と提案されました。それを受けて松居氏は「国語はやめたらどうですか」と返されたそうです。次官に睨みつけられながら「どうして国語はいけませんか」と問われた松居氏は「私は国から言葉をもらった覚えはありません」と応えます。そして、松居氏は続けます。「私は母親から言葉をもらいました。だから私の日本語は国語ではなく母語です」と。(松居直講演録『こども えほん おとな』より)

また、「母から言葉をもらったということは、命は母からもらい、その器である身体をもらった。そして命を支える日本語というものを親や兄弟、大人の方からいただいたのだということに気がついた」とおっしゃっています。

人が生きていくうえで最も大切な「ことば」を教育ではなく、生活の営みから自然と獲得していくということの尊さを、松居氏は自らの生い立ちと3人のお子さんの子育てから感じ取り、私たちに伝えてくださいました。そして、子どもと過ごす時間がどれだけかけがえのないことかということも。

私に貴重な親子の会話を聞かせてくれた近所の子どもたちも、いつか空に浮かぶうろこ雲を見上げながら、はたまた、どこか遠くの町に旅をしながら、父母にもらった言葉に、そして命に想いをはせるのではないでしょうか。

(だいちょう・さきこ)

子ども歳時記145 「自分探し」/たさき きょうこ/『くんちゃんの大旅行』(ドロシー・マリノ/文・絵、石井桃子/訳、岩波書店)

くんちゃんの大旅行

くんちゃんの大旅行
くんちゃんの大旅行

「自分探し」 たさき きょうこ

風がどんどん冷たくなって、本格的な冬の季節です。今年も残り少なくなりました。みなさまにとって、この1年はどんな年だったでしょうか。

さて、わたしの息子の話をさせていただきます。息子は今大学1年生です。中学校と高校では、ずっと野球部でした。小さい時はとても手のかかる子でしたので、厳しい野球部でやっていけるのかと、最初はとても心配していました。ところが部活の先生と仲間に恵まれて、息子は変わっていきました。頼りなかった子どもが、身体も心も伸びていく様子は、驚きを感じるほどでした。高校でも野球部に入り、そこでは楽しいことよりも厳しいことの方が多かったようですが、なんとか最後まで続けることができました。

高3の夏に部活を引退して、進路に向けて忙しくしていた冬の初めのこと、息子がこんなことを言いました。

「自分って何者なんだろう」

今まで中学・高校と野球しかしてこなかったので、自分というものを深く考えたことがなかったのでしょう。初めて落ち着いて考える時間を持ち、自分を見つめ直したようです。「例えば歌がうまくて歌手になる人とか、好きなことを仕事にできる人って、本当にすごいと思う。おれには何もない」

自分は一体何者なんだろう。何が好きで何をしたら幸せなんだろう。何ができるんだろう。息子はそんなことを考えているようでした。

『くんちゃんのだいりょこう』は、子ぐまのくんちゃんシリーズの中の1冊です。くんちゃんと、おとうさん、おかあさんとのあたたかな日常を描いた絵本で、どのお話も、くんちゃんを見守る両親のおだやかなまなざしが、とても印象に残ります。『くんちゃんのだいりょこう』は、そろそろ冬ごもりをする時季のお話です。みなみのくにへとんでいくとりを見て、くんちゃんもみなみのくにへ行ってみたくなりました。おとうさんとおかあさんは、そんなくんちゃんに反対せず、やりたいようにやらせてみることにするのです。

わたしはくんちゃんの絵本を読むたびに、同じ母親として、くんちゃんのおかあさんにいつも感心させられます。こんなふうに子どもを信じて、そっと見守る母親は、わたしの憧れであり理想なのです。

大学生になった息子は、いつの日か世界中に、自分探しの旅に出るのが夢だそうです。旅行記の本を読んでいる息子の背中を見ながら、わたしはくんちゃんのおかあさんのことを思い出していました。くんちゃんのおかあさんのように、静かに子どもを見守ることができるだろうか……。

「いつか自分がみつかるといいね」

わたしは心の中で、そっと息子に声をかけました。

(たさき・きょうこ)

子ども歳時記144 父のこと/熊懐 賀代 『いのちのバトンを受けとって』看取りは残される人のためにも(國森康弘/写真・文、農文協)

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父のこと

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熊懐 賀代

蝉の大合唱で包まれていた公園も通りも季節が移り、ツクツクボウシの鳴き声がはっきり聞き取れるようになりました。夕暮れ時に、草むらの虫の声に気づくと、今年の暑さもあと少しかなと思います。

