たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第89号・2013.07.10
●●78

擬音語の楽しみは自分の耳や目を信じて自由に造語を楽しむことではないか

かん かん かん』

 日本語は声や音、物事の状態や動作を表現する言葉が豊富である。いわゆる擬声・擬音・擬態語の数々だ。そしてまた、鳥や動物の鳴き声などが日本語のそれと外国の国々とでずいぶん異なることも広く知られる。実際に聞く音や見る動作の受け取り方は各人により微妙に異なる。だから、ぼくは擬音語や擬態語を定型的には捉えない方が良いと思う。
 たとえば、<かん かん かん> という音。この音からさて、何を連想するか。みなさんの多くはこの音を踏切警報機の音と決めこんでいないだろうか。
 ぼくは十八歳で上京するまで踏切を見たことがなかった。東京の三鷹駅近くのアパート二階に住んで初めて警報音を耳にする。二階から見下ろす眼前に踏切があったのだ。南九州の田舎町で育ったぼくは地響きたてて往来する電車騒音に閉口した。警報音はうるさいだけの不快音。そればかりか、遮断されて開くのを待つ踏切は道路中央を自動車が占め脇を自転車が固めて、通行する人々は道路端に追いやられた。現在でもそうだが、通行人は身の安全を守るのに汲々とする。
 怖い記憶がある。火の見櫓がまだ機能した一九五〇(昭和二五)年頃の冬のはなし。就学前の幼児だったぼくは深夜の就寝中。<かんかんかんかんかんかんかんかん…>、けたたましい半鐘の連続打音にぼくは起こされた。そこで、我が家の裏手に赤く燃え上がった大火を目撃する。…戦慄が走った。
 壮快な憶いもある。小学五年の夏休み、地域対抗少年野球大会に初めて出場したぼくは緊張のしっぱなし。二度目の打席が巡る。ここで目をつぶって振り出したぼくのバットは運よく芯を捉える。不思議なほどバットは軽く振りぬけた。乾いた音を <かーん> と空中に放った打球は二塁打に…。快心の気分がいまに残る。
 踏切の連続打音 <かんかんかん…> はご免こうむりたい。けれど、<かん かん かん …> の音ならようすが変わる。音の強弱に一呼吸といった拍子なり調子が加わると、ぼくの耳はすっかり気分がよくなるようだ。何時ごろからか知らないが、絵本や児童読物の書き手たちは踏切音を<かんかんかん>でなく、<かん かん かん> と描くようにしたらしい。どうしてなのか。
 子どもたちは乗り物が好きだ。なかでも電車は人気者だろう。だが、かつての蒸気機関車のように、モクモクと白褐色の煙を吐く姿や、<ブォーッ、ブォーッ>と咆えながら駆動し前進するたくましさの魅力に勝るだろうか。で、電車物語の書き手たちは踏切通過時を舞台として警報音を電車駆動のパワフルな効果音として描くようになったのではないか。
 絵本『かん かん かん』の舞台も踏切で列車と乗客が主人公である。手創りの立体作品をあざやかに写真で展開させる構成がすばらしい。なによりテキストが心地よい韻を踏み、弾むように起承転結する。アニメ動画に似た心地よい誇張にいやみはない。絵本には健全な面白さの源泉ともなる誇張はあっていいと思う。
 絵本は読者を遮断機の外において、定点から5便の列車通過を観察させる。多彩な材料で創られた造形作品は傑作で親しみやすく、小さな読者たちを宝物さがしに参加させる趣もある。
 テキストがリズミカルに響き快い。<かん かん かん> の警報音とともにとやってきた [んまんま]列車の乗客はオムライスやスパゲティにナイフやスプーンたちで、<うまん うまん> と音韻を踏んで通過する。ぼうしでこしらえた自動車が乗客の[ぶうぶう]列車 は<かん かん かん> とやってきて、<ぶぶう ぶぶう> と去っていく。[ないないば]列車 が <ないないば ないないば>と韻を踏んで通過するのをしたり顔で頷くのが大人とはかぎらない。感覚的に反応するのは子どもたちではないだろうか。絵本は決して饒舌でなくシンプルに擬音あそびに興じている。
 擬音語・擬態語の楽しみは自分の耳や目を信じて自由に造語を楽しむことだと思う。感性ゆたかな子どもであればなおさらのこと定型にとらわれない音あそびを楽しんでもらいたい。
 5月末から6月初旬、6年ぶりにイギリスを歩く。ロンドンやグリニッジの初夏は壮快だ。あのコッツウォルズ村やケント州ウィッスタブル海岸にも足を延ばし、たくさんの音に触れる。気候風土が異なれば聞こえる音も違う。チャールトンパークでカシの木に嘴を突きつけるキツツキが快晴の空に<トットトトットトトットト…> と乾いた軽快な連続速射音を響かせていた。音に遊ぶのもうれしい。

『かん かん かん』(のむらさやか・文、川本幸・制作、塩田正幸・写真、福音館書店)

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