えほん育児日記



   えほん育児日記

   

 

    中尾 卓英(なかお・たくひで)プロフィール

1963年10月・神戸市出身。1987年〜92年・高校教員とNGO(国際交流・協力団体)職員、1992年〜現在・毎日新聞記者。
松江支局、神戸支局、大阪本社社会部、社会部阪神支局、福山支局尾道通信部長など。1995年の阪神・淡路大震災、2000年の北海道・有珠山、東京都・三宅島噴火災害、2004年の新潟県中越地震、インド洋大津波の取材などに携わった。東日本大震災では4月末から約1カ月間、宮城県石巻市、南三陸町、気仙沼市などで取材。12年4月から現職。取材テーマは「農&食」「まちづくり」「防災(減災)教育」など。現、毎日新聞福島支局いわき通信部長

 

 

 太平洋の大海原を臨む福島通りは「あの日」から、二度目のお盆を迎えた。鉦と太鼓で追悼の踊りを奉納する「じゃんがら念仏踊り」や、炭鉱の街として栄えた名残りの「いわき回転櫓(やぐら)盆踊り」などの伝統行事が、ゆく夏を惜しむ家族連れらでにぎわう。だが、今年は多くのお年寄りが「孫にけえって来い、とは言えねえ」と嘆くように、東京第1原発事故による見えない、聞こえない、におわない放射能汚染が濃い影を落とす。
       



~絵本フォーラム第84号(2012年09.10)より~  2012年8月14日記



 

 


 双葉郡楢葉町130頭との牛飼い生活

 メルトダウン(炉心融解)した福島第1原発20キロ南の双葉郡楢葉町は10日、立ち入りが厳しく制限された警戒区域から自由に行き来できる避難解除指示準備区域(年間被ばく線量20ミリシーベルト以下)に再編された。避難を強いられた11市町村の中での区域再編は、飯舘村、田村市、南相馬市、川内村に次いで5番目。原発立地自治体(福島第2)では初めてのこと。毎年この時期、先祖のお墓はもとより新盆を迎えた家々を数十軒供養して回る信仰心篤い浜通りの人々にとっては、節目の帰還でもある。
 楢葉町下小塙(しもこばな)の酪農家、蛭田裕章さん(43)はこの日、前日までバリケード(県警検問所)のあった広野町境を抜けて、古里に入った。やませ(冷害)に苦しみながらも代々、1町5反の田畑と17町歩の山林を守り、こんにゃく芋や炭焼き、養蚕などで生計を立ててきた。祖父政章さん(89)、父公(いさお)さん(70)にならい、名門、県立相馬農業高で学び、北海道・酪農学園大を卒業。昭和30年代に「人に指図されるのは性に合わない」と、酪農を始めた公さんの経営を継いだ。
 牛飼い生活は、朝夕の搾乳と生乳出荷、牧草地管理などなど休日もとれない忙しさだ。親子は牛舎のすべてを流された90年10月の集中豪雨など辛苦を乗り越えて近代化を進め、ソメイヨシノ約200本に囲まれた牧草地が広がる山あいに「蛭田牧場」を開設。130頭のホルスタインが約1トンの良質の原乳を生み出す牧場は、全国からの視察や行楽客も訪れる名所となった。
 子どもたちに楽しさを伝えようと農業体験学習を企画した縁で95年、双葉町出身の姉さん女房ゆかりさん(47)と結ばれ、長女あやのさん(11)にも恵まれた。福祉施設職員のゆかりさんの帰宅は夕刻。あやのさんは、保育園、小学校帰りには毎日、祖父母と父がいる牛舎に通い、ホルスタイン特有の黒の斑点模様から、「リボン」「ピク」など仔牛の名付け親にもなった。
 「うちのミルクはおいしいんだよ。温めた牛乳を先に入れると、ココアもコーヒーも甘くてコクが出るんだよ」。産まれたばかりの牛に哺乳瓶でミルクを与え、牧草地で牛を追い、出産にも立ち会った。絵を描けば牛ばかりで、学校での出来事を話しかけると、「モー」と返事がかえる。そんなアルプスの少女ハイジのような生活に、あやのさんは物心ついたころから「牧場を継ぐ」ことが夢になった。愛娘の成長に寄り添いながら、「もう少し規模拡大して、(生産から加工、販売まで手がける)6次産業でアイスクリームの販売も」と考え始めた家族を、原発事故が引き裂いた。
 
