絵本・わたしの旅立ち
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誤解・絵本と紙芝居の常識

 

何が正しいのですか

 昔ばなしにしても伝説にしても、伝承してくれる大切な語り手があります。語り手はわが家や地域で、小さいときから聞き慣れたお話しを、語り手なりに、しっかりと子どもたちに伝えてくれます。

 その時、語り手が考えることは、まずこの話は何のために語るのでしょう。つまり語る子どもとの関係によって、語る相手の子どもたちの条件によっては、お話のストーリーは勿論、筋だてや、語り方を変えねばならないでしょう。それが語り手への愛というものです。目の障害者や、足に問題があって歩行が困難な子どもを目の前においては、彼らの誇りを傷つけるようなことを誰が語ることが出来ますか。

 柳田国男先生も、そういう人間関係を配慮してお話は変貌していくのが当然だとの思いで、お話の伝統について発言されたものでしょう。

 そういう点では、昔ばなしや伝説の、「ほんとうの話は、どれが正しいかたちか」など、なかなか決めてかかれないようです。

 最近は日本の昔ばなしや伝説が、地域の代表的語り手が個人的に語った生物語を評価するあまり、近年採集された新顔ものを必要以上に絶対視する習慣ができて、迷ってしまうこともあるようです。

 近年亡くなられた稲田浩二先生らが中心になって整理された「日本昔話通観」( 29 巻・同朋舎出版)を少しのぞいただけでも、類話というもの、その周辺にある贋話とか言えないものが、いかに多いかを見つけて、びっくりされるでしょう。

 わが国内だけでも類話と贋話に迷うわけですから、日本人向けの翻訳書にいたっては何が何だか理解せずに騒いでいるのではないかと、批判されても仕方ないでしょう。

 たとえば、忠実に読み聞かせをした直後「その作品は、グリムとは違いますよ」などと言われたら、風船がしぼむようになって、もの笑いになってしまいます。うっかり外国のものは手をつけられない、ということで、昔ばなしの絵本化をみると、諸外国の原話らしいものが翻訳されていますけれど、たまたま原話や類話の中から、たまたまえらび出された原話によるものであったとわかったら、拾いものといえるかもしれませんネ。

お話をえらぶ基準

 ところで絵本に比べて、その構成が非常に近い紙芝居の原話えらびは、少々、安易だといっていいものが多いような印象がするのは事実です。

 筋立ては勿論、お話の具体性を語る書きこみ、そのうえ絵の必要以上の簡略化も、それなりに簡素な造型と認めねばならないでしょう。納得するところが、いくつあり、紙芝居の作者の近年末の努力や工夫を認めたいものですが、なぜ紙芝居の方だけ絵本に比べ、お粗末と言いたくなるのでしょう。

 それには、いくつかの要因があろうと思います。まずいえることは、これは絶対的な . 紙芝居出版社の販売力、従って経営力によるものといわねばならないのです。紙芝居は、絵本のように一人ずつ買ってくれない慣習が永く続いているという状況です。つまり紙芝居出版の経済学のせいといえるかもしれません。

 それから演ずる場所が屋外であったり、演ずるという活動の力にあると思われます。この件に関しては、絵本は「読み聞かせ」、紙芝居は「演ずるもの」という違いが、そうさせているのではないでしょうか。

 ひょっとしたら、いま紙芝居にかかわっている方々すら、「紙芝居はこういうもの」という一種の重い認識すら持っていないのでしょうか。この項、次号に詳細、ご一緒に考えていきたいと思います。


「絵本フォーラム」78号・2011.09.10



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