たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第71号・2010.07.10
●●60

沖縄のことを、知っていますか。
ガマ ( 洞穴 ) で死んだ少年のこと

『石のラジオ 』

 ぼくらは沖縄のことを、沖縄の人々のことを、どれだけ知っているか。

 ヒロシマ・ナガサキを語り、各地の空襲体験を語り継ぐ人々は多い。けれど、本土といわれる地域で、太平洋戦争における沖縄の戦いはどれほど語られているだろうか。

 終戦と時を同じくして齢を数えるぼくも、沖縄について学校で学んだ記憶がほとんどない。 70 年代に入り歴史を学ぶ必要に迫られたことで沖縄の実相の幾らかを知るが、人々の精神や感情の軌跡までは判らない。複雑な人々の心情をたやすく理解できるはずもなく、ぼくは沖縄に寄り添う努力を続けるしかない。

2009 年晩秋、普天間基地移設を「国外、最低でも県外」と宣して鳩山内閣が実現する。しかし、そう考えたのは首相個人と連立を組む社民党党首だけで沖縄の人々に期待だけ持たせて内閣は米国とだけ合意する。ほぼ従前案に戻るとは何としたことか、人々の怒りが沸騰するのは当然だろう。

 そんな沖縄を考える一冊の絵童話。沖縄戦を題材に野坂昭如がドキュメンタリー風に童話創作に挑む。そして、黒田征太郎が胸突く絵画展開で伴走する。

 物語は太平洋戦争末期、沖縄の少年の話。少年の住む村は慶良間諸島を北に見る小さな漁村。こんな漁村だから空爆はないだろうと、誰もが心配なんかしなかった。ところが、 1945 年3月になると村に米軍機が飛来、日本兵もやって来た。米軍は空母からグラマン、ロッキードを、サイパン・テニアン島から B29 を飛ばし群青の夏空に爆音を轟かせた。

 みなさんは知っているか。敗色濃厚となった日本が本土防衛のために沖縄を見捨てていたことを…。ぼくが知ったのは恥ずかしながら戦後も 25 年たってから。ひどい話ではないか。

 実際、沖縄は日本で唯一の地上戦の舞台となった。3月 26 日に慶良間、4月 1 日に読谷に上陸した米軍はその2日後に北谷村まで進出する。この間、日本はまったく抵抗しない。抵抗できなかった。本島は南北分断。南へ逃げた島民は摩文仁で 1 日に 100 人も殺されたという。

 米軍は少年の村も襲う。砲弾の破壊力に村人たちはおろおろと逃げまどう。もちろん、少年も逃げる。父の形見の鉱石ラジオをリュックにしまい機銃掃射や焼夷弾から逃げた。いつしか母さんとも村人たちともはぐれた少年はガジュマルやクワの森を一人で歩き続ける。少年は海へ出たかった。こうして、物語は途方もない過酷で残酷な少年の逃避行を描き続ける。

 老人の三弦の音を聴きつけ爆弾が炸裂した。爆風で少年は気を失い、気がつけば燦燦と陽照る禿山にひとりきり…。広がる焼跡、至るところに割れ目が走り、蠅や蛆虫がたかっている。死体を埋めたと少年にも分かる。老婆が「寂しかろうねえ」と声をかけるが、こんな惨状で寂しさの感情がどんなものだったか少年には判らなくなった。まるで地獄絵図なのだ。

 少年は海辺で洞穴 ( ガマ ) を見つける。ここなら誰もこないはずだ。ラジオの波長を合わせにかかるが雑音ばかり…。落ち着きを取り戻すと老婆の「寂しかろうねえ」が妙に気になるではないか。

 洞穴から出て夜の波打際を歩くと容赦ない艦砲射撃に遭う。何とか洞穴に戻るが少年の衰弱はひどい。横たわる少年の耳に石のラジオが告げる「沖縄の戦争は終わった」の音声。戦争は6月 23 日に終っていた。けれど、少年には何のことだか…、判らない。

 8月 15 日正午すぎ、うつらうつらしていた少年は石のラジオが妙な節回しの声を発するのを聞く。「センゲンヲジュダクスルムネツウコクセシメタリ」。玉音放送であった。少年にはもうどうでもよかった。父さん母さんの唄とはずいぶん違ってその声を下手だなと感じながら、少年は死んだ。その少年の名は誰も知らない。物語は終る。

 こんな体験を持つ人々は沖縄に数多い。戦争の不条理を身に染み込ませて生きる。そんな沖縄に終戦後も米国は永く居座り人々を統治した。日本復帰後も米軍はなお居座る。基地のない本土並みの幸せを祈願した沖縄の復帰の願いは何処へ葬られたか。知らんぷりして日米当事者は基地存続を確認し復帰の体裁を整えたのではないか。沖縄の人々と本土の日本人の思いの間に乖離はないか。沖縄を、ぼくはまだまだ学ばなければならない。

『石のラジオ』 ( 野坂昭如・作 黒田征太郎・絵、講談社 )

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