一日半歩

大人は「尊敬」を伝えているか?

 人として地域や社会で生きていく上で何が大切かを、子どもたちへ真摯かつ誠実に伝えていく必要があるのではないだろうか。我々大人は、そのためにこそ、もっと時間を使うべきだと思う。では、具体的に何を伝えるか?〈第30号より〉

 小中学生の集まりで「尊敬する人物は?」と尋ねると、両親・教師・友人を挙げる子どもが実に多い。その理由は、「育ててくれているから」「やさしく話を聞いてくれたから」「困っていた時に手伝ってくれたから」―。
 親を尊敬してくれるのは嬉しいのだが、自分に何かをしてくれたから尊敬するというのでは、感謝と尊敬が一緒になってはいないか? だとしたら、直接は自分に何もしてくれていない歴史上の偉人など、子どもたちの尊敬(感謝)の対象にならないのも無理はない。
 しかし、それで良いのだろうか? 「私もああいう生き方をしたい」と思わせる人物こそ、子どもたちの尊敬の対象であって欲しいと私は思う。ところが今、尊敬すべき「ああいう生き方」を子どもたちは知らない。
 新聞を開けば、政治家・役人・会社の社長・警察官・裁判官・検事・弁護士・教師・医師などによる、「あるべき姿はどこにいった」と言いたくなる情けない報道が後を絶たない。
 身の回りを見ても、走っている車から空き缶や吸いかけのタバコを投げ捨てる大人。海や山に行くと、我が子が見ている前ですら平気でゴミを置いてくる大人。会議や音楽会でも、携帯電話のスイッチを切ることすらしない大人。授業参観に来ても、教室の後ろでペチャペチャおしゃべりをしている大人。運動会で、我が子の走る姿をトラック内に入りこんでまで撮影している大人。そんな大人たちが子どもを育てているのである。その子どもが二十歳になり、成人式の会場で騒いだからといって、いったい何の不思議があるだろう。

 しかし、それでも心ある大人はいる。絵本『雨ニモマケズ』(宮沢賢治/小林敏也・バロル舎)に涙を浮かべ、勇気を奮い起こす大人だって少なからずいるのである。例えば、私の尊敬する中学校長は、“学校のあり方”について次のように述べている。
 『学校は温かくなくてはならない/学校は努力がきちんと評価される場でなくてはならない/学校は正義のとおる場でなくてはならない/教師は子どもにとことん関わらなくてはならない/教師は誰からも信頼されなくてはならない/卒業しても、また会いたくなる学級でなくてはならない』
 この校長は、教師も親も生徒も巻き込んで、この“学校のあり方”を必死に実現しようと頑張っている。いや、戦っていると言っても良いだろう。今一番必要なのは、大人のそういう姿だと思う。尊敬できる大人が身近にいれば、子どもの心は自然と育つからである。
 絵本『雨ニモマケズ』は大人の道しるべである。私自身、日常診療や学校保健活動、さらに絵本読み語りを始めとした様々な地域活動を通じて、残された人生、子どもたちが担う二十一世紀を少しでも明るい姿で手渡せるよう力を尽くしていかなければと、賢治に誓わずにはいられない。地域の大人の一人として、―サウイフモノニ ワタシハ ナリタイ。

「絵本フォーラム」35号・2004.07.10

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