たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 
「絵本フォーラム」第69号・2010.03.10
●●58

太っちょ少年のことばが車椅子少女の心をとらえた

『わたしの足は車いす』

 齢のせいか、持病のせいか、体の節々がおかしい。立ち上がるには腕をテーブルに置き「どっこいしょ」となり、歩調ものろくなる。厄介なのは目で、近視に老眼、さらに緑内障を患い、拡大鏡なしには文字をうまく読み取れない。難聴の右耳も心もとない。

 思うようにならない体をつくづく厄介に思う。そう思うのは、多くは思いのままに動かせたかつての体をぼくが知るからだろう。生まれながらに障害を持つ人々はどうだろうか。ぼく自身が体の不自由を感じはじめて、障害を元より持つ人々の不自由さを一心に想う。

 『わたしの足は車いす』の主人公アンナは足に障害を持つ。足は思うようにはならないけれど、ゆっくり時間をかければ着替えられる。ソックスだって感覚のない足を片方ずつ持ち上げればちゃんとはける。アンナは何だってやれる元気な少女なのだ。麻痺している両足は車椅子なしでは動けない。だが、車椅子さえあればなんだってやれる。

 で、学校が休みのある日。アンナは掃除洗濯で忙しいお母さんからスーパーへのお使いを頼まれる。お母さんはアンナの不自由な足のことなど一向に気に留めない風である ( ? ) 。お使いは、アンナにとって「はじめてのお使い」。一瞬不安がよぎるが、うれしさが勝り「…だいじょうぶ、やってみる」とアンナは張り切るのだ。

 休日の町でアンナはおしゃべりしたそうな幼女に出会うが、母親がさっと手を引き幼女を遠ざけた。大人たちは車椅子のアンナをじろじろと…。子どもたちの遊ぶ広場では太っちょの少年がなんだかんだとからかわれている。「なにさ。他の人と違っているからって馬鹿にするのはよくないわ」。いささか過反応に腹を立てるアンナ。うすっぺらな同情なんかいらないし、異物を見るような目なんかするな、というのだろうか。

 ぼくだってそうだが、障害者のことをよく分かっていない。手を差しのべていいか悪いか、どう話せばいいのか悪いのか。…こんなふうに考えること自体が間違っているとも思う。実直素朴に向き合えということではないか。

 縁の高い横断歩道でアンナは戸惑う。車椅子では絶対無理だ。何だってできるアンナもここでは降参する。だが、同情するような目で見るくせに、見て見ぬふりの大人たちは手を貸さない。押し上げてくれたのは前述の太っちょ少年だった。「ありがとう」はアンナの素直なことばだろう。

 スーパーでは、アンナがミルクの棚に手をのばそうとすると店員がにっこり笑って渡してくれた。リンゴ売場でも同じ。何でだよ。自分で取れるんだ、勝手に取ってくれるなよ。すっかりアンナは怒り出し、店員は目を丸くする。涙するアンナ。…アンナの過反応をぼくは責められない。

 「泣かないで」と寄ってきたのは、あの太っちょ少年だった。「ジギーっていうんだ」。以下はふたりのダイアローグ。

 「みんなが、私を、何にもできない子だと思っているの」/「車椅子にのっているからだよ」/「だって、足が麻痺しているのだもん」/「マヒってなんだい」/「動かないし、何にも感じないことよ。車椅子はわたしの足なの。でも、わたしは他の子どもと同じよ」「違うよ。ちょっと、違ってる」/「違ってないわ」/「違ってるよ。ぼくもちょっと太っているから普通とは違ってるんだ。…だけど、違っていてもいいのさ。違ってるのって、本当は、特別なことなんだから」

 ジギー少年は、すごい。すてきな少年ではないか。ときに「ひとりでできる」と突っ張るアンナをすっかり説き伏せて「違っている」ことを受容する大切さを語るではないか。ジギーは特別なことを「個性」と捉えているのだろうか。すっかりふたりは打ち解ける。ジギーの語りはつづけてすごい。「きみはもう、ひとりでもだいじょうぶだよ。助けがいるときは、まわりの人に頼んでごらん」。

 で、縁の高い歩道の前。アンナは男のズボンをひく。「すみません。車椅子を持ち上げてくれませんか」。男は「悪かったね。気がつかなかったよ」と自然に応じたのである。

 自身も車椅子生活の作者が紡いだ物語を、演劇美術に通じた描き手が彩色された漫画風ペン画でディテール細かく展開する。アンナの心の動きを伝える素朴さがいい。

 ジギー、そして、アンナに、ぼくは素直に学びたいと思う。

『わたしの足は車いす』
(フランツ = ヨーゼフニク・ファイ作 フェレーナ・バルハウス絵 ささき たづこ訳 あかね書房 )

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