絵本・わたしの旅立ち
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拡がる集団への読み聞かせ
同じように見えても、紙芝居とはまったく違います

■集団への読み聞かせ

 相手はさまざまな子どもたちです。厳密には年齢的にも、それぞれかかえている欲求や興味の傾向が異なるかもしれません。だから物語の内容も、どんな子どもにも共通するような題材で、それになるべく単純でわかりやすいものでなければならないでしょう。

 だから登場する人物が少なく、しかもお互いその違いがわかるような外面のかたち、性格が、はっきりしたのもが必要です。

 そのうえ、その人物間の関係が明瞭で、大げさにいえば敵か味方かが、明白でなければなりません。情緒的で煩雑な、また曖昧でモヤモヤしたものでない方が良いのが当然です。

 警察署長対税務署長というよりは、虎と狼を描いた方が、形だけでなく社会での役割の区別すら、よくわかってくるのではありませんか。

 そして物語の筋、プロットも、原因と結果とが直結して、初めから終わりまで、まっしぐらに展開し、プロットの筋みちに深く関係しないエピソードなど、いかに興味を添えるものであっても、勿論不要です。

 しかし全体的に山坂のない平板であり、だらだらと同じ調子が続くようでは困りますから、確乎たる揺るぎのない「起承転結」が組織的に採用されることが、望ましいことです。つまり初めがあり、展開しての末、クライマックスで受け手の気持をわっと昂揚させ、そしてこれ以上ハランを呼び起こさない安定した終着駅で終わる——という形です。これは絵本だけに限らず芸術や芸能の基本的構成の基礎になっています。

 そのプロセスの中で、たとえばこれからプロットを展開しようとするときに、今後起こる筈の原因を、どれだけ明らかにし、どれだけ秘密にしておくか——つまり伏線を仕掛けることも、物語やストーリーの密度を高め、筋の進行を深めるためには必要ですが、しかしあまり複合的過ぎでなく、たとえばドラマが広がる途中で、つい見落したり聞き落としたりする部分があっても、結構そのあとの続きが続いてわかる——チョット矛盾するようですが、のん気な開放的な安易さもあっていいでしょう。

 年齢が低ければ低いだけ構成が単純という原則があっても、そういう幅の広い揺らぎには目をつむりましょうか。

■ 内容に即した絵とは?

 子どもたちの席に遠近があるという条件が、絵についても、きびしく付いて回るものです。言いかえると前の席の子どもと、後ろの席の子どもが、同じ絵が同じ絵に見えなければならない鉄則を無視できませんから、集団向絵本の制作には、思いがけないほどの配慮が待ち構えているものです。

 いちばんの問題はやっぱり人物です。物語は登場人物の相互関係の変化によって繰り広げられるものですから、人物の図柄は当然大きくなります。しかも表情が展開のカギになることが多いわけですから、喜怒哀楽がチャンと描けてなくてはならないのです。けれど厄介なことにその顔の表情の中心が目なのです。だから目の動きがわからないことには人物の表情がわからないわけです。そのためには左右の目の大きさが、何メートル以内なら、すべて自然に視ることが可能か、子どもたちの視力の限界と座席との距離の関係が、どうなっているか。私たちなりに普段から確認しておくことが大切です。

 そして更に人物についての問題もさまざまありますが、とにかく先にも書きましたように人物だけでなく全体的に何が書かれているか、ページが捲られると直観的にパッと理解できるものでなければなりません。そのために筋の展開に関係しない背景は部分的に省略するか、『ぐりとぐら』のように白地で残すか、『うさこちゃん』シリーズのように、原色一色でベタッと背景を変えるとかの工夫を勧めたい。また人物は当然背景から際立たせるためには、相当太い輪郭で引きたてねばならないでしょう。こうしてダメを出していくと絵の質は違うものの「赤ちゃん絵本」の条件に似ています。

■似ているといえば、

 絵本と同じく「文章+絵+語りの演技」として別物である筈の紙芝居と全く同じ要素ではないかと思われかねませんが、勿論似ていても全く同じではありません。紙芝居の上演と読み聞かせとが、どこが本質的に同じようで同じでないか。違うものか。

 これから次にハッキリさせたいと思います。


「絵本フォーラム」68号・2010.01.10


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