えほん育児日記

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~絵本フォーラム第90号(2013年09.10)より~  第 2 回

大切にしていること

 夕方は、家族のやりとりがもっとも豊かな時間だ。夕ご飯の手伝いが始まるまでのひととき、子どもたちは、おもちゃを広げて遊びながら、また食卓で宿題をしながら、お母さんに話しかけたり、ちょっとそばに来てきゅっとくっついていったり。離れたところにいても、包丁のとんとんという音を聞きつけると、ぱたぱたと「お味見」にやってくる。生で食べられないものだと「なあんだ」と帰って行くのが、かわいくもおかしい。余裕のある日ばかりではないが、それも含めて家族の時間だといつも思う。にぎやかに親子の言葉が行き交い、いくつもの家族の物語が生まれ、「あのとき、こうだったねえ」と何年たっても繰り返し語られる。私は、こうしたあたりまえの日常を送ることこそ、本当の豊かさだと考え大切にしている。そのために子育てに関しては、きっぱりと「しない」「させない」という選択もしてきた。

   *   *   *

 上の子が小学校に上がって知ったのだが、お稽古ごとにも塾にも通わせていないのは、一年生のうちから、クラスでも我が家だけのようだった。それでも、不安になったり迷ったりすることが全くなかったのは、子どもの生活において何を一番大切にするか、家族の生活において何を優先するか、日頃から夫婦でよく話しているからだと思う。
 小学2年生の息子は、私に似ず体も大きく運動も得意なため、何かスポーツをさせたらよいとすすめられることがある。だが、私は、子どもたちには、何か習わせるよりも、学校から帰った後は、家の手伝いをする他は、スケジュールなどない時間を、遊んで遊んで過ごすという子ども本来の生活をさせたいと願っている。今、息子が過ごしている毎日こそ、まさにそのものだ。放課後も、まだ力がありあまっている彼は、ザリガニ捕りや、山での秘密基地作りにかけまわっている。この子のズボンと靴下をすすぐバケツの水は、何度かえても真っ黒で、どこでどうしたらここまで汚れるのか、みごとなものである。
 学習塾などは、早くから行かせてもよいことはないと断言できるが、スポーツや音楽などは、そのものにはよい面もあるかもしれない。しかし、子どもがどこかへ何かを習いに行くということは、親やきょうだいが送り迎えに振り回されたり、食事時間がばらばらになったり、寝る時間が遅くなったりすることを意味する。今の満ち足りた生活を犠牲にしてまでさせるかと考えると、「させない」方を選ぶことに迷いはない。
 一方、私にできることでは、子どもたちと存分に楽しめたらいいと思っている。上の娘が小さかった頃、部屋の中で過ごす時間が長かった私たち親子は、よく歌を歌ったり、ピアノを弾いたりした。娘がピアノに興味をもったとき、教室に通わせなくても、私が教えることはできると思いついて教え始めた。もっとも、ピアノ教師の資格があるわけではない。私が弾けるところまでと思って気負わずやっているが、後に下の子たちも加わって、よく続いている。なかでも三人きょうだいの一番上である娘には、日頃弟妹にあわせて我慢させることもあり、彼女と二人でピアノを弾く時間をいっそう大切にしている。姉の弾く曲は、気づけば弟の口笛や妹の鼻歌にうつっており、家族の生活に溶け込んでいるのが楽しい。

 一つのものを選ぶということは、他の選択肢を捨てるということである。普段から考えていること、大切にしていることが、何を選ぶかを決めるように思う。たくさんの選択肢の中から、自分にとって大切なものを見極めること。それは、子どもを持つ以前からの私の指針であるが、子育てにおいても変わることはない。子どもにとって、そして家族にとって大切なものは何か、選ぶ勇気と覚悟を持つことで、要らないものに振り回されずに生活できる。あたりまえの生活を重ねていくことは、心を満たし安定させる。それは、喜びであるだけでなく、大人の私たちには家族を守り育てていく力となり、子どもには、これからを生きていく確かな支えになると私は信じている。

                         (なかむら・ふみ)

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