こども歳時記

〜絵本フォーラム95号(2014年7.10)より〜

子どもたちの手

 ハナミズキ、更紗満天星(さらさどうだん)、牡丹など、近所の家々の丹精された庭を眺めながら出勤している。徒歩6分、勤務する施設の斜め向かい側には、公立の保育園があり、毎朝、登園の親子とすれ違う。「おはようございます、いってらっしゃい」挨拶が口を衝いて出る。今どきのお母さんが、フレンドリーに挨拶を返してくれることが嬉しい。
 
 子どもがいて、その子を見守る大人がいて、朝の挨拶と笑顔がまじり合う、幸せな光景。けれど、その中で気になっていることがある。子どもと手を繋がない親が多いのである。親と子が離れて歩いている。これがとても不思議だ。最初目にしたときは、怒りが混じったような驚きがわき上がってきたものだった。
 一体いつごろからこうなったんだろうか。そして私はいつまで子どもの手を握っていたんだろう。
 上の子のは、彼が10歳の時に弟が生まれたから、たぶん小学校3年生ごろまで。そして下の子は、ある日「親と並んで歩くのは恥ずかしい」という理由を自ら申し述べて、離れて歩くようになった。それでも寝付いたあとに、脱力した彼の手を握り、その暖かさにほっとしたものだった。
 子どもたちの手は、いつでもちょっと湿っぽくて、だいたい私の手より温かかった。

 『どれがぼくかわかる?』(カーラ・カスキン/作・絵、与田 静/訳、偕成社)という絵本では、たくさんの動物に紛れて遊ぶウィリアムが「ぼくがみんなのなかにいたら、どれがぼくかわかる?」と母親に問いかける。母親は、「わかるわ、もちろんよ。」と、たちどころに見抜く。彼は見つけてほしくて、小さな手がかりを残す。けれど断言しよう、手がかりがなかったとしても、子どもがそこにいるだけで、母親は子どもを見抜くだろう。そして何より手を握ってみれば、それは確信となるはずだ。だって私の子どもなのだから。
 手を繋ぐとき、そこには体温が行き来するだけでなく、たとえ一方的だったとしても、親からの思いが子どもに流れていくように思えてならない。

 どうしてこんなもったいないことをしてあげないんだろう。離れて歩く親子を目にするたびにそう感じる。

 俵万智さんの歌集『生まれてバンザイ』(童話屋)に、「ひたむきなものはうつくし お遊戯に子の手が咲かす一輪の花」という歌がある。
 いいや、花を咲かさなくとも、ひび割れていても、ささくれていても、けがをしていても、爪の間に土が入っていても、田んぼでカエルをとったあとの生臭い手でも、我が子の手は美しい、愛おしい。子どもの手をそっくりつつめるなんて、今だけだから、いつか親の手より大きくなっていくのだから、どうか手を繋いであげてと、心の中で呼びかけながら今日も出勤する。
吉澤 志津江(よしざわ・しづえ)絵本講師・吉澤 志津江

どれがぼくかわかる?
『どれがぼくかわかる?』
(福音館書店)

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