たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第84号・2012.09.10
●●73

一年生。学びの第一歩は日常の延長線に

くんちゃんのはじめてのがっこう』

 オリンピック只中のロンドンから息子家族の長男がプライマリー・スクール基礎課程を修了したと、報せが届く。プライマリー・スクールとは小学校のことで基礎課程は一年間の準備課程。孫は九月からそのまま一年生に進級する。

 彼我の教育制度は一様ではない。欧米並みに九月入学を実施しようとする検討が東大京大などで進む。歴史や文化に風土の異なる欧米と何でも同じでよいのだろうか。グローバル化などという美辞に踊らされて何だか根無し草のようになる日本を、ぼくは感じている。文化や季節の味わいが決定的に異なる欧米と暮らしや制度はちがっていいだろう。桜花の下の新学期はぼくらの暮らしによく似合う清新な時間や空間を生み出しているではないか。
 だから、ロンドン在の孫はランドセルを背負うピッカピカの新入生になれない。彼地で生まれ育つ二重国籍の孫は日本人だがロンドン人として育ち、ロンドンの児童として日常の暮らしの延長線で一年生となる。

 
  ロンドンからのたよりは長男の基礎課程における通知票を添付する。これが、なかなかユニークでいい。言葉や数の基本習得以外にロンドンで重きをおかれる評価がある。一つに個性や社会性と情動。二つに読み書く力とコミュニケーション能力。三つに知識・経験と理解力。四つに想像力・創造力。他と繋がる力としてのコミュニケーション能力に自ら生み出す力を重視しているのだ。数値や順位の評価なし。生徒の良質の個性をひきだして肯定する。で、おしゃべりで探究心旺盛な男児とわりあい高評の孫の通知票。よくよく見ると教師の指示を強くいやがる一面ありと…。実は、ぼくの知る孫は相当な頑固者、学校でも手をやく腕白坊主にちがいない。


 クマのくんちゃんの学校も九月が新学期である。新一年生の初めての一日を素朴にほのぼのと絵本『くんちゃんのはじめてのがっこう』が物語る。もちろん、学校は森の中。森には森の日常があり、お父さんグマはリンゴ園へ収穫に、ミツバチたちは蜜を吸うのに忙しい。木のウロに住むこうもりも、木をかじるビーバーもそれぞれに営む仕事を持つ。動物たちのしっかりとした暮らしを背景にさらりと描いて話は進む。ペンによる線描に淡い褐色で彩色されたスケッチ風のイラストがやわらかくやさしい。
 「ぼく、学校へ行くんだよ。君も行く?」。登校途中で出くわす動物たちにウキウキする心を吐露するくんちゃんのはずんだ表情がうれしく伝わる。しかし、暮らしの延長線に新学期はあり、入学式のような特別の儀式はない。くんちゃんには哀しいお母さんとのお別れの一瞬もある。

 教室は上級生もいる複式学級だ。新入生は三匹のクマ。で、さっそく授業開始。先生は上級生の一人を指して教科書を読ませ、別の一人を指名して字を書かせた。くんちゃんはまだ字の読み書きができない。上級生が指されるたびに心細く不安になって、椅子の上でどんどん小さくなる。胸が張り裂けんばかり…のくんちゃん。新入生は前の椅子にと指示されところで、何と戸口から出てしまうではないか。同じ新入生のハリエットとスージーは前の椅子で授業を受けるというのに…。
 先生はハリエットとスージーに、名前と同じ「ハ」と「ス」で始まる言葉を知っているかと問う。二匹はたどたどしくも答える。”ぼくにも分かるよ” とは、窓からようすをうかがっていたくんちゃんの心の声か。そして、「ク」で始まる言葉を知っているかの問いに、くんちゃんは窓の外から「クマ、…! 」と叫んで応じるのである。教室に戻ったくんちゃんから心細さが抜ける。何だか自信らしきものも芽生えた。たった一日で、くんちゃんは学校が好きになったのだ。

 暮らしに生きる言葉の音さがしは、子グマたちの学びの第一歩を滑らかにスタートさせた。幼児から断片知識の点取り競争に駆り立てる東アジアの教育事情と、暮らしの中で学びを楽しむことから出発する彼国との彼我の差をぼくらはどう捉えたらよいのだろうか。

 ロンドンからのたよりのつづき。オリンピック開催中のロンドンの町は普段よりも抑制が利いて素直にスポーツを愉しむ雰囲気があるという。成熟した都市にいたずらにナショナリズムを煽る熱狂は似合わないのだろう。


  『くんちゃんのはじめてのがっこう』(ドロシー・マリノ作 まさきるりこ訳 ペンギン社)
 

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