絵本・わたしの旅立ち
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絵本・わたしの旅立ち

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出会いの二つのかたち

 わたしは家庭で子どもたちと共に、絵本を読むことを「読み聞かせ」などと呼んで、不用意に使われることには、相当抵抗感をもっています。

 そういう気配を示しただけでも「読書運動を裏で否定する男」などときめつけられ、非難されることが多くて、いつも苦笑させられている昨今です。

 というものの、わたしはむしろ反対に、子どもが絵本をどうすれば、現在以上に本の経験をさせるか、そのために積極的に、その活動に参加しているくらいなのです。

 ただ善意で参入しているくせに「読み聞かせ」という言葉にこだわると、非常に誤解される用語なので、それが心配だからです。

 つまり「聞かせる」という言葉は、おとなが自分を高みにおいて、子どもたちに恩きせがましく「絵本を択んで与えるという意識」がヌケヌケと見えてくるのです。

 子どもと絵本とお母さんなど大人との基本的な関係は、そういう風に高い大人の場所から低い子どもたちに「恩きせがましく聞かせる・また上から下へ下す」などという思いあがったものではなく、同じ平面にあって、子どもがお母さんと向いあって、共に楽しむもの、一冊の絵本を仲だちにして経験をわかちあい、そして共に成長する、というものでなければなりません。

 これは中世以来、蓮如が語る「平座という関係」というものですが、繰りかえすと、読み手であるお母さんが感動したのと同じ絵本を、受け手として同じく感動をする。そのためにも、お母さんは妊娠出産以来、毎日共に生活個人史に即した選び方、共に同じ経験を共有できるような絵本を選ぶことが必須であり、わが子のすべてを知ることが、初めて緻密な子どもたちの「心の栄養」としての役割が果せるというものです。

 親子といっても勿論、他者との間では見られない微妙な特徴をもつ両者、例えば野球の投手が、それなりに工夫したボールを全力で投げると、待ちかまえていたキャッチャーのミットに、スポンと入る共同作業に似たかたちのような読書。これが本来の絵本の読み方だといえるのではないでしょうか。

 そういう絵本の送り手と受け手との緊密な関係は、まさに親と子の関係の在り方と全く同じものと理解していいでしょう。だから絵本の家庭読書は自然子どもとの接触が殆ど家庭内に限定されている点、その子どもたちが乳幼児から余り遠くない子どもたちの絵本生活でもあるのです。

 そういう絵本とのかかわり合いの基本的な対し方に比べると、一方、集団に対する絵本を読むかたちが相当変わってくると考えるのが当然と言えます。

 集団への読書の送り手は、まず成人やお母さんであっても、対象がわが子だけではなく、子ども個々は、たとえ年令は同じにしても、家族構成、成育歴が全く違うだけでなく、外部からの文化的な刺激がそれぞれ異なっている——つまり環境が全く違う子どもたちです。従って情緒的な部分も相当違う筈で、興味のあり方・ニーズも同じとはいえないでしょう。

 だから絵本の選択も家庭のように全くいつもいっしょに暮らしている子どもに即すということだけで絵本の種類、物語の類型、文章の難易度を無視して決めるわけにはいきません。集団を構成する個々の興味の持ち方などを配慮するより、集団として共通性を基準にしなければなりませんし、対象の子どもたちの個々の特徴より一般性に根ざしたプランで対応しなければならないのです。

 特に最近は幼稚園や小学校、或いは子ども会で先生やボランティアが絵本読みを熱心に進めるようになったので、同時に多数に同一の内容を送りとどける集団読書の効果的な側面が優先にされ、個々の子どもと対称に応した選書がむつかしくなり、普遍性の強い絵本が教材になり、多数の子どもたちに効果的に伝達するためにも、やはり「読み聞かせる」姿勢が必要となりました。

 以上のような二つの方式を目標とすれば創作法も全く違う筈ですが、最近のブック・リストでは明示されることも読書を語るときにもその相反する二つの方式もありません。残念なことですが、絵本の絵や伝達の手法も当然区別されなければならないのですが、そういうことの特質を考えず絵本の絵が描かれ創られているし、勿論伝達の手法、音声、演技について配慮されない大方の傾向はいつまでつづくのでしょうか。次号は具体的な実例を語りたいものです。

○家庭での読書の件に関しては、当NPO発行の単行本、「絵本・わたしの旅立ち」に詳しいので参照して下さい。


「絵本フォーラム」66号・2009.09.10


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