たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 
「絵本フォーラム」第68号・2010.01.10
●●57

悲しみこらえ哀しみ誘う少女の暖かな想い。

『かあさんをまつふゆ』

 哀しさとはどんな感情だろうか。悲しさとは何かしらちがう哀しさ。心痛み泣きたくなる思いを悲しさというなら、そんな悲しさの表情をおくびにも出さずに心にだけとどめおくのが哀しさだと思う。苦しみ悲しみを忍耐強くこらえる切ない想い。こんな堪忍する気持を哀しさと捉えたい。

 日本の現在。経済の大失速から始まった「失われた二十年」は社会の奥深くまで蝕み続ける。一億総中流などとおだてられた社会はまるで大昔の話だ。進む格差社会。進む少子社会。残酷な事件はあいつぎ、悲しい心痛む出来事でメディアは満杯である。突出した自殺大国ともいわれてしまう。だが、悲しさや残酷さを横溢しても、何故だか、哀しさを感じとることは少ない。こらえ踏みとどまろうとする心の軌跡を出来事の当事者たちにあまり感じないぼくはまちがっているのだろうか。

 児童・生徒 ( 小・中・高校生 ) の暴力行為が昨二〇〇八年度は五万九六一八件。対前年で七〇〇〇件近くも増える。小・中生の伸びが著しい。痛さ悲しさに耐えかねてこらえられずにキレル。生徒同士で手加減なく殴りあい、教師の首を締め上げる。哀しさを感じる前に悲しさ痛さを心に留めおくこらえ性なく爆発する悲しみがある。 ( 文部科学省「問題行動調査」 2009.11.30)

 貧しさに堪え、悲しみをこらえる家族や地域が存在した時代。哀しみのなかに希望をつなぐ強い生活があった。『かあさんをまつふゆ』はそんな生活を描く絵本である。

 戦争の時代。哀しさがそこかしこにあった。母と祖母の三人で寒村に住むエイダ・ルース。貧しくとものびのびと健やかに育つ黒人の少女だ。そんなエイダの家庭に波風がふく。かあさんがシカゴに働きに出るというのだ。余所ゆきの服をカバンに入れるかあさんの手。ドキッとするエイダは溢れそうな涙を懸命にこらえる。暖かくてやわらかい母さんの手。かあさんはエイダを抱きしめほほとほほを寄せる。

 しとしとふる雨が、茶色い野原をきらきら輝かせる雨はしとしとと…。母さんは語る。「エイダ・ルース、世界中の何よりもあんたが大好き。わかってる?」「うん。雨よりも大好きなんでしょ」。エイダがつぶやき、かあさんが囁く。母子は 100 回もこのやりとりを繰り返す。 100 回どころか 10 万回くらい繰り返した。生活を創り支えるために出稼ぎにゆく母と子心に何故に母が出てゆくのか以心伝心に解して悲しみをこらえる少女。もちろん、希望を失わずに…。そんな少女の思いを哀しさと想いたい。

 相互に交わす愛情がじわりと読者を捉える心に染み入るいい絵物語だ。リキテックスだろうか油彩のように塗り重ねた深い色彩にリアルな描出。ドキュメンタリー映像のような画展開がテキストの行間を語る。

 「可愛がったら駄目」とエイダにぼやき厄介者だと知りながら野良猫を同居させるのを許す祖母。手紙を運ぶ郵便屋さんは祖母と孫娘ふたりにとって希望の橋渡人なのだろう。雪降りしきる窓外にしっかり目をやって希望と切り結ぼうとするシーンの哀しいまでの光景は美しい。美しさは暖かさに通じて印象的である。

 果たして、郵便屋さんは手紙を差し出した。「エイダ・ルースに伝えて。もうすぐ帰ります」。流れるようなきれいな文字は、何度も何度も繰り返したくなる言葉を歌うのである。

 凶作が襲った東北の農村で、戦時下銃後の貧しさの中で、心ならずも遠く離れて生きることを余儀なくされた多くの日本人がいた。期間工など出稼ぎの人々に支えられる大企業の実際もある。哀しさのなかで辛抱強く生きる日本人がいることも知っておきたい。

『かあさんをまつふゆ』
(ジャクリーン・ウッドソン文  E.B. ルイス絵 さくまゆみこ訳 光村教育図書

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