たましいをゆさぶる子どもの本の世界

「絵本フォーラム」第31号・2003.11.10
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「ぼくはぼく」、でなければいけない。
アイデンティティ喪失の時代に生きるには…。

『ぼくは くまのままで いたかったのに…』

写真  哲学問答をするつもりはない。けれど、なにやら渾沌とした世に投げ込まれていると自分が何者であるか、あやふやに思えて考え込んでしまうことがある。
 ぼくはぼく、そのものだ。日本人として生まれ日本の風土のなかで育った。この国の風俗や文化・伝統に当然のように親しんだ。ぼくの感性や身体の一部はそれら環境が創った。ぼくはぼく、として連続 した同一のものとして存在する。
 しかし、「おまえはおまえではないぞ」と突き放されたらどうか。ぼくがぼくでない、と否認される。「そんなことはない。ぼくはぼくだよ」と叫んでも相手にされない…。果たしてぼくはどうなるか。こうも考える。今・浦島太郎のような話。ぼくはぼくである、として、まったく場違いの舞台に突然放り出されたら自分のアイデンティティを喪失しないで済ますことができるだろうか。
 何が起ころうと「ぼくはぼく」でありたい。いや、「ぼくはぼく」でなければいけない。
 戦後の日本・日本人は廃墟のなかから豊かさを求めて立ち上がる。豊かさの尺度は経済的指標に限られた。「金とモノ」を獲得することだけが豊かさの目標とされた。
その結果が現在。世界第二位の経済大国にはなった。しかし、それは豊かになったと言えるのか。破壊された自然や環境、教育荒廃・犯罪多発に荒む人心の漂流などは豊かさとは程遠い。日本・日本人の多くは自らのアイデンティティを喪失してしまったのではないか。
 整理しようのない情報洪水に振り回される現在、うっかりすると自分が何者であるか見失う。自分が自分でわからなくなる、という厄介な時代に生きるぼくらは、しっかり身構えて、「己を知る」日常を築かなければならない。

 『ぼくは くまのままで いたかったのに…』(J・シュタイナー文/J・ミュラー絵/おおしまかおり訳、ほるぷ出版)は、そんなことを考えさせてくれる絵本である。
 晩秋の山奥。崖の縁に立ち、冬に向かう彼方の空を仰ぐクマのシーンから始まる物語。がんは暖を 求めて南に向かい、樹木は紅葉して枯葉を散らす。クマは冬眠に入る季節だ。このクマが洞穴で冬眠中に世の中が一変する。冬といっしょに人間たちが森にやってきて、木という木を切り倒し、山を削って森のまんなかに工場を造ってしまうのだ。冬眠から覚めたクマには何が起きたのかまるでわからない。何処にもクマの愛した森や山はない。そこに、工場の職長がやって来て「おい おまえ、とっとと しごとにつけ」という。「…ぼくは くまなんだけど…」といっても聞き入れない。課長も工場長も社長もクマ と認めない。望みを絶たれたクマは、作業服をきて髭を剃り、工場で働くことになる。
 再び秋が来て冬眠期を迎えたクマは眠くてしょうがない。工場で眠りこけるクマに怒った職長は、「とっとと、でていけ。くびだ」とクビ宣言。雪の自動車道路を歩き続けるクマ。宿では「労働者はとめてやれない くまじゃ なおさらね」と断られた。
 だが、「くま」と呼ばれたことで、クマは「クマがクマであったころ」を雪深い森に入り考える。「なにか だいじなことを わすれてしまったらしいな」と思うのだがうまく思い出せない。で、雪中で座り込んだま ま考え続けたクマは、そのまま命を絶ってしまう。
 “クマのままでいたかったクマ”は現代化する人間社会に翻弄され、いつの間にか、クマはクマである、ことを見失ったのだろうか。作品は、現代文明を鋭く批判し、コマ割りや大胆なグラフィック処理で描かれたイラストレーションが現在をやんわりと風刺する。
 ぼくはこの絵本をこのように読む。子どもたちに読み聞かせるとかれらはどのように読み取るだろうか。きっと、自分を大事にすること、自分を主体的に捉えることの大切さを肌身にほんのりと感じてくれるのではないだろうか。
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