 突然奪われた古里、そして離された牛

 昨年3月12日の第1原発水素爆発後、防災無線は「国道6号を南に逃げてください」とがなり立てた。蛭田さんは4日後、入院中の祖父を気遣いながら祖母と父母を伴って約10キロ南のいわき市四倉町の親類宅に避難した。
 蛭田さんは牧場に通い続け、放射能汚染された買い手のない原乳を搾って廃棄した。そして昨年4月22日、政府による第1原発20キロ圏内の立ち入り禁止措置が決まった。何度も「離れ牛」にすることを考えたが、近所迷惑になるのは目に見えていた。「ごめんな、ごめんな」と背をなでながら〝最後のえさ〟をやる蛭田さんの姿は、多くのメディアに取り上げられた。「何で牛を放たないんだ」と、実情を理解しようとしない人々のネットバッシングにもあった。
 実はその後も、移り住んだ同市の借り上げ住宅から3日に一度、「抜け道」を約2時間走って牧場に通い続けた。車の音を聞くと、牛たちは「モー、モー」と近づいてくる。残った牧草や水を与えたが、仔牛は次々と倒れていった。バイクなどで警戒区域に入った動物愛護団体メンバーが、柵を壊す事件も起きた。牛舎を出た牛は、堆肥舎などで足をとられて窒息死した。
 猛暑の昨夏。糞(ふん)まみれになった牛舎で、衰弱死した牛の傷跡はきれいだった。野犬や猪に喉元などを咬まれた亡骸。残った牛が水分を求めてなめたのだろうか。12月。ついに蛭田さんは残った11頭を安楽死させる苦渋の決断をした。牛はやせ細り、明日のいのちさえ危ぶまれた。「殺されることがわかってるのに、オレに近づいてくるんだ。『なんでそんなに利口なんだべ。暴れてくれよ』と心の中で叫んだんだ」。獣医が薬剤を打つと、痛みから涙を浮かべた瞳に、蛭田さんの顔が映し出された。
 亡骸を埋めるため裏山の穴に運んだトラクターの轍(わだち)、がらんとした牛舎——。蛭田さんは一つ一つの〝生きた証〟をビデオカメラに収めた。「延命させようと通い続けたが、原発事故と放射能汚染の現実を受け止め、『自らの手で処分する』けじめをつける歳月だったのかな」。以後、蛭田さんは自ら命を絶つ方法を考え続けた。そんな時、思いがけず大学時代の酪農仲間から電話やメールが相次いだ。「再開する時は、いつでも言ってくれ。すぐに牛おぐっから」。多くの出会いに支えられて生きていることに気づいた。「人は一人で生きているんじゃない。困った人にお返しをできる人間になりたい」

 届かなかった少女の心からの願い

 
一方、昨年3月11日、勤務先から駆けつけた母ゆかりさんと通っていた楢葉南小学校で一夜を明かしたあやのさんは、翌日、叔母のいる東京都足立区に避難。春、町が役場出張所を置いた約150キロ西の同県会津美里町の新鶴小学校に通い始めた。かわいがっていた牛の数頭が亡くなったと聞いた昨夏、居てもたってもいられず菅直人首相(当時)に手紙を書いた。クラスメートが、便せんや封筒に牛の絵などを描いて応援してくれた。

 「わたしの家族は137(人)です。お父さんとお母さんとじいじとばあばとじいちゃんとばあちゃんと130頭の牛たちです」
 「わたしは牧場をつごうと思っていて、お仕事を手つだってきました。今、生きている牛をぜったいころさないでください。しょぶんはヤダ」
 「牛をはこぶトラックをさがしてください。はこべなかったらえさをあげられるようにしてください。お手つだいできる事ならなんでもしますのでほんとうにお願いします」

