たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 
「絵本フォーラム」第86号・2013.01.10
●●75

人はどうにもならない悲しみに、どう立ち向かえるのだろうか。

『悲しい本』

 人生はいいことばかりではない。悲喜こもごもの生を活きるのが人生の筋道だろう。喜びや幸せを感じることなどほとんどいっときで(そのいっときで十分なのだが)、多くは悲しみや苦しみを感じながら時を刻む。人々はいっときの幸せを掴もうと切磋琢磨する。だから、それぞれの喜びや幸せの背景にはたくさんの悲しみや苦しみが刻まれているはずだ。
 しかし、人生はこんな筋道からはるかにはずれた不条理におそわれることもある。あの未曾有の3・11大震災や原発大事故に遭遇したおびただしい被災者の数々。最近12月はじめにも中央道笹子トンネルであろうことか不意打ちのコンクリート天井板崩落、9人が犠牲となる。不条理は切磋琢磨して積み上げた小さな幸せを理由もなく木端微塵に砕く。こんなときの悲しみをどう語ることができるだろうか。まして家族や愛する人を奪われる悲しみは……。どうにも処理できない悲しみに打ち沈み自暴自棄となることもあるだろう。

 絵本『悲しい本』は息子エディを失った悲しみに苦悶する父が一人称で語る題名そのままの悲しい本である。父はどうにもならない悲しみを自ら見つめて告白する。そして、嘆き苦しみながらも何とか悲しみを処理しようと一縷の光明を見出していくというあらすじだ。息子を失う悲しみに肉薄する筆致からぼくは作者ローゼン自身が父その人ではないかと詮索する。その語りを画家ブレイクが登場人物や情景を漫画風ペン画に淡濁調で彩色して達者に描き上げる。じわりと共鳴する一人語りのテキストと絵が父と息子の間に流れる時間を調節し空間を縮拡させてストーリーを展開する。

 描かれる父は「これは悲しんでいる私だ」とほほえみ見せる表情で語り始める。実は幸せなふりをしているだけで。実際、息子のことを考えはじめると悲しみは大きくなり、どうすることもできなくなる。打ちひしがれた隠しようのない悲しい姿の父となる。
 思い出すのは息子との幸せだったころのことばかり。あかちゃんだったエディ、のびのびと野に海にと遊んでいたなぁ、学童期。そのときどきの姿が父の脳裏をよぎってはもうどうにもならない。父はエディを深く愛した。だが、もういない。悲しみを分担してくれるはずの妻もすでにいない。だから、一人語りは、「よくも、そんなふうに死ねたもんだね」と、亡き息子に毒づき腹を立てるのだ。

 父はなぜにこうも読者をも突き放すように語り続けるのか。深い悲しみや痛みは余人の感情を拒絶するのだろうか。しかし、父はつぎの局面でこんな深い悲しみのすべてを聞いてくれる「ほかの誰か」を見つけて何もかも話すのである。
 だれもが経験するかもしれない抗いがたい深い悲しみ。もがき悩む実際も、心情を何もかも吐露できる人物の存在も、それでも生きぬこうとする人々には必要なことなのだと、ぼくは思う。実際、子や孫の将来を現在に見るぼくの胸に、一人語る父の姿はぐさりと突き刺さる。
 だから、父は悲しみをやりすごす方法はないかと探し出す。で、毎日何かひとつ、得意なこと、楽しいことをやろうとする。そして、悲しみと相対する思い出という幸せな時間が自分の内で動き出すことに気づく。谷川俊太郎がカバーで語るように「悲しみが人をより生き生きと生か」しはじめるのである。
 こうして父は、雨の中のママを思い出し、笑いころげながら通りを歩くエディを思い出す。なによりみんなの誕生日が楽しかった。ロウソクを前にして「誕生日おめでとう」ではじまるなにもかもがすてきだったと、父の語りはつづくのである。

『悲しい本』 (マイケル・ローゼン作 クエンティン・ブレイク絵 谷川俊太郎訳 あかね書房 )

前へ次へ