一日半歩

大人は死を伝えているか?

 人として地域や社会で生きていく上で何が大切かを、子どもたちへ真摯かつ誠実に伝えていく必要があるのではないだろうか。我々大人は、そのためにこそ、もっと時間を使うべきだと思う。では、具体的に何を伝えるか?〈第30号より〉

 人を傷つけ、死に至らしむ青少年の凶悪事件が後を絶たない。そのたびに、(それまで下劣な低俗番組を平気で放映し続けてきた)テレビ局は、突如、「正義の使者」と化し、加害者が通う学校の校長は半ば「さらし者」のような扱いを受け、したり顔の評論家が社会や教育体制に「もっともらしい注文」をつけるのである。
 日本は、いつからこんな国になってしまったのだろう……。そっと胸に手を当てて考えてほしいと思う。我々大人は、子どもたちに死を伝えているのだろうか?
 市内の小学校へ読み語りに通う私は、高学年のクラスに当たると、『さよなら エルマおばあさん』(大塚敦子/写真・文、小学館)という絵本を読むことが多い。子どもたちに死を考えさせる手始めとしては、とてもよい絵本である。でも、本音としては、それだけでは不十分だと思っている。死を考える機会だけでなく、死を実感する体験こそが大切だと思う。
 私は、通夜の席に、息子たちをできるだけ連れていくようにしてきた。これまでに、現在17歳の長男は6回、12歳の三男でも4回は連れていったろうか。
 「お父さんが大変世話になった人が亡くなった。お父さんが、そして君たちが今、こうして暮らしていけるのも、その人のおかげなんだよ。君たちも、お父さんと一緒に最後のお別れに行ってほしい。死んだ人を悲しみと感謝の気持ちで送り、その家族にいたわりと励ましの心を伝えることは、世話になった者たちにできる唯一の誠意だと思う」
 通夜の席では、私は息子たちを死者の前に正座させ、生前の私とのかかわりを話して聞かせる。人間が死ぬとどうなるのか……。きちんと死に顔を見せる。最後のお別れだからと、冷たく硬くなった手や体に必ず触れさせる。周囲の人の嘆き悲しむ姿を心に焼き付けさせる。いつもと違う両親の姿を知ってもらう。通夜の席での振る舞い方を、身をもってわからせる。私たち夫婦は、それを繰り返してきた。
 一時期、はやりの言葉にまでなった「17歳」。しかし、その年になるまでに、親の周囲で通夜の一つや二つはあるはずである。わが家では、就学前後から通夜の席を体験させてきたが、せめて思春期前の小学生のうちに、わが子を通夜へ連れていこう。
 子どもにとって、通夜での体験がトラウマになることを恐れる人もいるかもしれない。しかし、親が突然死んだ場合は、否が応でもそういう体験をしなければならない。子どもの情緒や性格も考えなければならないだろうが、そこは親の判断と責任で決めてほしい。
 子どもたちに伝えておくべきは、「死に対する現実感、死者に対する畏怖の念、死を悲しむ家族の気持ち」である。社会や教育体制がどうであろうとも、それは親の責任だと思う。

「絵本フォーラム」32号・2004.01.10

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