 
 願いは届かず、官邸からは返事もなかった。

 自分らしく生きて決めて変わっていく

 
10日朝、蛭田さんの案内で牧場に入った。家族で毎日、放牧、搾乳、出荷、糞かき、堆肥作り、えさやりなどを繰り返した牛舎には今、周囲の山々から放射能を含んだ風が吹き抜ける。
 「危険! 水やらないで エサやらないで 管理しています」。トラック荷台に書き込まれた動物愛護団体向けのメッセージが、蛭田さんのこの1年半の苦闘を物語る。「ミルクのみ 子牛うれしく しっぽふる」。あやのさんが残した句と愛らしい仔牛の絵が、休憩所に残っていた。「宝物だね。あやのが次ここに来られるのはいつになるか、わがんねえけど」。あやのさんには、「すべての牛が犠牲になった」と打ち明けられないままだ。
 あやのさんは昨夏、母ゆかりさんに聞いた。「人って変われるの」。「自分らしく生きていたら、人生は変えられるよ」。新しい環境での学校生活に、引っ込み思案のあやのさんはずいぶん思い悩んだが、スクールカウンセラーに相談するうちに自ら解決策を見い出し歩き始めた。昨秋から週3日、小学校バレー部でスパイク練習などに明け暮れる。
 「避難生活は、善と悪が交互に訪れるんだね」と蛭田さん。自宅と牛舎を往復するだけの生活を離れ、夏休みは、横浜、沖縄、東京ディズニーランドなどへ、冬には大好きなスキー旅行へと出かけられるようになった。あやのさんの身長は10センチほど伸びた。卒業するまでは会津で暮らし、中学からいわきに帰ろうと自ら決めた。「一緒に、風呂に入ってくれなくなったんだ」。蛭田さんはさびしそうに、娘の成長をかみしめる。
 
 櫓に集う 復興に立ち上がる

 
蛭田さんは先月、酪農家仲間ら8人でふるさとの除染作業を始めた。国などが言う人が暮らすために安全とされる年間積算放射線量1ミリシーベルト以下にするために、誰かがやらなければならない途方もない作業だ。牧草を集めたトラクターは、集められた田畑の雑草を巻き込んでいく道具になった。
 8月4日には、下小塙地区の長老や青年団と共に、いわき市の仮設住宅で夏祭りを催した。許可を得て警戒区域に入り、双葉郡最古の木造建築物・木戸八幡神社から部材を持ち出して櫓(やぐら)を組んだ。新盆の家々を巡る「笠踊り」や、櫓太鼓の下であった盆踊りの輪は、地区住民の倍近くの600人に広がった。あやのさんも会津から祭りにやって来て、県内外に散り散りになった親友たちと再会を喜び、踊りの輪に加わった。
 その夜。「2、3人からでも『やっぺ』という気持ちさえあればできるもんだなあ」「いつもの夏だと、20軒も30軒も倒れるまで踊ったなあ」「(アンコールに引っ掛けった)アルコールやガンバレの声が懐かしかった」「櫓を(楢葉の仮設住宅がある)会津美里でも見たいとリクエストがあったんだ」。仲間と飲む打ち上げの酒は、ほろ苦く、甘く、復興に立ち上がる気力をわかせた。
 除染が進んでも、あやのさんを楢葉に連れ帰るのはいつになるかわからない。終戦後、シベリアで4年間強制労働させられた祖父政章さんは、いわきでの避難生活を「極寒の抑留よりしんどい」と、古里の土を踏むことを切望する。今春、楢葉では水稲の試験栽培が始まった。蛭田さんは町に試験酪農を働きかけている。結果が出たら、どこで酪農を再開するか決断できそうだ。
 家族で古里に戻れる日が来ることを信じている。

 (以下はあやのさんが昨夏、官邸に郵送した手紙)

 わたしの家は(福島県)楢葉町で牧場をやっています。蛭田牧場といいます。
 今は、あたりまえのようにやっていったえさも牛にやることができなくなりました。牛も人と同じです。今もとてもつらい思いをしていると思います。だから自分ばっかりひなんしてはダメって思っています。牛もひなんさせてください。
 わたしの家族は137(人)です。お父さんとお母さんとじいじとばあばとじいちゃんとばあちゃんと130頭の牛たちです。
 このまえお父さんが(新聞やテレビに出て)牛もがんばって生きていることをつたえようとしていたので、わたしも何かできることがないかとお母さんと相談して、この手紙を書きました。家もどうなるか心配です。
 牛が17頭も死んでいると知ってなみだが出てきました。でも、ずっと子牛のころからせわをしていたリボンがテレビにうつっていてとてもうれしかったです。リボンと同じようにかわいがっていたピクが元気か心配です。
 わたしは牧場をつごうと思っていて、お仕事を手つだってきました。今、生きている牛をぜったいころさないでください。しょぶんはヤダ。どこの牧場もいっしょだと思います。今、がんばって生きているんです。多く助けてください。
 牛をはこぶトラックをさがしてください。はこべなかったらえさをあげられるようにしてください。死んでしまいます。お手つだいできる事ならなんでもしますのでほんとうにお願いします。  蛭田あやのより

