たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 
「絵本フォーラム」第67号・2009.11.10
●●56

愛犬と口笛で遊びたい。一心が通じて口笛が鳴った

『ピーターのくちぶえ』

 ぼくの愛犬・牝犬ハッピーは、十二月の生まれで誕生日を迎えると十四歳となる。中型犬で人間なら一歳が五・五歳と勘定されるから七十七歳。真黒だった体毛も白髪が口や顎のまわりを蔽い、目や耳が少し怪しくなった。年恰好からすれば、まだまだ元気である。ただ、つい一年ほど前まで、ぼくを先導して急かせた彼女の歩行はのろくなり、ぼくの一、二歩後をゆるりと歩くようになる。

 もっぱら、ハッピーとのコミュニケーションは、僕の手と彼女の前足で握手 (?) したり、鼻や頭を撫で体を摩ってやること、何だかんだと声かけすることである。ときに、牧歌的な童謡などを口笛鳴らして聞かせたりする。レスポンスは、気持よさそうに身をあずけてきたり、鈍重な犬語で「ウヮン」とか「ウォン…」とかで応じる。人影うすい場所で解き放し姿を見失った場合など、呼び戻しに口笛を鳴らすと、遠い地点から太くて高音域のよく通る吠え声を返して、年老いたとはいえ一目散に戻る。なぜ犬が愛されるか、だから愛しいのか。理由を求めなくとも犬との交流はすばらしい。

 ところで、ぼくの口笛だが、実は最近掠れてよく吹けない。呼吸器・気管支系疾患の持病を持つことにも因るが、「それは加齢に拠るんだよ」と友人にはあっさり片づけられる。もともと、上手ではないが、学童期に林のなかを駆け巡り、今は益鳥として捕獲禁止のめじろ捕りに口笛も誘引手段のひとつとしたのだから、そこそこ吹けていた。そこそこ、としか言えないのは幼なじみのなかに口笛から指笛・草笛なんでもござれの達人がいたからだ。以来、笛に類する楽器を操る人はみな天与の才を持った人だと尊敬することになる。実際、かれらが羨ましい。

 で、掠れて上手く吹けない口笛のぼくと老いて遠い耳の愛犬との口笛コミュニケーションはいささか危うくなってきた。ボディ・コミュニケーションがあるかぎり揺るぎはしないが…。

 ところが、だ。たまにわが家にやってくる小学三年生の孫が散歩につきあい、いつのまに修得したのか、気持よさそうに口笛を奏でるではないか。嬉しいやら口惜しいやら…とはこんなことか。

 さて、この孫だがどういうわけか、学校と地域の二つのサッカークラブに在籍して週に二日は練習づけだ。嫌いじゃないようだからいいのだけど、冬にはスキーにも励むので、じいさんのぼくは大丈夫かと、首を傾げるばかり。で、当然のことだが、走りもボール蹴りも、もう何だって、ぼくは勝てない。それだけでなく、次から次に修得した芸や術を「ね、見て、見て」と胸を張り、「ね、ぼく、すごいでしょ。じいじに教えてやろうか」とくる。

 達成感がもたらすのか。生きる自信に連なるというのか。熱中時代が生み出すあれやこれやの修練は子どもたちをどんどん育てる。もちろん、挫折という試練もたくさん経験しながらのことだと思うが…。

 絵本『ピーターのくちぶえ』は、吹けない口笛を何とかして吹こうと何度も何度も挑戦する少年を描いた絵本である。一九六四年の作品。子どもたちの思いは、今も昔も、洋の東西も隔てなし。「そうだよ、ナ」「そうだよ、ネ」とみんな手を打つに違いない。

 少年は、豊かなどっしり体躯のお母さんとスリムでお洒落なお父さんとの三人家族。そして、どうやら三人に懐いているダックスフンドのウィリーがいる。些事に構わぬ太っ腹そうなお母さんがほのぼのとした家庭の雰囲気を醸しだす。

 「口笛が吹けたらいいなあ」と思うピーター少年。口笛鳴らしウィリーと遊びたい。だから、口笛に挑戦する。だけど、笛は鳴らない。吹いても、吹いても鳴らない。

 口笛が鳴ればウィリーだって気付いてくれるはずだと空箱に隠れて再挑戦する。ほほを膨らませ唇をそぼべて懸命に吹く。だけど、少年の口笛はさっぱり鳴らずにウィリーはやってきても素知らぬ表情で通り過ぎる。帽子をかぶりお父さん気分になったピーターは大人だったら吹けるだろうと鏡に向かって口笛を吹く。音は出ない。ああ、またまた駄目ではないか。

 そうだよなぁ、と思う。笛吹き達者を天才と考えるぼくだから、容易に口笛なんか吹けないと思っている。口笛でなくとも、ボールをグローブで捕球できるまでに、どれくらい練習したことか。自転車だって、成人用しかなかったけれど、生傷だらけで練習を重ねてやっと乗れるようになったのではないか。ぼくだって一緒さ。そうなんだよ、ピーター。もう少しだ、がんばれ。…なんだか、ぼくは、いつのまにかピーター少年を応援しているではないか。

 再び、空箱に入るピーター。ウィリーがまたやってくる。もう、息がつづくかぎりに吹きに吹くピーターの口笛。…そして、とうとう、音が出た。

 口笛が鳴ったのだ。飛ぶようにウィニーが駆けて来た。ピーターが両親を前に何度も何度も口笛を鳴らして見せたのは当然だろう。誇らしげに満足気に…。よかったなぁとつくづく思う。

 作者キーツは一方で、少年を一人ぼっちで遊ばせている。信号機に寄りかかり佇むピーター。口笛挑戦の合間に少年はぐるぐる回りに興じて目を回し、チョークを使って道路に線を長々と引くという具合。ほのぼの家族を披露しながら、黒人少年の一人ぼっちの姿を垣間に描き見せるキーツの思いはどこにあるのだろうか。

 そんな憂いを最後には一掃して一笑させてしまうのだから、キーツという絵本作家はすごいと思う。

 最後のシーン。ピーターはお母さんにお使いを頼まれる。道連れはもちろんウィリー。で、ゆく道中、口笛を吹きどおし。もちろん、帰る道中も吹きどおし。胸を宙に張り、自慢げに…。少年の心は泰平である。

『ピーターのくちぶえ』 ( エズラ = ジャック・キーツ作 きじまはじめ訳 偕成社 )

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