父を見送ってから二度目の秋がこようとしています。一昨年春、父は急に身の回りのことに母の助けを必要とするようになりました。緊急入院した時には、誰もが治療を受けて帰宅すると思っていました。しかし、直ぐに父の体力は検査すら負担という状態になってしまいました。

いつものように夏が来て、もうじき父と別れなければならないのだと私に受け入れさせてくれたのが、友人が貸してくれた『いのちつぐ みとりびと』全4巻(國森康弘/写真・文、農文協)の絵本でした。誰もが生まれてきて、誰もが生を終える。私の周りの人たちも、きっと様々な思いで大切な人を見送りながら歩んでこられていたのだ、とあらためて感じました。

8月、緩和ケア病棟に移った父の元へ、絵本を抱えて通いました。『つきよのばんのさよなら』(中川正文/さく、太田大八/え、福音館書店)など懐かしい絵本を、ただただ静かなその部屋で父の呼吸を確かめては読んでいました。時々父が目を開けていると、きっと届いていると感じられて語りかけました。すっかり筋肉のおちてしまった父の腕や足をさすりながら、どうしてこんなに急にと胸がつまりました。病院スタッフの方が、父の応答がしっかりしていた時はもちろんですが、様々なケアのたびに、どんな言葉も父の耳に届き理解しているものとして、最後まで丁寧に声をかけてくださっていたことに本当に救われました。又、私にも明るく声をかけてくださいました。ほかの病棟では原則面会禁止という緊張感の中で、スタッフの方のあたたかい言葉が、どれほど慰めになったか、感謝の気持ちでいっぱいです。

子どもの頃、東海村の臨界事故のニュースに厳しい顔で憤っていた父。サラエボの紛争の報道をみつめて「本当に美しい街だったんだ」とずっと以前に仕事で訪れた遠い街を思って悲しみと悔しさの混じった表情で繰り返していた父。父が私に教えてくれたことを思い返していました。

言葉で伝えあうのは難しい。けれどたくさんの場面や表情、そして「~だったんだよ」と語り聞かされてきた言葉、それらの思い出が今アルバムのように心にあります。父が好きだった食べ物や日常使っていたものが懐かしいように、書棚もまた人生そのもののように感じます。子どもたちの書棚、わたしの書棚、そして我が家の書棚には、これからどんな本が並んでいくでしょうか。

毎年、正月や孫一人ひとりの誕生日には、お餅をついて祝っては「ありがたいことだ」と目を細めていた父。お彼岸を前に皆で父の郷里に帰りお参りします。命を、思いを大切につないでいきたいと思う秋の訪れです。

(くまだき・かよ)

子ども歳時記143 庭仕事で考えたこと/吉澤 志津江 『みどりのゆび』(モーリス・ドリュオン/作、安東次男/訳、岩波書店)

みどりのゆび
みどりのゆび
みどりのゆび

(モーリス・ドリュオン/作、安東次男/訳、岩波書店)

 

庭仕事で考えたこと

吉澤 志津江

吉澤 志津江

単年度雇用の身分となって休みが増え、庭仕事を楽しんでいる。花々の、高さや時期、色合いなどを考えて植え替え、敷石で通路を作る。何がどこに植わっているのか、芽が出てみないと分からなかった究極のナチュラルガーデンが、わずかずつでも変わっていくのは張り合いだ。が、新しく植えた球根や苗が花を咲かせてくれるのとは対照的に、いつの間にか絶えてしまったものもある。二年ほど前まで咲いていたミヤコワスレが芽を出さず、結局、苗を購入して少しずつでも増えてくれたらと願いながら植えつけた。こんなときには「チトのようなゆびがほしい」としみじみ思う。

『みどりのゆび』((モーリス・ドリュオン/作、安東次男/訳、岩波書店)の主人公チトは、指を触れるだけで花を咲かせることができる八歳の少年だ。庭師のムスターシュじいさんは、チトが“みどりのおやゆび”の持ち主だということを見抜いて、チトの指南役となる。

チトは、刑務所や貧民街などに行って指を押し付けては、町を花で満たしていく。しまいには、武器工場に忍び込んで、工場のあらゆるところに親指を押し付ける。その武器を購入した二国間の戦争は、なんと花を浴びせ合う花合戦になって、ただちに平和条約が結ばれる。ムスターシュじいさんに「これほどすばらしい仕事をするとは」とほめられて、チトは心を熱くする。

