絵本・わたしの旅立ち
絵本・わたしの旅立ち

絵本・わたしの旅立ち
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絵本が私たちに与えるもの
 絵本は、親と子ども、先生と子ども――つまり大人と子どもが、共に楽しむもの、共に経験を同じくして、同じく成長していくものと繰り返えし申してきました。
 それは子どもだけが楽しむもの、子ども専用というもの――お子さまランチというものであってはならない、ということです。
 そのためには何よりもまず、作り手は当然、また大人である読み手も、感動し、成長できるものであることが必要です。
 つまり極端な言い方をすれば、いま大人たちが身につけねばならないものは何か、ということになります。

 大人たちも生きいくうえに、大切なことが沢山あるものですが、その中で「子どもたち」と同じく必要なものは何かということを、見つけださねばならない、ということでもあるのです。
 もちろん、子どもたちには発達に差があります。発達に応じた必要なものは限定されますが、大人たちの理解にどういう温度差があっても、せっかくの絵本です。そこから学ぶもの――を心してひきだすべきだと思います。
 それは、すこし大袈裟な言い方ですが、人間は何のために、何をするために生まれてきたか――いわば人生の真実を学びとらねばならない、学びとれる絵本を選びたいと思うのです。
 そういえば、いま私たちをとりまいているものは、あまりにも、真実でないもの、真実にほど遠いものが私たちを支配しています。

 たとえば、わが家の商売が繁昌であるとか、交通安全とか入学試験に合格するために神仏に祈るだけ。自分の都合や欲望のためにあてにするという身勝手なものが、はびこっています。
 自分が努力をしないで、神仏に祈願、お利益を得ようとすることなど、やはり小さい時期から「おかしい」と思える子どもになってほしいのです。
 おシャカさまだって、こんな話をしています。世界中の力のある祈祷師を集めて、池に石を投げこみ、みんなに「石よ沈むな」と祈ってもらっても石は沈みますし、逆に油を水のうえにまいて「油よ沈め」と祈ってもらっても、やはり油は沈みません。石は水よりも軽くならないと浮かぶことができないし、油は水より重くならないと沈まないのです。
 だから交通安全の「お守り」を身につけるより前夜は良く寝ることの方が安全ですし、運転能力が落ちたと思えば、教習所にもう一度出かけることが何よりです。大学に合格したかったら学力を高めるために懸命に手堅い勉強をする方が大切なのです。原因があってこそ結果が出るのです。
 絵本と直接関係のないようなことを申し、不審に思われる向もあろうと思いますが、私たちは、結果――自分に都合のいい結果をよぶために、何と努力を無視していることでしょう。

 たとえば「三枚のお札」という昔話がありますが、あの小僧は山うばから身を守るためには、やっぱり血のにじむような冒険をしなければならなかったのです。都合よく超能力のお札が出くるなどはつとめて避けたいものですね。また、たとえ怪我をして傷ついても、医学的な手続きより「痛い痛いは、飛んでいけ」などの「おマジナイ」ですませてしまうような種類の話が沢山あります。いいのでしょうか。
 相手が幼児だからといって、そういう安易なことで問題を解決するのは、やっぱり怖いことです。
 人は弱いものです。すぐ単に超自然的なものによりかかってしまいます。そんなことより自分で自分の運命をきり拓いていくような絵本を望みたいのです。
 困った絵本があってもそれを超え、人生の真実を知らせてくれる――子どもと共に「ほんとうのものを追う」大事さ、絵本には私たちを反省させてくれるものも結構あります。いわば宝の倉です。

「絵本フォーラム」39号・2005.03.10


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