えほん育児日記
〜絵本フォーラム第78号(2011年09.10)より〜

 NPO法人「絵本で子育て」センターの森ゆり子、大長咲子、舛谷裕子の 3 名は 8 月 2 日(火)、大阪府泉南郡熊取町にある京都大学原子炉実験所に小出裕章先生を訪ねました。ここ数日は新聞に雨マークが出ているにもかかわらず晴天が続いています。車中で原子力発電、エネルギー開発、絵本講座、来期の「絵本講師・養成講座」のことなどを話しているうちに、あっという間に目的地に到着しました。先生の研究室でお話しをうかがうことになりました。開かれた窓からの風と頭上からくる扇風機の風が、初対面の緊張を和らげてくれます。先生への質問は 3 人が交代で行います。頂いた時間に制限がありますので、早々に質問を始めさせていただきました。


 小出先生は、原子核工学科の友人との「生活を言い訳にするような行動はとらない」という約束を 40 年近く守り通して、原子力発電所の怖さを発信してこられました。先生にとっては約束を守るのは当たり前のことかもしれませんが、一般的に言えば、大変強靭な精神を持っておられる、現在では数少ない方のように思います。どのような幼少時代を過ごされたのか、どのような環境のなかで人格を形成されていかれたのか大変興味があるのです。  

下町で近所の子たちと遊びまわっていました

小出裕章 講演の依頼がありましたが、私の日程が全て埋まってしまっておりまして、 4 月以降のお約束はもうしないと決めています。申し訳ないけれど今はお約束できない。年が明けたころ、まだ私が生きていましたら、そしてその時になっても私の話しを聞いてくださるという気持ちがまだ残っているといえば、改めてご相談させてください。他のみなさんにも全てお断りしています。

森ゆり子 先生がお忙しいことは重々承知しております。来年になりましたら、またご連絡させていただきますので、ぜひよろしくお願いいたします。それから、今日の取材は、先日お願いしましたように「絵本フォーラム」に掲載させていただきたいと思っていますので、録音と写真撮影のご了解をお願いいたします。

小出 どうぞ、なんでもご自由に。

 私は先生の生い立ちに大変興味があります。不屈の精神はどのような環境のなかで養われてきたのかと、小さいころにご両親から絵本を読んでもらったりした経験はおありでしょうか。

小出 あんまり記憶ないですね。

 ではおじいちゃんやおばあちゃんと同居されていましたか。

小出 おばあちゃんがいました。

 じゃあ、お話しをしてもらったりという思い出は。

小出 お話しをしてもらったんだとは思いますが、特別にこれといった記憶はありません。

 先生はご長男でいらっしゃいますか。

小出 兄貴が一人おりまして、私は弟です。兄弟二人です。

 学校に入る前の、本当に小さいころの、思い出に残るような物語とかお話しとかはありますか。また、どのようなことに興味がおありでしたか。

小出 私が生まれたのは東京の下町で、うちは零細企業の経営者の家でした。零細企業ですから、親父もおふくろも忙しく働いていました。おじいちゃんは戦争で死んでいました。おばあちゃんがいましたけど、私が生まれたときは 1 歳半違いの兄貴がいましたので、兄貴がおばあちゃんにくっついていて、私は、おふくろにくっついていたように思います。東京の下町ですから、まわりにいっぱい家もあったし、同じ年ごろの子たちがいっぱいいました。まだ、高度経済成長より前の年ですから、東京の下町は本当に江戸の町のようなところで、路地とかがあって、私の家のすぐ裏は、お寺さんやお墓がありました。そんなところですから、塀を乗り越えてあっちへ行ったり、こっちへ行ったりして近所の子たちと遊んでいました。そんなくらいしか記憶にないですね。
  64 年に東京オリンピックがあったのですが、それを見てこの町はだめだと思いました。

中・高 6 年間皆勤賞をもらったすごく「いい子」でした

 中学、高校は、開成と聞いております。地質部に入っておられたそうですね。

小出 よくご存じですね。中学 1 年から高校 3 年まで地質部に、あと水泳部にも入っていました。

 ご著書を拝読しておりましたら、文科系のかたのような表現をされている文章に出会いましたが、思春期はどのような本を読まれましたか。

小出 特別にこれというふうに、これもまた記憶がありませんが、家に賢治さんの本がいっぱいありましたね。中学高校のころは賢治さんの本を読んだこともありますし、特別になにというようなものはなく、そこらにあった本を読んでいたというかんじです。大学に入ってからは、いわゆる大学生ですから自分で稼がなくていいし、まあ自分のためだけに時間を使えばよかったですから、さまざまな本を読みました。