物語の最後でチトがなにものだったのか明かされるが、なによりもチトは八歳の子どもだった。

「毎日安心して寝て、安心して起きることはとてもうれしい」(5月7日付信濃毎日新聞朝刊)。ウクライナから県内に避難してきている八歳の男の子の言葉だ。谷川俊太郎さんは『せんそうしない』(講談社)で、《せんそうするのは おとなとおとな》と書く。大人には、子どもの幸せな育ちを保障する役割があるはずなのに、役割を果たすどころではない。ウクライナでは、ロシア軍によって、子どもの命まで奪う所業が繰り返されている。

これは一人の為政者がやっていることなのではない。日本にも同じような時代があったのではなかったか。反戦を表明しただけで拷問を受けて亡くなった人もいる。その時代に生きる大人の、ひとりひとりの責任がそこにある。ハンナ・アーレントの “悪の凡庸さ”の概念を知れば、自分も、いとも簡単に為政者側につく人間となりうることへの恐れを抱くはずだ。

エゴン・マチーセンの『さるのオズワルド』(こぐま社)は、言葉遊びが楽しい絵本だが、本質は深い。ちっちゃなさるのオズワルドは、いばりやのボスざるに、きっぱりと「いやだ!」という。

たった一人でもオズワルドになれるのか自分に問いかけながら、ウクライナのひまわり畑を思って、今日も草を引く。
(よしざわ・しづえ)

子ども歳時記142 読書は苦手ですか?/松本 直美 『獣の奏者』(上橋菜穂子/著、講談社)

子ども歳時記142 読書は苦手ですか?/松本 直美 『獣の奏者』

 

『獣の奏者』上橋菜穂子/著、講談社

またのめりこんでしまった。こうなることも分かっていたのに。止まらなくて全巻プラス外伝まで。獣の奏者』(上橋菜穂子/著、講談社)。初めてこの本を読んだ時は巻で完結という事でしたが、読み終えた時、続きが読みたくて読みたくてたまらなくて、でもそんなものは存在せず、仕方ないのでまた最初から再読したのでした。そんな読み方をしたのはこの作品だけです。年後3~4巻が出た時はその冊とも購入した上でまた巻から一気に読み終えて、余韻に浸ったものでした。

 

作者の上橋菜穂子さんは文化人類学者でアボリジニの研究でフィールドワークの経験もあってこの世界観の物語を生み出されました。2014年に国際アンデルセン賞作家賞を受賞されています。「小さなノーベル賞」ともいわれているその賞は、言語や文化の異なる11ヵ国から選ばれた選考委員によるものです。上橋作品は、現実ではない世界なのですが、根底のテーマに普遍性があり、細部にリアリティがあるので誰もが楽しめる物語だとも言われています。この物語が作者の頭の中で創作された架空の世界だということに驚いてしまいます。

 上橋菜穂子さんは、幼いころに父母からは寝床で物語をそして父方の祖母からは、たくさんの昔話を聞いて育ったということです。おばあちゃんは、自分も耳で聞き覚えたであろう、語り伝えられてきたお話をいくつも聞かせてくれました。しかもおばあちゃんは、私の反応を見ながら、先の展開をどんどん変えてしまいます。おかげで、私は、自分で本を読めるようになるまえに次はどうなるんだろうとワクワクしながら、物語を想像する楽しさを知ってしまったのだと思います。言葉の意味がわからなくても、ちっとも気になりませんでした」と『物語ること、生きること』(講談社のなかで、おばあさんのことを書かれています。

 読書が苦手だと思っている多くの人はもしかしたら、わからない言葉に出くわした時にそのひとつひとつに引っ掛かり、物語を思い浮かべられずに話を読み進められなくて挫折するという体験を繰り返しているのかもしれないですね。また読書に不得手感がある人ほど読み始めた本を読破しなければならないのに出来ないと思い込んでいるような気がします。本の中に入り込めない面白いと思えないなら、その本は脇に置いて次の本を読めばいいのです。その本との相性やタイミングが悪いとでも思えばいいのです。これから読書を楽しめるようになりたい人には、最近は映像化やマンガ化された作品も多いので、好きな作品の原作の本読み易く、おすすめかもしれないですね。また、大人の心に響く絵本も増えていることですので、絵本から体験されてみるのもいいかもしれません。

 

(まつもと・なおみ)