グランマからのおくりもの

−第4回−
かけがえのない幼児期の「子育て時間」
それを大事に大事に慈しんでください


 生まれてまだ2カ月足らずの赤ちゃんを抱いたお母さんが、混雑を極めるあるデパートの中を少し緊張の面持ちで歩いています。その若いお母さんの表情は、毎日のように繰り返される育児の環境から時には飛び出し、新しい季節の風が感じられる靴や洋服が色とりどりに並ぶところに出かけて気分の転換をはかりたい。それぐらい許してよと告げています。
 今の社会は、女性たちも、学校を卒業すると、あるいは学生時代から仕事に就くようになりましたから、家庭の外の空気を知っています。外の世界には自由があり、何だか明日という日に期待感を持たせてくれるものがあります。多くの女性が、誰にも束縛されず自由に歩いた日の体験を持っています。テレビや広告の紙面を通して、家庭にも様々な情報が容赦無く届けられる社会に生きている私たち。人間は好奇心旺盛な習性を持っていますから、そうした情報に良い意味でも悪い意味でも触発されるのが常です。
 「よし、今日は何が何でも買い物に行こう。赤ちゃんは抱いていけばいい。誰も見てくれる人がいないのだから仕方がない。育児にいささか疲れた気分の転換も必要だし」そんな決心を固めての外出なのかもしれません。でも、赤ちゃんにしてみれば、抱っこ紐に結ばれて身動きできない時間は嬉しいものではないような気がします。言葉が話せたら、「ママ、いやだ。どうにかしてよ」と言うに違いありません。「ゆったりとママと寝転がって、手足をばたばたさせたり、お話をしてもらったり、お歌を唄ったり、一緒にころころと笑ったりしているほうが楽しいよ」と言いたいに違いありません。
 お母さんはデパートの散歩もしたいでしょうが、赤ちゃんが赤ちゃんでいる時間は本当に短いことを考えると、ぐうっと我慢をすることも必要です。この短いかけがえのない時間を、お母さんは赤ちゃんとともに存分に楽しむことです。子育てのために自分が犠牲になっているというような貧しい発想は危険です。曇りのない澄んだ瞳、つやつやなやわらかい肌、小さな手足もやがて27インチのような大きな靴を履く日が来るのだと思いを巡らすことなど、いくらでも楽しめます。
 私は『ことばの種まき』(全6巻、フェリシモ出版)を書いてから、赤ちゃんが一段と身近に感じられるようになり、乳母車でお散歩中の赤ちゃんに出会うと必ず覗き込んでしまいます。与えられた環境に無心で頼りきり、自分の命の全てを預けている赤ちゃん。それを守り、穏やかな心でかかわり合うことが保護者の責任です。どうかそれを忘れないでくださいと、祈るような思いで見ています。
 もちろん、赤ちゃんに続くしばらくの時間も、我慢の持続は必要ですが、穏やかな保護者たちの心に囲まれての環境がなければ、人間の子どもは育ちません。そのような環境を作ることが、親になることを選んだ貴方たちの責任です。
 人間の寿命が延びた今、親たちが自分を中心に生きる時間は、子育ての責任を果たした後、充分に残されています。それも、なお活力ある時間として。

「絵本フォーラム」29号・2003.07.10

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