 子どもたちに残す未来を福島で考える

 古里・神戸で阪神大震災に遭遇して17年余り。北海道有珠、東京三宅島の噴火や新潟中越・中越沖、能登半島沖地震、インド洋大津波の被災地などでも取材を重ねてきました。福島いわき着任から4カ月余り。第1、第2原発などが林立し「警戒区域」「計画的避難区域」になった双葉郡8町村では、政府や地元市町村の判断で「避難指示解除準備区域」(年間被ばく線量20ミリシーベルト以下)「居住制限区域」(年間20ミリシーベルト超50ミリシーベルト以下)「帰還困難区域」(年間50ミリシーベルト超)への再編が進められようとしています。
  原発爆発直後、着の身、着のまま古里を追われて避難先を転々とし、一時帰宅で朽ち果てたわが家や、雑草が生い茂る古里を目の当たりにした避難者の方々にとっては、帰還に向けて、ライフラインの復旧、防犯対策、役場、学校、病院などの公共施設の復旧、自宅周辺だけでなく農地山林などを含めた除染、そして東電に対する賠償交渉などなど、多くのハードルが待ち構えています。
 神戸のニュータウンや埋立地に林立した仮設住宅では、先行きが見えなかった2、3年後の夏の猛暑が一番辛い時期だったことを思い出します。翻って「古里再生」のスタートラインにも立てない福島。16万人にのぼる県内外の避難者の中には望郷の念を持つ人、仕事や学校の関係で古里を離れる決断をした家族もいます。すべての選択が権利として認められる前に、避難した人、残らざるを得ない人、賠償をもらえた人、もらえない地域の人の間で「分断」が始まっています。
  「人体実験だ。政府も東電も終息宣言、警戒区域の解除ばかりを優先している」「通学、通院、買い物、進まない除染、健康問題などを抱えたまま古里に戻れというのか」「せめて1週間、仮設住宅で、福島で暮らしてみろといいたい」。いわき市に暮らす33万人のうち、約2万人の方が放射能汚染を逃れて被災地を離れ、同じく約2万人の方々が双葉郡から移り住み仮設住宅、借り上げ住宅などに暮らしています。
 ふるさととして福島に生きてきた人にしか、本当の辛さは理解できないのでしょう。阪神大震災をきっかけに誕生し、国内外の被災地にボランティア活動に駆けつける兵庫県立舞子高校環境防災科(神戸市)の生徒が話してくれた言葉を胸に刻んでいます。「過去の災害に学び事前に備えることで被害は減らすことができる」「防災とは家族、友達、地域の人、好きな人を増やすこと」。どうやって痛みを共有するのか? 沖縄で「ヤマトンチュウに、ウチナンチュウの思いは分からない」と言われ、「かわいそう」という上から目線ではないことば「チムグリサ(悲しみを共有する)」を教えてもらったことも反すうしています。
 
 昨年3月11日以来、何度も頭を駆け巡る詩を紹介します。

 絶望の隣に誰かがそっと腰かけた。
 絶望は隣の人に聞いた。
 「あなたはいったい誰ですか」
 隣の人はほほえんだ。
 「私の名は希望です」
 「あなたにあえて良かった。初めて心の底から笑うことができた」
 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

 広島、長崎、沖縄、水俣、神戸・・・。筆舌に尽くせない痛みを持ち、分かち合ってきたから、「寄り添う」「絆」といった安易な同情は語らない。神戸出身の記者が広島を経て縁あって福島に来ました。4人の子供を持つ父親として、希望の種を、子どもたちに残す未来を、福島で考えながら、お便りを綴っていきます。どうぞよろしくお願いします。  

                                      (なかお・たくひで)

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