■未来を生きる子どもたちへ
8月15日——67年目の「敗戦」の日。本日の新聞には、相変わらず「終戦記念」の大文字が踊っています。旧聞に属することですが、録しておきます。
この国にある原発50基(4基は福島第一原発で廃炉決定)が停止したのはこどもの日(5月5日)。北海道の泊原発を最後にして、国内原発稼動ゼロとなりました。当然のことですが、国内の電力需給に何の問題も生じませんでした。
政府・原子力マフィアが結託して福井県の関西電力大飯原発再稼動を決定したのが、父の日の前日(6月16日)です。下は、その後に経済界の「始末に困らぬ人」(*)たちが発したコメントです。

   原発は人類破滅の魔物です
それでも稼動人間の傲慢



■「始末に困らぬ人」たちの発言
・岡村正氏(日本商工会議所会頭・東芝会長)「野田首相の強い決断に敬意を表する」。
・友野宏氏(日本鉄鋼連盟・住友金属工業社長)「日本経済は原発の稼動なしには成り立たない」。
・大林剛郎氏(関西経済同友会代表幹事・大林組会長)「関西広域連合が再稼動容認する声明を出してから二週間以上の時を要したのは遺憾」。
・佐藤茂雄氏(大阪商工会議所会頭・京阪電鉄取締役)「国の決断が遅れに遅れ、夏の電力需要に十分間に合わない事自体ははなはだ遺憾だ」。
・森詳介氏(関西経済連合会・関西電力会長)「安全が確認された原発について、一刻も早く再稼動に向けた手続きを進めていただくよう求める」。
・米倉弘昌氏(日本経団連会長・住友化学会長)「他の原発の稼動が進むことを期待する」。


*「始末に困る人」《命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり》(西郷南州翁・隆盛)=「始末に困らぬ人」は、上の対極の人たちのことを指しています。


■『戦後史の正体』(孫崎享/著)の衝撃
「蒙を啓く」、という慣用句があります。——無知の人々に必要な知識を与える——と辞典は教えてくれ ます。しかし本書は、そのような形容を超えて、激しい衝撃を読者に与える怖い本です。
人生の後半に差し掛かった私が読んで一月経ちましたが、未だに精神は虚空を彷徨し、落ち着かない日常 を過ごしている有様です。
この本は自らの来し方を、現代史の実相に照射し「再検証すべき」、と厳しく迫ってきます。戦後67年の 事実を丹念に訪ねることによって、現代史の闇を暴こうとする著者の執筆姿勢に心からの敬意を表したいと 思います。

はるかなる昭和の時代が
よみがえり
赤面をする蹉跌あるわれ


■新聞を捨てる人々
マスコミは、消費税増税法案などを審議していた国会を「決められない政治」と批判し、民自公の三党談合法案成立を恥ずかしげもなく、大きく紙面を割き援護をしてきました。人々は、民意を無視したマスコミ報道を「政府広報」「御用新聞」と呆れ、その腐敗ぶりを厳しく指弾しました。
談合法案成立の翌8月11日付紙面(毎日、朝日、読売、日本経済新聞など大マスコミ)は、貴重な現代史の資料になると思います(保存しておきましょう)。
なかでも毎日新聞は社説で《「決める政治」を続けよう》、と増税法案成立を言祝(ことほ)ぎ、経済面で《中小しわ寄せ懸念 価格転嫁策 実行に疑問》、また社会面では《「効果実感させて」 必要疑問 揺れる街 暮らしにどう影響》、と増税法案の中身に対する疑義や負の影響を解説しています。一貫性がないどころか、これを日本語では正しく「支離滅裂」というのではないでしょうか。
そのような言論空間の中でも、ブロック紙の北から北海道、中日、西日本新聞社は、民意不在の中での法案成立を社説で厳しく批判していました。救われる思いです。が、多くの人々は新聞を捨て始めました。

■報道は奮起し「本丸」を突け(朝日「声」欄 '11 年9月22日)
15日付「社説余滴」の「何ともグロテスクな辞任騒ぎ」を読んで、頭のもやもやと胸の奥にあったおもりが少し軽くなった。
鉢呂吉雄前経産相の「死のまち」「放射能をつける」発言報道と、閣僚辞任騒ぎは、はしなくも国会議員の人間的資質と、ジャーナリズムの病理を露呈させたのではないか。
公的立場にある人間には、「役柄に見合った振る舞い」が要求される。その峻別ができない人間が公的役職に就くべきではない。そのような意味において、鉢呂氏の辞任は避けられなかった。
しかし、ジャーナリズムもまた、悲しいまでのリテラシーの衰弱を見せつけた。13日付「耕論」で「マスコミはその矛先を本丸でなく、あさっての方向に向けている」と指摘した藤原新也さんの「まるで小学校の反省会の『言いつけ』のようなものだ」の言葉に、ジャーナリズムの抱える病理が浮き彫りにされているだろう。
「死のまち」を出現させた責任は、政府と東京電力にある。それらの責任追及をなおざりにして、一閣僚の首を取ったことを喜んでいるジャーナリズムは、読者から見放されていくことだろう。奮起を期待したい。

2012年8月15日(ふじい・ゆういち)

前へ ★ 次へ