 家に宮沢賢治の本があったということですが、ご家族が買っていて、すでに家にあったということですか。

小出 親父とおふくろが読んでいたのだと思います。それを読んでいました。

 中学高校のころ、感銘をうけた本、また影響をうけられた恩師のようなかたはおられましたか。また、どのような学生生活でしたか。

小出 難しい質問が続きますね。こういうのは苦手です。
  中学、高校時代は、私はすごく保守的な子どもだったので、親からみると、たぶんすごく「いい子」だったと思います。開成といういわゆる進学校ですが、私はそこにいて、中学高校 6 年間、無遅刻・無欠席の皆勤賞をもらいました。学校の勉強もそこそこやりながら、クラブ活動にのめり込んでいました。地質部というクラブでは、部長をしていました。高校 3 年の 12 月まで地質部で仕事をしていて、高校 3 年生の 12 月に「日本学生科学賞」という賞をもらうための仕事を続けていました。ですから受験勉強もなにもしないでクラブ活動をやっていました。

 先ほどもいいましたが、水泳部というクラブにも入っていて、そこはいわゆる日本の古式泳法なのです。夏になると千葉県の館山という所に合宿所があって、ずっとそこにいて夏中泳いでいました。親や大人からから見るとそこそこいい子だったのだと思いますし、またそれなりに自分のやりたいこともやっていました。べつに破目を外さなかったのだと思います。そんな生活ですから、特別に社会的な問題に対して何か活動をしたとかいうことはありませんでした。ただ、ちょうど当時ベトナム戦争というものがあって、「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)というものができてきたころだったのですね。それにちょっと心が動いたことがありました。ベ平連の集会に行ったりしたことがありました。高校の卒業式の日にこのバッチ(殺すなという文字が印字されているベ平連のバッチ)を胸に付けて入って行ったら、体育の教師とけんかになりました。せいぜいそのくらいのことで何もしていません。

答えを求めてもがき苦しみ、出した結論

 大学時代はどうでしたか。

小出 とにかくそのころは原子力の勉強をやりたいと思い込んでいました。大学に行ってからは学生服を着ていました。大学一年のときはほとんど無遅刻無欠席で、皆さん信じられないような生活でした。大学時代はすべて自分の時間なので、本もたくさん読みました。この社会がどうなっているかということも少しは考えざるを得ないようになって、こんなになってしまったということです。大学は 68 年に入学してからは、原子力の勉強がしたくて、ただひたすら勉強をしていました。そのころ、女川に原子力発電所を建てるという計画が確かそのころにもあったのだと思います。あまりそのことの意味がまだわらからないまま過ごしていて、一方では学生闘争があったのですが、その意味もわからないまま過ごしていました。今聞いていただいたように一年の間は、ほとんどまじめに、親や社会からみれば、ほんとにいい子という姿で、私は勉強をしていた時期がありました。一方で女川の問題があって、一方で学生闘争というものがあって、自分がやっている学問が、社会とどういう関係があるかを問われたものですから、それに答えをだそうとして、もがき苦しんで、結局出た結論が原子力はダメだということだったのです。もうそうなってしまえば、あとは簡単で止めたと 180 度転換して、社会から見たら今度は「悪い子」になったわけです。それからは授業には 1 時間も出ませんでした。

家族は常に信頼していてくれたと思います

  180 度の転換に、ご両親、お兄さまの反応はいかがでしたか。

小出 両親は、僕のやることには、もう任せるという感じで、信頼してくれていたということかなあ。何も文句は言いませんでした。好きなようにやれと。私がパートナーを見つけて「結婚するよ」といった時も、「はい、そうか」と言っただけでした。こいつが決めたら何をいっても結局駄目だと思っていたのでしょう。後で親父がそういうことを言っていました。
  兄貴は僕に輪をかけたように保守的でした。大学の時、僕は東北大学にいまして兄貴は千葉大学の医学部にいました。もう全然別々に暮らしていましたので、ほとんどなにも話すこともありませんでした。


  生家に宮沢賢治の本があったそうです。書棚を見ればその家庭の文化度がわかるとも言われます。先生が東北大学へすすまれたのもその影響なのでしょうか。

 〈雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ 夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク……ソウイウモノニワタシハナリタイ〉 ふと「身体的文化資本」という言葉が頭に浮かびました。小出先生の生き方を指し示した言葉かもしれません。

 「私たちは、いったい何をどう伝えていけばよいのでしょうか」という問いに次のようにおっしゃいました。「嘘をついたらいけない。間違ったことをしたらあやまる。これだけです。教育は大切ですね」

 著書やユーチューブを拝見し、想像していたとおりのかたでした。ありがとうございました。(もり・ゆりこ)

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